2019年05月27日

 

ふたつめの宝物は、親友の長女・恵理子です。

親友とは、今は無き出版社『婦人生活社』で、出逢いました。
漫画家・立原あゆみさんの紹介で、行った先の編集部で、煙草を吸いたいという私に、えらそーに灰皿を出してくれたのが彼女です。
私は、てっきりベテランの女性編集者だと、恐縮した思い出があります。

彼女は、読書家であり、好奇心の強い、常識的でいえば、常識自体が存在しない、無邪気な、アンニュイな雰囲気で…当人は自覚していないけれど……ハッタリをかませる人でした。
外見も、アグネス・ラムのような、胸が大きく、腰がキュッとしまった、スタイルの良い女でした。
親友は、当時としては背も高く165㎝もあり、天然ボケも入っていて、
とてもカッコよく、可愛かったです。

しかし、私は、そんな彼女の知識と、知ったかぶり…実は彼女の思い込みで…真っ赤な嘘…を
えらそーに喋るのに、本気で信じ込み、たちまち魅了されました。

実際、親友は、温かな人柄で、私の陳腐な話も、いつもちゃんと聞いてくれました。
それは、彼女が、自分の初詩集を出した25歳。乳呑児の亜子を抱えた私が、27歳の時でした。


その数年後、親友は結婚し、初めての妊娠で、私は、いつも少しずつ大きくなる彼女のお腹を撫でて、
「煙草と酒は、出産するまでやめとけ」と、小姑のように親友に文句を言いつつ、
彼女のお腹に、いつも何かしら話しかけていました。



恵理子が阿佐ヶ谷の産婦人科で生まれたことを聞いて、私は、速攻訪ねました。
病院の玄関の扉を開けた途端、元気な赤ん坊の泣き声を聞いて、彼女の子供だと直感しましたし、事実そうでした。

恵理子は、難産の末に産まれ、へその緒が首に巻き付いていたとかで、カエルさんのような飛び出た目玉の赤ちゃんでした。
お世辞にも「可愛い」とは、言えませんでした。
私が思わず言った言葉は、「わぁーカエルさんみたぁい」でした(T_T)

その時、まず私が、瞬間に思ったのは、どんな子でもいい……親友の子供だもの、どこにだってお手てつないでお散歩に行くぞ!!
……大人になっても同じ顔だと思っていた私あせあせ(飛び散る汗) 


恵理子は、普通の赤ちゃん顔に戻り、私は、毎日、恵理子に会うために、彼女の家に日参しました。
恵理子のカエルさんの目は程なく治り、瞳の大きな可愛らしい赤ちゃんになりました。

私にとっては、可愛くて可愛くて、亜子に注げられなかった愛情を、いっぱい注いだつもりです。

チャリンコの前の籠に、大人しい恵理子を乗せて、
「どーだ、可愛いだろー」と言う思いで、私は、心が何故か誇らしかったです。
チャリンコの籠に居るのはお人形さんだと、周囲の見物人は、時々動く恵理子に、「可愛い」という感嘆の嵐で、
とても嬉しかったことを覚えています。

離乳食も、何故か一旦、テーブルから全部落とし、それを拾って食べる面白い子でした。
親友は、離乳食の後期には、テーブルの下にビニールを敷き詰めていました(笑)
……その残りを、私は、毎回、喜んで食べていましたが……( ̄▽ ̄;)

「恵理子のうんこが白いンだけど」、彼女が訴えましたたが、私は、ふーんと無関心でしたあせあせ(飛び散る汗)
「恵理子の瞳が、緑がかっていて…」と、彼女。
「そりゃ、瞳が大きいからだよ」と、私…。
「恵理子は、色が黒い」という彼女の言葉にも、色黒は、あんたの遺伝と言って聞き流していました。
私は、赤ん坊の病気に関して、本当に鈍い女でした(:_;)


当時の私は、秋田書店を辞めた後、乞われるままに、素人の音楽事務所を設立し、
見事に失敗し、莫大な借金だけが残っていました。

結果、彼女の諸々な事情で、帰郷していた彼女自身の実家・鹿児島で、私は居候になりました。
彼女のお父さんの、了解を得て、1年目は3か月、2年目は、1年間居候になりました。


彼女のお父さんは、元・新聞記者で、社説も書いておられた知識人で、好き・嫌いをハッキリ言う方で、
気難しいけれど、実に武人の風格がありました。
大病後、ずっと寝たきりの生活でしたが、彼の強い眼力は、ずっと健在でした。
私は、そんなお父さんに、娘同然の扱いを受け、煙草代と称して、毎月のお小遣いまでいただいていました。


当時の私は、初めの3か月居候になった後、東京から、タブロイド判の業界新聞の編集の誘いを受けたものの、
賃金も当時、高給ではあったものの、どうしても、詐欺まがいの編集仕事が合わず、辞めました。

私は、帰京した2年目で、いよいよ食い詰めていました。
鹿児島の実家に住んでいた親友から、時折、何気なく、
私の好きなインスタントラーメン類や、シャンプーなど、段ボールに入った、細々した日常品が私へ届けられました。
私は、嬉しくて、そのたびに泣きました。


2度目、再び、彼女の実家へ居候になった時、
お父さんから、
「お帰り…よーちゃん」と言われたことは、万感な思いで、未だに忘れられません。


当時は、生まれて1か月の智子が居て、育児を手伝うという名目もありました。
因みに、生まれて1か月目の智子は、ちっちゃくて、親友に似て、色黒には驚きました(笑)
……しかし、その後の智子にとっては、日に焼けやすい体質で、
子供の頃から、智子なりに随分と悩んだことだと思います。


ある日、恵理子は、様々な病院で診てもらった結果、『胆道拡張症』と診断され、
3歳の夏に、鹿児島大学病院で、10数時間をかけて手術をしました。
40年前は、今ほどの医学の進歩はありません。
手術日の当日、親友のお父さんたちと、智子をおんぶして家事をしていた私も、気が気ではありませんでした。
あの時の、夏の暑さは、今でも忘れられません。


初めての手術前の、3歳だった、恵理子は、病的に食欲がありません。
肝臓の腫瘍ですもの、だるくて食欲のないは、当たり前だし、食べ物だって砂を無理やり食べさせられる感覚だったでしょう(T_T)

親友は、そんな恵理子を必死で叱り飛ばし、時には、泣き叫ぶ恵理子に、
「手術を受けるんだから、体力をつけなきゃ駄目なんだよッ」
と、泣き叫ぶ恵理子を足蹴にしてまで、親友は、激しく叱っていました。
親友が何を言われても、唯一反論しない、お父さんに対しても、珍しく激しく反論していました。

私が出来ることは、彼女の指示通りの食材で、いかに食べさせるか…が課題で、様々なことをしました。

公園に連れて行って、ブランコに乗せて、ぶーんと戻る瞬間に、親指大のちっちゃな、海苔で巻いたおにぎりを口に放り込んだり、
庭にむしろを敷いて、ままごとごっこで、本物のままごとの食器に、本物の食べ物を小さく可愛らしく盛り付け、
一緒に遊びながら、恵理子に食べてもらった思い出があります。



恵理子の病気が解かる前、恵理子と私は、鹿児島に来ていたサーカスを、一緒に観に行ったことがあります。

恵理子が初めて見たゾウさんは、東京にいた頃、恵理子と親友夫妻と、近くの吉祥寺にある井の頭公園にいた、ゾウの花子さんです。

恵理子が、次に見たのは、鹿児島に来た、サーカス団のゾウさんです。
演技中のゾウさんが、途中で大きなうんこをしていて、恵理子は、かなり驚いた様子でした(笑)
それでも楽しくて、恵理子と私は、肩を寄り添いあいながら、ポワ~ンと、珍しいサーカスに見とれていました(笑)

因みに、そのサーカス団のアトラクションで、聴いたのが、初の憂歌団のキー坊の歌でした。
以来、私は、キー坊のファンになりました(笑)



以後、鹿児島の夕飯を摂る食卓で、恵理子は、必ず椅子に立ちあがり、
「ゾウさん、ゾウさん、お鼻が長いのね、そーよ母さんも長いのよ~♪」と大きな声で歌い、
みんなで拍手喝さいを浴びていて、「もう、ごはんを食べよう」
と、誰かが促すまで、繰り返し繰り返し歌っていました。

最初の術後、退院してきて元気になった恵理子が、
ある日、いつもの食卓の椅子に立ち上がり、ゾウさんの歌を歌い始めました。
「こんなに元気になって…」
全員感無量で、嬉し泣きしました。


その後、恵理子と智子とは、よく映画を観に行きました。
アニメ『綿の国星』を観に行った時は、智子が小さかったので、
「おねーちゃんは、よーこちゃんと病院に行くのよ」と、
親友が、一緒に行きたがる智子をなだめて、私たちを送り出したくれました。

『綿の国星』のシーンの中には、ちび猫が人間の真似をして、お金を渡すつもりでチラシを咥えて、魚屋の親父さんに魚を貰おうとする箇所がありました。
当然、親父さんは、ちび猫を無シッシッと追い払います。
「どうして、紙をあげたのにシッシッと言ったの?」
恵理子から聞かれ、瞬間、私は答えられませんでした。
大島弓子さんの原作『綿の国星』のアニメ化から上演するまで、私は、アニメ誌の一冊の増刊号として、
1年間、大島さんご本人を含め、アニメ関係でずーっと取材して、書いてきたのに……あせあせ(飛び散る汗)
幼い恵理子の、鋭い質問に、判りやすく応えてあげられなかったことは、今でも不覚だと思っています。





……当時の親友一家は…私も含めて…、ほとんど恵理子の病気に、一喜一憂していて、
なかなか赤ん坊だった智子に気が回りませんでした。
元気過ぎるほど元気な赤ん坊…智子は、家事をする傍ら、常に私がおんぶしていました。
おんぶしていても、何かと手がましく、赤ちゃん言葉で、いつもお喋りしていました(´▽`)
でも、いつも最後は、必ず私の背中で眠っていましたあせあせ(飛び散る汗)




うまく生きられても小学生まで…、もしかして最悪20歳までの命だと、親友は、医師からの話として、私に教えてくれました。
もし、大人になれたとしても出産は、諦めるようにとも、言われたようです。

恵理子が1回目の手術後、親友の代わりに、一晩だけ代わって、付き添いをしたことがあります。
全身管だらけの恵理子……。
何かの拍子に、恵理子と私は、他愛もない冗談の言葉に、
「やだー、恵理たんったらぁ」、「よーこちゃん、おかしいよぉ」と、小一時間、お互いに笑い転げていました。

しかし、その後、医師の回診で、恵理子の管が癒着しないようにと、あっちこっちの管を医師がいじります。
「よーこちゃん、助けて―ッ!!」
……あの声は、それを見ているだけで何も出来ないままの私が、「恵理たん」と言うのみだけで、
恵理子にとっては、私に、さぞや裏切られただろうと、未だ忘れられることができません。


その後、恵理子は、小学校に上がる前に、お茶の水の順天堂病院で、2度目の手術をしました。


親友と私は、恵理子の小学校の卒業の時に、「よく無事に…」
と、2人して、歓喜の涙にむせび泣きしました。


未だ、完全に肝臓の大動脈に、完全に取り切れなかった腫瘍があるようです。
……病気の内容は、親友がよくわかっており、私は、深くは聞きませんでした。
兎に角、親友は、恵理子のために、365日、大きくなるまで、細心の食事療法に魂を注ぎ込んでいました。


小学生の恵理子は、とても可愛らしく、家人が「宮沢りえによく似ている」と言いだし、
ある時、家人は、私と共通の友人を連れだし、恵理子の小学校の運動会まで、見に行ったこともあります。
「どーだ、恵理子は、宮沢りえに似てるだろう」と、家人は、友人に自慢していました。
しかし、その友人の戸惑ったような反応に、……コイツ、一発殴ってやろーかしら……と思ったのは、私です(笑)
もし、当時青年だった友人が、恵理子を本気で好きだと言ったら、ロリコンですものねえ(笑)



その後、学生時代の恵理子は、自分なりに、自分の生き方を冷静に考えていたんだと思っています。

恵理子の学生時代のことです。
恵理子の母親である私の親友の、鹿児島時代からの親子2代に渡っての女の親友の子供が、難病にかかり、
たまたま、その男の子をお見舞いに行った、恵理子と智子は、その彼の突然の死に、立ち会いました。


当たり前ですが、恵理子に関しては、全て母親である親友が主導権を握っていて、
細かい情報まで、私には聞こえてきませんでした。

恵理子は、学生時代、自発的に、体力が必要とする行動を起こし、後で、親友から具体的な色々なエピソードを聞かされ、
彼女があまりにも生き急ぎをするようで、驚愕していました。
私は、恵理子のギリギリの生き方を感じて、いつも哀しくして胸がつぶれるような思いでした。




小さい頃からの恵理子は、私の親友の天然ボケのような、親譲りか、ふわーっとした雰囲気で、実におっとりしていました。

が、芯は強い女の子でした。

当時、鹿児島に住む家の隣に、恵理子と同じくらいの兄弟が居て、弟が、恵理子が大好きだったみたいでした。
恵理子は、常におっとりと応対していました。
しかし、恵理子に対する、そのまとわりつきや、図々しい暴言に、私は、大人の私でさえ「うざいッ」と内心怒っていました。
ある日突然、そんな恵理子は、あたかもその男の子が居なかったように、ごく自然に振る舞い出しました。

その見事な完全無視さに、恵理子の強さを垣間見ました。


東京に戻り、恵理子と何かの用事での、タクシーでの帰路、私は、
「あ、あそこ、恵理たんが、手術した病院だよ」と、順天堂病院を指さしたました。
恵理子は、無表情のまま、即座に低い声で「知らない」と言いました。

私は、恵理子の想いに対して、無神経に発した己の言葉に、未だ、恥じ入っていますm(__)m


東京に戻った恵理子の、幼稚園時代、同じ幼稚園のお友達を連れてきて、たまたま親友に代わって留守番をしていた私に、
恵理子は、お友達を紹介をしてくれて、たぶん意味も解らなかったと思うけれど、
「よーこちゃん、私のしんゆー」と紹介してもらいました。
もちろん、幼稚園児のお友達は、意味が解らずポカーンとしていました。

私は、恵理子の言葉に、天にも昇るような気持でした(笑)



恵理子は、小学生時代から、大人になってからも、時には、酔っぱらった親友と私が、親友宅の茶の間で騒いでいると、智子までも巻き込んで、
こんこんとお説教していました(笑)

そんな時は、恵理子の言う言葉は、ぐうの音も出ないほどの正論でしたから、
親友・智子・私と、いつも正座して、首をうなだれ聞いていました(笑)



社会人になってからの恵理子は、理容師専門学校に進み、一時、美容師をしていました。
が、肌が弱く、美容師を辞め、派遣社員になりました。

彼女が長く務めた職場は、港湾の、船からトラックへ、トラックから船に積み入れ、積みだす事務…(・・? の職場でした。
荒くれで、ベテランのトラック野郎たちを相手に、臆することもなく、小柄な体でコンテナに乗り込み、
テキパキと仕事をしていたようです。
天候に左右される、その職場では、帰宅後も、常にお天気を気にしていましたし、
朝から、夜無遅くまで働いていました。
正社員の話も、たびたび持ち上がったようですが、賃金や拘束感を考えて、いつも断っていました。

そして、時々、親友宅の恵理子宛てに、トラック野郎たちから、地方の名産やら酒や、なんやら、届いていました。

恵理子の、一見おっとりした可愛らしい娘っ子から、
一転して、真逆な気性で、激しくおっさんたちを叱咤指示する恵理子が、想像できました(笑)
トラック野郎のおっさんたちにも、篤い信頼を得ていたのです。



彼女の感じ方や、生き方は、私とは、真逆で、精神的に大人だし、客観的で冷静です。
常に、恵理子の心には、熱い芯があり、ほとんど表面に出さず、口数も少なく、おっとりとしています。
恵理子は、私にとって、バイブル(聖書)なのです。
あるがまま、好きに生きてきた私には、世界で唯一、私が頭の上がらない人ですm(__)m


そして、無条件で、愛おしいし、私の心の宝です。

珍しく、素面で、書くことが、まだ溢れていますが、力付きました。
後日、加筆するかもしれませんが、
二つ目の宝物、恵理子の思い出でしたm(__)m


因みに、現在の恵理子は、
この1月に、40歳にして、初めてママになりました(〃^ー^〃)