「迷わず成仏するためにーホトケから仏へー」 (続き)

質問Α.ぅ鵐匹簔羚颪諒教ではお葬式をしないと聞きました。なぜ日本の仏教ではお葬式をするのでしょうか。


死者に対して態度を分類すると、二種類に大別できます。
 一つは死霊を忌み嫌い恐れるという立場です。もう一つは、死者を敬慕するという立場です。一見対立する考えのように思われますが、多くの民族、そして我々日本人の中にも両者が並存しています。
古代まで遡っての論証は難しいことですが、奈良平安時代頃から日本人は霊という存在を恐れていました。源氏物語や紫式部日記等の文学作品を読むと、生霊が浮遊して人に危害を加えるという恐怖、死者が怨霊となって祟りや危害を及ぼすことについての記述がたくさんあります。

 そうした恐怖や祟りから逃れるため、二つの方法が取られました。一つは、怨霊を鎮めるため神社を建立し神として崇め奉るという方法です。菅原道真の怨霊を鎮めるため天満宮が建てられ、平将門を鎮めるため神田明神が建立されました。もう一つは、仏教の僧侶による鎮魂のための法要です。その都度神社を建立することは時間的にも費用的にも負担がかかることもあり、仏教による鎮魂儀礼の方が広まったと考えられます。僧侶による行力や威神力への信頼があったといわれております。

 また、先祖を敬い、追慕するという伝統はかなり古くから日本人の中に認められるようです。一族の長もしくは創立者を氏神として敬い祀るという例が古くから見られます。その代表例が、皇室の先祖を祀る伊勢神宮であり、藤原氏の先祖を祀る春日大社です。
 一方、平安中期から浄土教思想が広がり、来世での極楽往生を願う人が増加しました。来世での極楽往生を願う人、家族を極楽に行かせてあげたいと願う人。こういったニーズに応える仏教儀礼が求められたのでしょう。そして、死者を極楽に送るため、仏教による葬送儀礼が行われるようになったと考えられます。但し、こういう鎮魂儀礼をしてもらえるのは、鎌倉時代頃までは皇族貴族や地方の豪族そして将軍守護地頭などの有力武士に限られていました。

 仏教による鎮魂儀礼には二つの型があり、死霊を追い払う祈祷の型と死霊に仏戒を授け仏弟子にして救い出す授戒の型があります。先祖を敬い大切にするという立場からは、仏戒を授け仏弟子とする方が望ましいと言えるでしょう。曹洞宗が行なう鎮魂の儀礼は後者の授戒の方です。鎌倉室町時代以降、禅僧特に曹洞宗の禅僧は一般民衆のニーズに応え、庶民の葬儀を務め、庶民のための鎮魂儀礼を行なうようになったのです。


質問А〇狢里里海箸鬟曠肇韻噺世辰燭蝓∋爐未海箸髻屮曠肇韻砲覆襦廚噺世辰燭蠅靴泙后J教と関係ありますか。


 ホトケの語源については多くの異説があります。仏教史研究の立場から、中国で仏教がインドから遠来した頃仏教のことを「浮屠」と読んでいたことに起因するという説があります。
 有名なのは、柳田國男の説です。柳田の著書『先祖の話』「ホトケの語源」では、「死者を無差別に皆ホトケというようになったのは、本来はホトキという器物に食饌を入れて祭る霊ということで、すなわち中世民間の盆の行事から始まったのではないか。」という考えを述べていますが、その根拠はあまり明確ではありません。

 本来は「仏」(覚者)と死者とは無関係なのに、日本では共に「ホトケ」と呼ばれます。「これは日本仏教史上の画期的な出来事」であり、死者を「ホトケ」=仏と位置づけたことで、仏教が庶民の信仰を独占することができた所以であると言えるでしょう。死体であるホトケを仏教の鎮魂儀礼により仏の世界に誘引教導するのです。

 それゆえ「死者(ホトケ)を仏に移行させる葬祭の専門家として、仏僧は不可欠の存在と見なされ、多くの葬祭執行に携わってきたのです。これは「人生苦を解決すべく仏道を行ずる」という仏教本来の在り方とは異なった様相を示していますが、死に行く人の来世に希望を与え、死者を送る人々に安らぎと癒しを与えてきました。葬祭仏教というのは日本人が自ら選び取った宗教文化であると言えるでしょう。
死者と仏陀が混同されることは好ましいことではありません。しかし、死者(ホトケ)を葬式法事という仏教の鎮魂儀礼を通し仏としていく、という仏教文化に私達のご先祖もそして私達も育まれてきた。このことは覚えておいて頂きたいと思います。



質問─(戒とはどういうものですか。


 仏弟子となる際に、師匠となる和尚さんから授けていただく仏様の戒めです。宗派によって多少の違いがありますが、曹洞宗の場合は三帰戒(仏法僧の三宝に帰依するという誓い)を受け、三聚浄戒(仏教教団の規則を守り、良い行いを積み、すべての人々のために力を尽くすこと)を受け、十重禁戒を受け、これら十六の仏戒を守ることを誓います。

 戒めと言うと、命令や禁止事項のように思っている方も多いと思います。確かにキリスト教やイスラム教の戒律は絶対神による命令であり、禁止事項です。仏教の戒(インドの言葉で、シーラと言います。)は、もともと「習慣づける」という意味です。御仏のおしえに、照らされて「ウソをつくことは良くないことだ。」「他の命を奪ってはいけない。」といったことを自覚し、そういう過ちを犯さないよう、自分自身の生活を良い方向に正しい方向に習慣づけて行くものが、仏戒なのです。


質問 死んだ人たちはどこに行くのでしょうか。


 この質問にはさまざまな答えがありえます。というのは、宗教によって異なってきますし、民族によっても異なってきます。また、風土即ち生活環境によっても違ってきます。一人一人の持っている宗教、信仰、世界観、倫理観、他界観によって大きく異なってくるのです。すべての人に共通する答えは有り得ないのです。
 また、同じ仏教徒と言っても宗派によって説明は異なっていますし、その人の信仰の度合いや修行体験の深浅によっても異なってくると思います。死後の世界を精神的世界と捉える人もいれば、実際の空間的な世界と考える人もいます。各人の受け留め方次第と言うしかないのです。
 基本的にすべての仏教徒に共通する「死後の世界」は、仏国土です。仏の国土です。仏の世界です。ちなみに浄土とは、浄らかな仏国土-浄仏国土-が縮まった名称であると言われています。仏国土がどこにあるのか、それは経典によって説明が異なっています。例えば『阿弥陀経』では西方十万億土のところに阿弥陀如来の浄土があると説きます。別の経典では、東方に薬師如来の瑠璃光浄土があるとされています。天の遥か彼方(兜卒天)に、弥勒仏の浄土があると説く経典もあります。

 民俗学の立場からも、様々な指摘がされています。海の側に住む人々は、死者の霊はすぐ近くの島に行き、それから遠く離れた海上にある死者の世界に行く、と考えています。山間部に住む人々は、死者の霊は自宅の裏山に行きそれから近くの山に昇り、さらに有名な霊山ー恐山や月山や高野山などーに昇って行く、と考えています。

 こう説明していくと却って混乱する方も多いと思います。あなたのお宅のお仏壇の中に御先祖がいる、と御理解いただくのが一番わかりやすいと思います。仏壇は仏様の世界そのものです。本尊のお釈迦様と高祖道元禅師太祖瑩山禅師が教えを説かれ、仏弟子となり戒名を頂いたご先祖様たちがお釈迦様道元禅師瑩山禅師の下でその教えを受け修行し、子孫であるあなた方を見守っている。それが曹洞宗の檀信徒にとっての仏国土であり、そのことを表現しているのが、皆さんのお宅にお祀りしている仏壇なのです。



質問 家族や親族に病気や事故が続くので不安になり、或る占いの先生に診てもらいました。そしたら、先祖の一人が浮ばれないで迷っている。それが原因です、と言われました。本当でしょうか。


 恐らくウソでしょう。「先祖が迷っている。供養が必要です。ご祈祷が必要です。」こういう言葉は、この手の占い師、拝み屋さんと呼ばれる方々の常套手段です。迷っているのは、御先祖ではなく、あなたです。占い師は最初にあなたの家族構成や先祖について聴き取りをしたと思います。その上で、病気や事故の原因を先祖の一人と決め付けるのです。普段、御先祖の年回法要などを怠ったり簡略にしている人たちは、自分が手抜きをしていると言う負い目があるから、占い師の託宣にドキッとしてしまい、それを信じ従ってしまうのです。

 ご先祖は自分の子孫の繁栄や幸福を願っていると思います。自分の子孫を呪ったり祟ったりする先祖は、いません。葬儀の際、戒名を戴くのは、仏戒を受け仏弟子となったからです。仏弟子となり仏の世界に導かれているご先祖が、浮ばれず迷っているということはありません。むしろ、あなたが迷っているのであり、こういうあなたの「迷い」がご先祖を悩ませ心配させると思います。
ご先祖たちは仏の世界(仏国土)で一生懸命に仏道修行されているのです。私たちは一周忌や七回忌等の法要を通して、ご先祖様の仏道修行の応援や後押しをしているのです。そして、読経(お経を唱えること)や聞法(法話を聞くこと)に努めることは、ご先祖をご縁としてご先祖と共に、仏道修行に励んでいることに外なりません。
 私たちは人生の中で、様々な病気やいろいろな天災や人災に遭遇します。自分自身の注意や行動で防ぎ得る場合もありますが、自分自身になんら落度が無くても様々な条件の下で思わぬ災難に遭うことがあります。我が身の不幸を嘆きたくなることもあるでしょう。傍から見ても、同情を禁じえない場合もあります。だからと言って、災難や事故をご先祖のせいだと思うのは、情けないことです。