2016年07月03日


私は、フェイスブックで、某氏の窮状を感じて、いかに自分が甘くチャラチャラと生きていたか、彼の言葉に叩きのめされてしまった。
COMの編集仲間の突然の死も、心の痛手でした。……今の私には、人生の後が無い……!!

反省の意味を込めて、当時のあるがままの事を書こうと思っています。
なんせ、私が25?~30代前半までの、34年前のお話しですから、記憶違いは、ご容赦を(-_-;)

漫画編集担当者だった私は、担当した漫画家、一人ひとりの人生まで、丸ごと引き受けるつもりでやっていました。
いつも真剣だったし、幾夜に及ぶ徹夜も、まったく苦ではありませんでした。
某少女漫画家から付けられていた、私のあだ名は、鬼さん!!…でした。

当時、最初の結婚をして、赤ん坊だった娘がいて、三重保育をしながら、仕事をしていました。
秋田書店が新しい少女誌プリンセス……その昔、プリンセスは、男性の漫画家の多い漫画誌で異色の創刊少女誌で、子供の頃に見た記憶があります……を再度創刊する3か月前の頃、私は、原作を書いていて、度重なる廃刊で、もう漫画は辞めようと思い、九州の実家に娘を連れて帰郷していました。
そこへ、プリンセスの神永編集長から、九州まで電話が来ました。

何度かお電話でお話を伺い、初めて神永編集長へ、最初にした私の質問は、万が一売れなくても、いつまでプリンセスを維持できますか?
……もう、当時に編集していた雑誌の廃刊続きで、漫画家さんを路頭に迷わせるのが辛かったのです。

神永編集長には、大丈夫です、プリンセスが万が一にも、売れなくても2年は持たせます!!…と、言い切っていただきました。
…嬉しかった(´▽`)…。

私の秋田書店入りは、バリバリに売れていた漫画家イケスミチエコさんと、矢代まさこさんの推薦で入りました。
因みに、その前の講談社は、イケスミチエコ担当ということで、嘱託で入っていましたが、イケスミさん担当者の男の度重なる悪意やその他の事で、私が切れて2か月で辞めました。
矢代さんには、秋田書店の身元保証人にまでなっていただけました。

創刊時の秋田書店の社内は、20代後半の若き編集長神永さんに対して、彼の社内での早い昇進抜擢をされた事もあり、激しい男達の嫉妬が渦を巻いていました。
神永編集長は、大変穏やかな人で、彼に嫌味をいう他の社員に対して、穏やかに接していました。傍で聞いでいた私がカーッとなったくらいですから、彼も相当悔しかったと思います。
畜生ッ 私は、この神永さんの為にも絶対に売ってやる…心に強く決意しました。

私は、神永編集長に言わせれば、瀬川…結婚していた時の名前…君はハリネズミが針をおったてて走り回っている…そうだったようです(-_-;)
それでも、私は、彼のお誕生日には、齢の数だけの薔薇の花束を贈って、周りの男どもに見せつけてやりました!! …勿論、自腹ですよ!!

私的には、結婚当初、例え貧乏な生活でも、主婦が夢だった私に、夫が、これからの女性は、世間に出て働き自立しなければならない、と言われていました。

しかし、数年後の当時、荻窪にマンションもローンで購入し、本誌、別冊、増刊号と、私の担当は増えるばかりでした。収入は夫を超えました。
そんな時、当時の夫が言いました。こんなに忙しいと娘が可哀想だ、仕事を辞めてくれ。
私は、耳を疑いました。

結果、私は、娘を残して離婚しました。
娘は、私が引き取り、公務員を定年退職した田舎の母親に出てきてもらい一緒に暮らそうと考えていました。しかし、彼女から老後を楽しみたいと、ハッキリ拒否されました。
コレがきっかけで、女のくせに自分から離婚をするなんて、と一族郎党からハッキリ縁を切られました。
私の今の仕事では、独りで娘を育てられないし、自分の性格を考えても、子供の頃から憧れている"平凡な普通の生活"からほど遠いし、娘だけは平凡な生涯を送って欲しいと願っていました。
仕方ありません。これも自業自得、自己責任です。

プリンセスが順調に売り上げていったある日、神永は、プリンセスから、私とMさんを連れて、ひとみを創刊することになりました。

その頃の私は、娘恋しさもあって、ふと気が付けば、漫画家さん達には、実家もあるし、家族も居るんだなぁ…と、いくら漫画家さんの人生を守ると言っても、彼女彼らには帰るおうちがあるんだ、と酷い虚しさに襲われていました。

離婚後の私は、酒浸りでした。デイモスの花嫁を描いたあしべゆうほさんの、単行本1巻目に、虎の皮を着た鬼が酒を抱えている図が、遊びに描かれています(-_-;)



プリンセスの仕事をしている時、テンパに出会いました。
現在、フェイスブックで、天波地動という名前で、熊本で自然農業をやる傍ら、音楽活動もして頑張っています(#^.^#)

初めて会ったテンパは、私の眼からは、生で見た漫画のキャラクター……それもオリジナルの魅力的なキャラクターとして映りました。
夢を語る彼は、素敵でした。

彼がかつて丘蒸気という名前で、シンガーソングライターだということも知りました。
ある時、荻窪の小さなスナックで、相棒のむっちんと、所狭しとカウンターに乗って、歌いまくる元丘蒸気のテンパの歌を聴きました。
テンパとは、漫画の話もいっぱいしましたし、彼も、私に感化されたらしく、漫画には音楽を創るヒントがいっぱいある、と喜んでいました。

テンパには、会社を辞めて俺のマネージャーになってくれ、と、しつっこく何度も誘われました。
彼の創る詞やメロディーも好きでした。
彼の高音の声は、色気のある温かさがありました。

その頃の私は、男と同居していました。いずれ男関係は、まとめてブログします(ー_ー)!!

当時の離婚女は、アパート一つ借りられません。知り合いのつてで借りた6畳の1DKは、漫画だけあふれて、布団もろくにありません。
入居する時の資金は、漫画家の立原あゆみさんと、矢代まさこさんから借りました。勿論、返しましたよ(#^.^#)

当時は、予備校生数人と友達になり、部屋に、漫画を読みに遊びに来るようになり、友達の友達…と、いつも部屋が人で溢れかえっていました。
結果、冷蔵庫には食料を用意し、酒も切らさず、仕事から帰れば、飯を作っていて、独りで居ることはなく、寂しさも紛れました。
独りになりたい時は、徹夜明けの深夜タクシーで運転手さんにお願いして、ホテル…運転手さんが交渉してくれるので…で、時々、仮眠を取っていました。

その後、紆余曲折はあったものの、宴は終わった…と男とも別れ、南荻窪に、大家さんの住む敷地の2階建ての一軒家…立て半分に仕切られていて隣には息子家族が住んでいました。
私は、鬱が酷くなり、出社もままならない状態でした。
秋田書店を辞める辞表を書くのに、どーしても漢字が一切浮かびません。たぶん、ひらがなで書いて、その後辞書をめくりめくり書いたように思います。

テンパだけ、とても喜んでくれました。
私は、テンパのマネージャーになり、素人の音楽事務所を、自分の家に設立しました。
お金がないので、登記なんかしていません
私は、彼の立川の家にも出入りするようになり、テンパも彼を慕う仲間と一緒に、私の家に出入りしていました。

私は、根っからの漫画人間です。
音楽は疎いのです。当時の呑み仲間のジャズマンで、プロのスタジオミュージシャンの男からも、私の無謀さに驚かれました(-_-)。
私は、芸能界だって、何度かの取材で、その表裏の激しさにびっくりして、担当するのを逃げ回っていました。

まず、私がやったことは、まずテンパのライブで配るチラシを作る事でした。
コレは、編集経験が活きます。
印刷は、親しい印刷屋の工員さんに、内緒で安くして作ってもらいました。…私は貯金がいつもゼロでした。

テンパには、当時、子供が2人いましたが、娘を手放した私は、情が移るのが怖くて、なるべく親しくならないようにしていました。

親しい友人の紹介で、初めてプロデューサーデビューするという男を紹介され、テンパの人柄と音楽に惚れ込み、新宿の結構大きなホールで、テンパは出演する事になりました。
立派なパンフレットも、しっかりテンパの名前が印刷され、数曲歌う事になっていました。嬉しかった…。

いかし、テンパが、刷られたパンフレットとは違う歌を歌い、曲の順番も滅茶苦茶でした。
私が、曲を変えたいと、事前にテンパから言われたとき、勿論、反対しました。
プロなんだから、金を払って観客は来ているのだから、と言っても頑固に、俺には俺のミュージシャンとしての流儀があると言い放ちました(怒)
私は、プロデューサーの彼から、きつく叱られました。当たり前です(怒)
それでも、彼は、懲りずに、新宿センタービルのお披露目の日、アトラクションに、テンパとその仲間のバンドを出演させてくれました。

テンパは生活のために、ライブ活動の他、ハコバンをやっていました。
これは、クラブなどで、ギター、ベース、ボーカルと、一つのバンドとして、お客の前で演奏することです。
みんな、180㎝はあるので様になり、175㎝のテンパが小さく見えるほどです。
しかし、みんなのギャラを受け取りに行った先が、新宿区役所通りの路地の、ヤクザの事務所で、これは毎回ビビりながら行っていました(:_;)

ところでテンパは、いつも新しい仲間を引きづり込んでいて、これには、本当に困りました。
内藤やすこのバックバンドをやっていた男…彼は、プロだけあって、ベースが抜群に上手い寡黙な男でした。
しかし、時には、他のハコバンから連れてくる事もあります。…これは、本来ならご法度です。
ソノ男は、30過ぎのパッとしない、演奏も下手くそな男でした。
その男のアパートで、仲間と打ち合わせをしていると、男の彼女が、私の、玄関の女物の靴を見て、ヒステリーを起こされ、全員でなだめるのに苦労しましたし、正直、私はげんなりしました。

バンドの連中の、店の女の子に手を出す事にも、毎回、またやったかと、げんなりしました。
その店では、機材を置いたままなので、夜中に、みんなで車で山越えして、機材を取り戻しに行きました。
勿論、その際のギャラなんか貰えるはずでもありません(怒)

テンパの家の食卓は、テンパの母親が働いている肉屋の、売れ残ったコロッケがいつもありました。
深夜に山越えした際に、山の畑から、でかい大根やら白菜を掘り起こし盗み、それが食卓を賑やかにした事もあります。

テンパの妻、しらいさん…旧姓がニックネームになっている…は、テンパと高校の同級生です。
テンパがしらいさんに惚れて、高校生の在学中、クラスが変わると、しらいと一緒じゃなきゃあ学校に行かないと、担任に直訴して同じクラスになったと、彼から聞かされました。
しらいさんも、テンパと一緒になった頃、金が無くて、よく実家からお米を盗んできたと言っていました。

しかし、私は、テンパ自身に魅力を感じているのであって、次々と現われる男達のバンドには、いつも危機感を抱いていました。

しらいさんは、私を信頼していて、時々、テンパいる?と電話をかけてきます。
毎回、居ないし…。
内心驚きつつ、テンパは今風呂に入っているから後で電話させるね…といつも嘘をついていました(:_;)
あれは、携帯の無い時代でしたから、本当に困りました。
後日、テンパから、○○の漫画に出てくるような純粋な女の子だったよ、と報告を受けます(怒)
馬鹿やろーっ!! しらいさんを裏切るなよッ!!

ある日、業を煮やして、しらいさんと別れて、テンパ一人だけで歌ってくれと頼みました。
しかし、軽く一蹴され、しらいさんとは別れないし、バンドもやる、と言うのです。
私は、そのくらいの覚悟を持って欲しかったのです(怒)

ある日、丘蒸気の相棒、むっちんが登場し、小田急線の幡ヶ谷?の小奇麗なマンションを事務所にすることになりました。
むっちんが全部やってくれました。
急に、テンパや仲間は、金のない、役に立たない私に、何となく素っ気なくなりました。

しかし、ある時、沈痛な声のテンパが、むっちんが首つり自殺をしようとしたが、それを発見され未然に防げたと言います。
借金数百万円の為…が理由だそうです。
しかし、テンパの顔は、けろりとした表情でした。

ある日、10円の金も無い私の家に、仲間が、しらいさんが心配していると彼女手作りの弁当を運んで来てくれました。
その時、何気なく、俺、車買い替えたいんだぁ~と、暗に金の催促をされました。しらいさんも電子レンジが欲しいらしい。
うんうんとそれを聞いて、彼が帰った後、しらいさんがわざわざ丹精込めて作ってくれた弁当を、私は、部屋の床にぶちまけ、大声でヒステリックに笑いました。
乾いた笑いでした。そして、泣きながら、ぶちまけた料理のひとつひとつを拾いながら食べ、また泣きました。
もう、いい…辞めよう。
私は、テンパが今でも好きです。しかし、私は音楽人間ではありません。

その後、私は、出版仲間に旅費のカンパを募り、親友のいる鹿児島に都落ちしました。
私の借金は300万円ほどでした。

借金返済のため、鹿児島の天文館のクラブでホステスもしました。業界紙の記者、八百屋の売り子、ありとあらゆる事をしました。
当時の借金の中に、COMの仲間の飯田君に、20万円借りました。
飯田君は、その時、私が良く知っている某有名漫画家のアシスタントをしていて、その漫画家からお金を借りて、黙って貸してくれ乃した。
その事実を知ったのは、随分後でした。

結果、借金は、秋田書店から独立した、K氏とT氏が宙出版を立ち上げ、会社は大きくなり、私も不眠不休で働き、何とか借金は返済できました。
ある時、宙出版へ、テンパが仲間を引き連れて、ふらりとやってきました。
相変わらずだな~と思いました。

記憶の時間が前後しています。細かいエピソードはごまんとありますが、いずれまた…m(__)m

ただ、これだけは言っておきます。いまでも、テンパは好きだし、しらいさんも大好きです(´▽`)

相変わらず、誤字脱字と文章が変かもしれませんが、ご容赦を…珍しく、塚ちゃんの時と、コレは素面で、一気に書いています。
読み返すことも無く、一気にブログにあげます。反省はしても後悔はしない私ですから…(笑)

私のHPです。漫画関係や都落ちしたことを書いています。
http://doranekosora.sakura.ne.jp/