2016年07月24日

 

昨日、書いたブログは、私が、漫画人生に入り込む原点だったので、どうしても己の過去に目を背けてまで回避することが出来なかったのです。
不快な思いをしてしまった方、ごめんなさいm(__)m
漫画は、愛してます(´▽`)

コレは蛇足ですが、私は『赤毛のアン』を初めて読んだとき、同じ感覚の人が世界にもいると、心が癒される気持ちになりました。アンの結婚後は、私の憧れでした。
同様に、エデット・ピアフの妹が書いたという『愛の讃歌』を読んだときも、同様に己がギリギリに生きる、それがどんだけ淋しいか…ということを知らされました。
この2冊は、私のバイブルです。


で、ここでは、まず読めない癖字…悪筆の漫画家さんたちのエピソードを書きます(-_-;)

石森章太郎さん、手塚治虫さん、松本零士さん、この3人が癖字の筆頭です。

石森章太郎さんは、活字の職人さんが読み取ることを、専門で居たくらい、読めません。
手塚治虫さんも同様です。
松本零士さんは、不思議と、私には読めました。
ご本人自身が、読めない編集さんがいっぱいいるから、解らないとこは聞いてね、と言われていましたが、ひと作品について、せいぜい1箇所ぐらいで、私には、すらすらと読めました。
よく読めたなぁ…と今、考えても不思議です。
いずれも、ミミズがのたくったような文字で、判読しかねました(-.-)

当時の吹き出しのセリフ…ネーム取りは、トレッシングペーパーに、そのまんま書き移すという、極めて原始的な方法でした(-_-;)
漫画原稿が、確実に締め切りに間に合わないと分かっている時、ラフ描きや下絵から、ネームを書き写す、非常に根気のいる、地味な仕事です。

しかも、締め切りは、とっくに過ぎて、時間が無いので、ほとんど真夜中に、漫画家さんの仕事場に行って書き写し、真夜中や早朝、編集部に戻って、写植屋さんに依頼するのです。
勿論、写植屋さんには、事前に連絡して、待機してもらっています。

コレが原稿が途中までしか上がっていない場合、しかも、、製版に間に合わないときは、最悪4ページずつ原稿をもらって、製版に回します。
私達編集者は、待機している製版屋さんと、漫画家さんの仕事場を、タクシーでのピストン輸送です。
COMの時代、中村橋の製版屋さんと、富士見台の手塚プロの、たった一駅を、真夜中にピストン輸送をしました。
明け方、大日本印刷の車が製版屋さんに来て、その号全部の原稿『火の鳥』を渡した後、大日本印刷の車を見送りながら、全員で万歳をしたことは、今でも思い出します(-.-)


関谷ひろしさんは、虫コミックスで『ストップ! にいちゃん』を担当しましたが、困ったのは、貼ってあるはずの写植がとれていて、吹き出しの中が、鉛筆跡が薄れて、全く読めない状態でした。
結果、元本の『少年』の付録だった本を元に、書き写しました。
……元本自体を、関谷さんが、ご本人の自宅内を探し回って、手渡していただいたときは、本当にホッとしました。
だって、ご本人が、ネームは全く覚えていない、とおっしゃるんですもの…(:_;)……。

番外では大島弓子さん…。
とにかく小さい文字で読みづらく、、半端じゃなくネームが多くて、ネーム取りには、時間がかかって、泣かされました。


逆に、読みやすく綺麗な字……ちばてつやさん、あすなひろしさん、立原あゆみさんです。

ちばさんの文字は、吹き出しいっぱい大きく、綺麗な筆跡で、作品そのもの同様に温かな書体でした。

あすなさんは、……文字は、それぞれの文字の大きさを級数で表すのですが……きっちりと吹き出し内に収めてあり、級数まで指定されてありました。
因みに、普通のネームは、18級、もしくは20級…出版社によって多少の文字の大きさや、書体の違いがあります。
ただ困ったのは、あすなさんの場合、途中の下描きが入ったものや、主線のペン入れがしてあるものを、ご自身が気に入らないと、その場でバリバリに破いてしまわれることです。
締め切りが過ぎた時点で、それを目の前でやられると、本当に泣きたくなりました(:_;)
後日、別の原稿のとき、ヨーコちゃん、もうやらないからね…目の前では担当者もきついでしょう…と、言われ、今度からは見えないところで破くから…と言われました。
結局、締め切りが過ぎても破くじゃん…と、思ってしまった私です(:_;)
あすなさんの事は、私のHPに、思い出を書いています。

立原あゆみさんは、担当に逆催促をするくらい、締め切りを守る漫画家の鑑のような人でした(´▽`)


遅筆な漫画家さんは、当時は、多数いました。故・村野守美さん、故・あすなひろしさん、木村直巳さん、イケスミチエコさん、大島弓子さん、山岸凉子さん、樹村みのりさん、ささやななえさん、佐伯かよのさん、矢代まさこさん、故・仲村計さん、番外では細川智栄子さんです。
ざっと名前をあげただけですから、きっちり思い出して、数えたらきりがありません(:_;)

私が担当した中では、応援担当でしたが…手塚治虫さんの場合。
虫プロ商事の社長ではあるけれど、どうしても他社優先になり、私が行くと、ヨーコちゃん、女の子がこんなとこに来ちゃいけませんと怒られ、手塚さんから姿が見えないように、私は、机の影などに隠れていました。
しかし、薄給の身としては、手塚プロ発行の、近所数件でタダで食べられる食券が楽しみでした(´▽`)
手塚班は、徹夜続きでヤツレテ編集部に戻るのが普通で、中にはノイローゼになって田舎に帰った男もいるし、太って戻った男は、仲間から軽蔑と罵倒の嵐を浴びていました。

故・村野守美さんに関しては、私のHPで書いています。
山岸凉子さんの原稿が上がったときは、明け方でした。
私は、原稿を抱いたまま、気が付いたときは、西武池袋の終点で、車掌さんに起こされました。いつの間にか、座席で足を伸ばし横になって眠っていました(-_-)…。

番外では細川智栄子さんです。
まず、吹き出しの大小の違いには驚かされました。そのネームは、平均よりとても小さい文字から、とてつもなく大きい文字で書かれてありました。
透明のセルロイド?の級数表で測るのですが、一番大きな級数以上のときもあり、困りました。
勿論、原稿は遅く、夜中に原稿が上がることは珍しくありません。除夜の鐘を帰りのタクシーの中で聴いたのは印象に残っています。
しかし、毎回必ず出される上等のお寿司や、丁寧に調理されたフルーツには、小食の私は、とても悩みつつ、残していけないと必死で食べました(-_-;)

いずれにせよ、漫画家さんの担当時の私は、徹夜続きだった、ということです。

カンヅメにした漫画さんの騒動記や、裁判沙汰になりそうになった原稿取りなど、他にも沢山ありますが、とても1回では書ききれません。

相変わらず、読み返さないまま、一気書き、一気あげしています。ご判読下さいm(__)m

私のHPです……http://doranekosora.sakura.ne.jp/