2020年07月14日

 

白い靄のかかった川。
川の向こうには、いくつものの山がどーんとあり、その川岸に、山の裾を這うように、白い煙を吐く蒸気機関車が走っている。
川には、筏を組んだ男の大人が2人、上手に竿を使って、筏を下流に流していた。

これが、海辺の街の神奈川県・葉山町から、熊本・坂本村へ引っ越してきた、最初の、私の幼い時の、球磨川の記憶です。
当時、今はもう無い、荒瀬ダム建設が始まる前でした。

母は、祖父のコネで、タイピストとして、現場の事務所に雇われていました。
後日、出来たての発電所で、母は、地方公務員として、働いていました。

球磨川は、私の空気のような存在の、心の故郷です。

急流のため、河原の石ころは、みんなまーるく角がありません。
幼い頃は、その小石の中を、下駄で、ぴょんぴょん飛び歩いていました。
小石といっても、軽ーく見積もっても、30㎝はある重くて、結構な小石でした(笑)

夏場は、畑でちぎった胡瓜など、川に投げて、それをめがけて泳ぎ、腹が減ったら、そそのまま、その胡瓜をかじって小腹を満たしていました。
泳ぎ過ぎて、唇が紫色になると、友達と言い合いっこして、熱い石を唇に当てて、暖をとっていました。
秋は、秋で、大量なススキが、風に揺れる風景は、壮観でした。

小学生まで、中学に上がるまでには、その急流の球磨川を往復して泳ぎ渡らないと、地元民扱いされませんでした。

私は、小学6年生の夏、球磨川横断泳ぎが出来て、義務を果たしたよ―な気持ちで、とっても嬉しかったことを、いまでも覚えています。
後で考えたら、それは、男子のみだったと気付きました( ̄▽ ̄;)あせあせ(飛び散る汗)

普段は、友達と、その小石をまーるく積み上げ、その中で、ままごと遊びをしていました。

常に、球磨川は、ゆったりと流れ、山々を映して深緑でした。
私は、川で泳ぐというより、2mほどの川底に、素潜りで石にしがみついているのが、何故か心が落ち着きました。
川底から、川の流れの中、見上げる太陽が、とても明るく、暖かく、美しくって、いつも私の心を穏やかにしてくれました。

親から遊び過ぎと追い出されたり、人は理不尽……という言葉も知らなかった……だと思った時、よくプチ家出で、球磨川の川辺に来ました。
向こう岸には、発電所の、煌々とした明かりが見え、それでも満天の星空の下、球磨川の流れの音を聞いて、「あ…私は未だ生きてる」と、そのたびに自覚させられました。

九州に毎年出没する、台風は、球磨川の氾濫を起こし、5年に一度ぐらい、半んぱない台風が来て、毎年、また家が流れている、今年は○○軒見た。
今年の台風は、大きいねとか、普通に話していました。
握り飯・ローソク・缶詰・魚肉ソーセージは、各家庭の必須アイテムでした。

小学生時代、新聞配達所の、他の土地から来た大人が、球磨川の○○に家を建てると聞いたとき、ソコは危ないと言いたかったけれど、大人たちから「よこちゃんは、でしゃばりだ、黙ってろ」と、言われ、黙っていました。
案の定、新築の家が流され、今思い出しても、すまなかったと心が痛みます。

洋裁学校時代や、高校生時代も、台風の、泥の後片付けを、何度もやりました。
今でも記憶に残っているのは、屋根に乗って、台風見物していたら、がめついので有名だった、同級生のお母さんが、「あ…布団が流される、よこちゃん取って」と、言われ、私が身を乗り出して、布団袋を引き寄せようとしたとき、母親が、「洋子、やめなさい」と、ヒステリックに叫んだことが、印象的でした。
いつも小言と殴ることしかしない、私の母親が、私を心配していると、衝撃的で、今でも覚えています(笑)

台風の後片付けは、コレって、ポッチャン便所のモノもまじってるなーと、自覚しつつ、泥片付けをしましたが、あの粘りと重さは、未だ忘れられません(笑)


私の感覚は、球磨川の自然が、私を育ててくれました。