2016年10月16日

 

20数年前、英文学者であり、翻訳家、随筆家の柳瀬 尚紀(やなせ なおき)さんを、私が初めて知ったのは、彼からの家人への、自宅の電話からです。

「久保君は、いますか? 柳瀬ですが…」
「外に出ています。主人は、一旦出ると、切れた奴凧ですから」
「奥さん、僕の名前、知らないの? 柳瀬 尚紀だよ」
「知りません」
すると、電話の向こうから、ハハハと愉快そうな笑い声を残し、電話は切られた。

好奇心の強い私は、95年当時の、家人のパソコンのデスクトップにしがみつき検索した。
彼の名前は、いくつものコーナーに、色々な作品の紹介と共に、英文学者、翻訳家、随筆家と記されてあった。

帰宅した家人に、そのことを告げると、柳瀬さんも子供っぽいこと言うなぁと笑っていた。

ある時、家人へ、柳瀬さんからの突然のお誘いの電話があった。
私が、本当に久しぶりの、2人一緒に夕食が出来ると思っていたので、嬉々として出かけようとする、家人の前で、
「いってらっしゃい、これは食べないわね」
と、私は、作ったばかりの料理の数々を、ゴミ入れに皿から捨てた。

ある年の大晦日の夕方、やはり、突然に家人へのお誘いがあった。
私は、家人の外出、将棋、ギャンブル関係、テレビのスポーツ観戦には、一切口を挟まないことにしている。
彼自身のお楽しみだから……。
しかし、毎年、大晦日だけは、年越しそばを食べる時間までには、絶対に帰宅してね、と常々懇願してあった。

このお誘いは、編集者関係などを自宅に集めて、柳瀬さん自身が酒を呑みながら、一晩中、楽しもうというものだ。
私が怒ったのは、各編集者だって、会社も休みだし、家庭もあるだろうに、と思ったからだ。
担当編集者だって、作家への断りは言いだしにくい。
しかも、大晦日の夕方遅くに、だ!!
家人は編集者ではないが、何故か柳瀬さんに気に入られていたらしい。

結局、私がその時は、行かせなかったと記憶している。

家人が柳瀬さんと知り合ったのは、家人の、同じ大学時代からの友人、小林恭二さんからの紹介だったらしい。
恭二さんは、文学小説家で、俳句関係のプロデュースもやっているみたいで、現在は、某大学の先生もやっているようだ。

柳瀬さんは、世間で一流とされる、文芸関係の編集者や新聞記者と共に、プロの棋士を招いて、
「いちもくさん会」を渋谷の旨い割烹料理屋で、月に一回、木曜日に開いていた。
そこで、将棋を指しながら、飲み食いするという、サロンのようなものだ。

1996年2月14日、将棋界で初の7タイトル独占を達成していた、羽生善治さんも何度も、いらっしていたらしい。
……生で見たかった……好奇心だけのみ、だが…( ̄∀ ̄;)…。

ある日、私は、柳瀬さんの奥さんも来るからと言われ、家人と共に初めて招待された。
何度か、私が家人に電話をつなぐ時、ちょこちょこお喋りをして、そのたびに柳瀬さんは、私の話すエピソードを聞き、電話の向こうで大声で笑っていらっしゃった。

気の荒いコノ私を、柳瀬さんご自身が、生で見たかったようだ。
その後、いちもくさん会には、二度ほど伺ったことがある。

その店で、私は、柳瀬さんの奥さんと話し込んでいた。
柳瀬さんは、学生だった彼女を自分の奥さんにしたらしい。
可愛らしくて、荒事の世間とは、全く関係のない世界にいらっしゃるようだった。
私は、サービスのつもりで、面白可笑しく、色々な漫画界や、世間のエピソードを話すと、真剣に聞き入って下さった。
奥さんは、世間の汚れを全くご存じないようで、世間ズレのない無垢な方だった。

傍で柳瀬さんは、私と奥さんの会話に聞き耳を立て、ハードそうな話になると、慌てて会話に割り込み、その時のエピソードを流していった。

柳瀬さんご自身が、無我って流にしているのに、奥さんを大切になさっているんだなぁと、感心もしたし、何故かそんな柳瀬さん自身が可笑しかった。

この会で、初めて、プロの棋士・中原名人と出会った。
当時は、世間のスキャンダルに渦中にいるにも関わらず、落ち着き払い、端然と座っている姿は、周りの空気と違うオーラがあった。
こういうのを、品位を持った人間なんだろうなぁ、と、私は深く感心した。
……あのスキャンダルは失態しただけのことだと、私は思っている。


閑話休題……。
別のいちもくさんの会で、
ある文化人の女性と、同席した。彼女は、終始女王然とふるまっていた…別にイイけど…(+_+)
彼女は、自分の夫も連れてきていたが、新婚で晩婚の、へいこらしている夫の男が気の毒に見えた。

今、、ネットで検索したら、
……多数の書籍の装丁や挿画、アクセサリー、食器、舞台衣装のデザインなどの幅広い分野の作品を発表している。
また、美術以外の分野でも、旅行、音楽などについての挿画を交えたエッセイを多数出版しているほか、1999年のネスカフェ・ゴールドブレンド
を初めとするCM出演や、2005年のベストジーニスト受賞など、その活動は精力的で、多岐にわたる。
……と、出ていた。

私は、柳瀬さんの招待したお客さんにも、関わらず、未だにあの時の傲慢な態度に怒っている……私もしつこい…(:_;)

その時は、結婚したばかりの若い棋士が、奥さんと共に招待されていた。

その文化人の女性は、先に退席する時、これから銀座に飲みに行くからついていらっしゃいと、頭ごなしに数名の男たちを指名した。
新婚の棋士も指名され、困っていた。
何故なら、その文化人女性は、最初から最後まで、その若い棋士の新妻を完全無視していたからだ。
指名する時も、新妻に、なんの挨拶も無く、だ(怒)
まだ幼さの見える新妻は、今にも泣きそうに、じっと我慢して堪えている姿が痛々しかった(怒)
東京に出てきて間もないようだし、最愛の夫をお持ち帰りされた挙句、いきなり夜の渋谷にひとり放りだされたら、どんなに心細いだろう。
それでなくても、新妻は、会の雰囲気にのまれ、緊張して固まっていたのに……(:_;)

家人も指名された。
瞬間、私は、「久保はモノじゃない、妻の私に一言挨拶しろ」と、吠えた。
彼女は気まずそうに、スルーしていった。
私は、新妻の事もあって、それを含めて、文化人女性に、家人が止めるまで吠えまくった(怒)


柳瀬さんは、羽生さんなどの、将棋の観戦記も書いていたようだが、競馬関係にも書いていた。
毎年、大きなイベント競馬があると、家人を、必ず馬主席に招待して下さった。
2~3年前だったか、家人の経済状態を察して、招待状と共に、立派なネクタイを一緒に送って下さった。
家人は驚き恐縮しきっていたが、私は、なんだ柳瀬さん、解ってんじゃん…と思った。

万年少年のような柳瀬さんは、好奇心も旺盛だった(´▽`)
柳瀬さんが翻訳してヒットした、「チョコレート工場の秘密」で、一息つけたと家人に話していたらしい。

柳瀬さんは、肺気腫だったらしい。
突然、肺炎になり、間もなく亡くなったと、家人に悲報が入ったのは、つい先日の事のように思えるし、家人が、柳瀬さんのお別れ会に行ったのも、先日のように思える。
家人に、お別れ会の様子を聞いて、大勢の方々が見えられ、その中で、奥様は、気丈に振舞ってらしたと聞いて安心した。

柳瀬 尚紀(やなせ なおき、
1943年3月2日 - 2016年7月30日)
日本の英文学者、翻訳家、随筆家である。
その翻訳は、語呂合わせなどの言葉遊びを駆使した独自の文体で有名。
「悪訳」をするとみなした翻訳家に対する痛烈な批判でも知られる。

2016年7月30日に肺炎のため死去。73歳没。……合掌m(__)m。

私のHPです……http://doranekosora.sakura.ne.jp/