2016年07月11日

 

私が、漫画家仲村計…本名・仲村恵美…と出会ったのは、虫プロ商事の編集時代だった。

1951年…昭和26年3月26日生まれの兎年。私より3つ年下で、65歳…生きていれば、婆さん同士のイイ茶飲み友達でいられたのに……。

彼女は、神奈川県にある菅田町の県営住宅に生まれ育った。
そこは、山の中腹にあり、自然に囲まれた素敵な環境だった。
その後、漫画家として独立し、一時期、場所は忘れたが、綺麗なマンションで独り暮らしをしていた。
大きなガラス棚に置かれた、立派な百科事典と美術全集が部屋を占めていて、圧倒されたのを、私は思い出す。
が、まもなく漫画だけでは食えずに、菅田町の実家へ戻っていった。
そして、時間がたち、県営住宅が取り壊されることになり、同じ神奈川の瀬谷区に、母親と2人で、彼女は最期を過ごしていた。

彼女が漫画家・仲村計としてデビューしたのは、昭和48年(1973年)5月に再創刊された『月刊ファニー』で、当時、編集長だった金やんに抜擢されて、巻頭漫画『ベリョースカーー白樺ーー』を発表した。

とにかく遅筆な作家だった。
デビュー作で、締め切りが危なくなって、彼女は、いきなりカンヅメになったのだ。
私の長い編集経験で、後にも先にも、デビュー作でカンヅメになったのは、仲村計だけだ。
机や電気スタンド類をカンヅメ部屋まで、編集部全員で運んだことを、昨日のことのように思い出す。

しかし、絵は、最初から垢ぬけていて、抜群に上手かった!!

彼女は、作品を発表する前、石森章太郎宅で、1年間アシスタントをやっていた。
前後するかもしれないが、虫コミックスの編集もやっていた。

編集仲間から、えっちゃんと呼ばれていたが、これは、本名の恵美という名前と、石森章太郎の漫画『さるとびエッちゃん』の主人公のキャラに雰囲気が似ていたことから、誰ともなくそう呼び始めていた。

その後、私は、講談社のなかよしの編集部から2か月で逃げ出してから、一度だけ、少女フレンドで私の原作で、漫画を描いてもらったことがある。それは好評だったと記憶しているが、次回作を書く間もなく、私が新しい編集部に移っていった。

秋田書店で再創刊されたプリンセスでは、表紙を飾ってもらった。
私は、表紙をレイアウトしながら、えっちゃんって何でも描けるんだなぁと、深く感心したのを覚えている。

彼女と仲が一段と深まったのは、彼女のお父さんのお葬式だった。
彼女から突然呼び出され、お葬式、49日とお参りをさせてもらった。

彼女のお父さんは、彼女が漫画を描くのを最後まで快く思っていなかったようだ。
菅田町の彼女の自宅には、何度も足を運んだが、彼女のお父さんと顔を合わせると、彼女と私の顔を見て、いつも苦虫を噛み潰したような表情を浮かべていた。
たぶん、彼女が、漫画家としてなかなか一本立ちできなかったからだと思う。
その頃の彼女のお母さんは、声の綺麗な、朗らかにコロコロ笑っている人だった。彼女もまた少しハスキーがかった綺麗な声だった。
彼女の2人兄妹のお兄さんは、仕事で関西に住んでいて、いつも彼女から、どんなに素敵なお兄さんかと、耳たこのように聞かされていた。彼女は、ブラコンだった(-_-)…。

秋田書店で、彼女が原作付きで連載していた時、幾度となく電話で、原作付きの辛さを愚痴とも相談ともつかない話を聞いていた。
彼女からの電話と分かると、私はいつも、ちょっと待ってねと言って、電話のある玄関まで、座布団、飲み物、煙草と灰皿を用意して、長期戦に構えた。それを見た家人が、えっちゃんからか…と妙な納得をしていた(-_-;)

いつも、彼女は、私の事を洋子ちゃんと呼んでいたが、ある日を境に、萩原さんと苗字を呼ぶようになった。

当時の私は、秋田書店から独立したK氏が宙出版を立ち上げ、それに参加する時、私がある歴史物の漫画の単行本を、年間30本引き受けていて、独りでは絶対に無理と思い、K氏の宙出版でやることになっていた。
結果、15本だけ他の編集プロダクションに渡し、それでも、宙出版のレディースコミックのコミックHiと少女誌ミッシイを編集しつつ、夜中に自宅で歴史物の漫画を独りで編集していた。あの忙しさは地獄だった(:_;)
それは、原作だけでも50万円と破格な、バブルの時代だった。

彼女にも、『美福門院』を描いてもらった。
彼女は遅筆だとは充分知っていた。しかし、それでも私の考えが甘かった…(:_;)

結局、締め切りに間に合わず、当時私が住んでいた住まいの目の前の、巣鴨のラブホテルに、彼女をカンヅメにした。
仕事受けた先の女社長も、カンヅメ先ののラブホテルを訪れ、1日遅れるごとに個人的に1万円支払うと、私は証文を書かされた。
暗黙の了解で、万が一には、弁償も宙出版が請け負うことになっていた。

本が出ない…などと、出版界では考えられないことだった。
私は、必死だった。
最後のほうは何が何でも原稿を上げて貰わなくてはと、矢代まさこさん、立原あゆみさん、元ちばてつやさんのアシスタントを経てCOMでデビュー作を担当した風野朱美さん…と仲の良い漫画家さんにお願いして、彼女のアシスタントに来てもらった。
K氏のほうも、しらいしあいさん、星合操さんを助っ人に呼んでもらった。
皆さん、巻頭を飾るほどの漫画家さんばかりだった。
『美福門院』の後半は、明らかに、いろんな漫画家さんのタッチの主線が入っている。
興味のある方は、ネットで購入してみて下さい(´▽`)

結果、何とか間に合ったが、別室で待機していたしらいしさんや星合さんの無表情だった顔は、すまなくって未だに忘れられない(:_;)
あんときは、私の大切な漫画家さん達、本当に有難うございましたm(__)m

後日、横浜駅の地下の喫茶店で、仲村計と私は、大喧嘩をした。
彼女が締め切りよりも作品を描くほうが大事だと主張し、プロなら締め切りを守れと私が主張し、大口論になったのだ。

以後、改めて、彼女は、私を洋子ちゃんではなく、萩原さんと呼ぶようになり、それは彼女が亡くなるまで続いた。

漫画家・仲村計は、常に作品を重要視し、取材したり文献を漁ったり、深く深く考え模索していた。オリジナルでも勿論そうだった。
色原稿は、古代色にこだわり、幾度となく画材屋にもつき合わされた。
いつも、彼女は、、考えすぎて、ネームの突っ込みがどこか甘く、読者に伝わりにくかった。
しかし、絵だけは、いつも切れるような素晴らしいタッチだった。

彼女は、癌の手術を3回やった。
最初は、癌とは知らなくて、単純に見舞いに行った。2回目、3回目は、私も親族と一緒に立ち合った。
3回目は、抗がん剤の影響で丸坊主になった。
えっちゃん、一休さんみたいで可愛いね、と私が言うと、そうかしら?と、彼女は、明るく笑っていたのが印象的だった。

3回目の手術後、半年後になってからだったか、私は、数か月間の入院中の彼女を、週に一度見舞いに行っていた。
いよいよ点滴だけになったとき、私が、誰に会いたい?と、彼女の耳元で聞くと、虫プロの仲間に会いたいと、彼女は言った。
私は、速攻で、仲間に連絡した。
心臓の手術をして間もない、虫コミックスの編集長Mさん、ファニーの編集長金やん、COMの先日亡くなった塚ちゃんなど、次々に虫プロの仲間が、横浜の病院まで見舞いに来てくれた。

絵が抜群に上手かったえっちゃん、手先が器用で、四谷シモン級の緻密な人形を作っていたえっちゃん。
一緒にいったディズニーランドは楽しかったね。山奥の登り窯のお披露目も一緒に行って楽しかったね、色々と本当に楽しかったね、えっちゃん!!

2005年…平成17年12月13日 没 54歳でした。合掌m(__)m

相変わらず、一気に書いて、読み返さずに一気にあげます。誤字脱字、文章の変なところはご判読下さい(´▽`)
私のHPです。http://doranekosora.sakura.ne.jp/