2016年07月08日

 

COMでは、トキワ荘物語として、そこに住んでいらっしゃった漫画家さん達や、彼らに会いに頻繁に出入りしていた漫画家つのだじろうさん等に、毎月読み切りで描いて戴いていた。
その最終回…総仕上げとして、まだ残っていた椎名町のトキワ荘で、座談会を開いた。
当時、21~22歳ぐらいの、ぺーぺーの漫画編集者の私としては、座談会を設定することで、軽く緊張していたのを覚えている。
だって、今もそうだけど、当時、バリバリの人気漫画家さん達だよ(-_-)…。
緊張しないほうが、おかしいよ。
そして、他のCOMの連中も、私と同じ思いだったと思う。
……しかし、いざ始まってみれば、森安なおやさん?、永田竹丸さん、よこたとくおさん等に対して、私は面識も作品も知らなくて、誰だろ~コノおじさん達と、とても失礼なことを考えていた(-_-)…。

会場のトキワ荘では、アパートの隣の倉庫みたいなところで、木のテーブルと椅子をしつらえて開いたと記憶している。
水色のワンピースを着ていた私で、とても暑い夏だったと思う。…冬だったらどーしよう(-.-)

詳しい年月は、フェイスブックで、同じCOMの編集仲間、飯田耕一郎君に聞いて下さい。
彼は今、仕事の合間を見て、コツコツと創刊当時からのCOMを、一頁ずつ切り離し、表裏と、資料としてパソコンに取り入れている…現在も続行中です。
偉いぞ! 漫画家の語りべ!!  飯田耕一郎!!!

……私が書けるのは、すべて今も残っているかすかな個々の記憶と、その時の印象の記憶でしかありません。

当日の出席者は、故・寺田ヒロオさん、藤子不二雄さ……故・藤本弘さんと安孫子元雄さん…、故・石森章太郎さん、水野英子さん、森安なおやさん?、永田竹丸さん、よこたとくおさん、つのだじろうさんで、
欠席者は、当時虫プロ商事の社長でもある故・手塚治虫さん、…コレは半端じゃない締め切りを抱えているので仕方が無い、
そして、確か当時、お父様を亡くされたばかりの喪中の故・赤塚不二夫さん。

石森章太郎さんは、私がタクシーで、住まいの桜台?まで行き、寝ているところを叩き起こして強引に連れてきたと記憶している。

会場のテーブルには、軽いスナック菓子と、トキワ荘名物の、三ツ矢サイダーと焼酎が並んでいた。
初めは全員、トキワ荘の大家さんから出されたお茶を、おとなしく飲んでいたが、だんだんとお話が盛り上がって、全員が焼酎のサイダー割りになっていった。

そこで一番印象的だったのは、寺田ヒロオさんだ。
彼は、その時も全員から敬意を払われ、トキワ荘時代から皆に尊敬されていたんだなぁと、私も深く感じ入っていた。
寺田さんは、スポーツマン金太郎』、『背番号0』、暫くしての『暗闇五段』を描かれていて、私も子供の頃からの大ファンだった。
大きくて、温和な顔つきが、自画像そのままだった。
盛り上がる会話中、寺田さんに、皆が、どーして描かないの? また描けばいいのに、と口々に言っていた。

子供の世界の子供の漫画しか描かない、今の漫画は方向が違う、とキッパリおっしゃっていたのが印象的だった。言葉使いは違うけれど、そういう意味だった……その時、かたくななまでの応えに、少し恐いと私は思った。

私はそれから何年後にかに、新聞の片隅の死亡欄で彼の死を知った。
お葬式に行きたいと、強く思ってはみたが、遠くて金が無いので行けない、と当時の私は断念した。

因みに漫画家さんのお葬式は、故・手塚治虫さんのお葬式へ、故・仲村計と、冬の寒い中、青山葬儀会場の長い長い行列の中で、ふたりして行った。

よこたとくおさんは、皆の会話の中で、陽気にはしゃいでいて、ああ…この人が子供の頃に見ていた漫画の人かぁ~と思っていた。
つのだじろうさんは、初めの頃こそ、トキワ荘にはただ出入りしていただけだからと言いながらも、最後は何でも得意げに色々話されるのには、なんか解らないが不思議だった。
永田竹丸さんは、なかなかのハンサムで、その昔に『ビックルくん』で第一回講談社児童まんが賞を受賞されたと聞いてびっくりした。そして、藤子不二雄さんたちに、盛んに今後の漫画家として行く末を心配されていたのも、とても印象的だった。
水野英子さんは、、私が虫コミックスの編集時代に、編集長と一緒に喫茶店で会って、彼女が激しい言葉で何かをののしっていたのに驚いた記憶がある。
彼女は、気性が激しい女性なんだよと、編集長が言っていた。
座談会中の水野さんの言動は、まさに紅一点、しかし、男勝り感覚は、初めて会った時の印象と変わっていなかった。

藤本さんはおとなしく温和なたたずまいだった。
安孫子素雄さんは、積極的に笑い、積極的に皆の会話の中に入っていた。

この座談会から随分たったあと、私は徳間書店の仕事で、藤本弘さんにコメントを戴く為に伺ったが、本当に優しい人で、名もなきフリーの編集者の私に対して丁寧にお応えいただいた。
そしてまた、私は、虫プロ商事時代、この座談会でも同じ編集をやっていた瀬川氏と結婚後、小田急線の狛江に住んでいて、満員の通勤電車の中で、時々、それより遠い駅から乗る藤本さんと遭遇した。
藤本さんが亡くなったあと、家族はどうなるんだろうと心配したが、版権があるのでその心配は杞憂に終わった(-.-)

安孫子さんも、やはり違う雑誌で原稿依頼に伺ったが、湾曲に断られた。
それはそうだ、虫プロ商事の倒産時に、COMで毎月見開き原稿で、彼の趣味の世界を描いてある、彼の『マンガニカ』の全部の原稿を紛失し、当時の担当だった私は、ひたすら謝り、渋々ながら了承していただいた。
私は、無くなった原稿の行方が、未だに不思議だし、何故無くなったのか解らない。

いずれ、当時ペーペーだった25歳の、私から見た虫プロ商事の倒産記をブログにあげます。

藤子不二雄さん、赤塚不二夫さん、石森章太郎さん、つのだじろうさん、みんな虫プロコミックスやCOMで担当させていただいた方々です。

虫コミックスの頃、赤塚不二夫さんの仕事場に、編集長と単行本の契約書を持参して行ったことがあった。
ところが、契約書には、不二夫の夫の文字が、藤子不二雄の雄とごっちゃになって、赤塚不二雄と私が書いてしまっていた。
それをご本人から指摘され、それでも優しく接して下さった赤塚さん…19歳のトホホな新米編集者で申し訳ございませんでしたm(__)m

ところで、この座談会は、3時間以上にも及ぶ、終始笑い声の絶えない、編集側から見ても楽しい時間だった。
が、誰か忘れたが、間抜けな馬鹿たれが、1時間テープを1本無くしがった(怒)……それでも、一応事なきを終え、COMに掲載された。

しかし、今思うのは、あの時の雰囲気は、先日、久しぶりに皆で集まったCOMの仲間と一緒の時と同じだと……(´▽`)…。


ウィキペディアで検索したら、下記のことが掲載されてあった。

トキワ荘(トキワそう)は、東京都豊島区南長崎三丁目
(住居表示16番6号、完成当時の住所表記は豊島区椎名町五丁目2253番地)
に1952年から1982年にかけて存在した木造アパートである。
手塚治虫ら著名な漫画家が居住していたことで有名。
……それ以上は、各自検索してください(´▽`)

相変わらず、一気に書いて、一気にブログにあげます。
誤字脱字、文章のおかしなところはご判読下さいm(__)m

私のホームページです。http://doranekosora.sakura.ne.jp/