◇◆◇安倍総理は逆上ればイズモ王・事代主の系譜◇◆◇
◇◆◇蝦夷扱いされ正史から葬られた、日本の名門◇◆◇
■事代主・・・子孫→2世紀のヤマトの指導者・大彦(ナガスネヒコ)
■大彦(ナガスネヒコ)はヤマトに攻めてきた物部勢と戦う
■大彦は戦いに敗れ、東国に移住し強力な→安倍王国を築く
■ヤマト物部勢からは蝦夷と蔑まれる
■安倍王国が最初に「日の本」国を名乗る
■大彦(ナガスネヒコ)→阿倍→安倍→安東
鳥取県米子市に安倍という地名がある。なぜ安倍という地名になったかと言うと、安倍という家
が、多かったので、その地名がついた。なぜ安倍家が多かったのか。それは先祖が粟嶋神社にまつ
られているからだった。子孫は先祖の地に心ひかれて、どうしても住みたくなるということで子孫
の安倍家が集まり、安倍という地名になった。それは1062年の前九年合戦で敗れた安倍一族が
船で、この地に逃れた、ことにさかのぼる。その粟嶋神社に祭られている先祖とは、出雲王国の有
名な第八代スクナヒコの事代主(個人名・八重波津身・やえなつみ)通称エビスさんとして、親し
まれている御方だ。紀元後180年頃のヤマト磯城王朝第八代クニクル大王(孝元)の御子で、実
質のヤマトの指導者は大彦(個人名・ナガスネヒコ・ナーガ竜神、スネヒコはスネークに通じる)
、尚、大彦とは大兄(おおえ)に相当する呼称である。、安倍家の直接の祖先に当たるが、大彦・
ナガスネヒコは事代主の血を引き継いでいた。紀元後180年頃にヤマトに攻めてきた第一次物部
勢と戦ったのが大彦であった。劣勢になり、琵琶湖の東岸に逃れた。なおも攻撃された大彦・ナガ
スネヒコは、出雲の向王家に来訪して加勢を求めた、と伝承されている。3世紀に日向にいる物部
政権が出雲を攻めるという噂があったので、向家は大彦・ナガスネヒコを助ける余力はないと、断
った。そのときまで、富家を名乗っていた大彦・ナガスネヒコに、以後は富家を名乗らないように
通告した。摂津国三島(大阪府高槻市)に事代主の領地があった。そこの山、(阿武山)の名をと
って、大彦・ナガスネヒコは以後、阿武(あべ)家を名乗ることになった。いわゆるナガスネヒコ
王国は、その後も物部王国に追われて、都を駿河の安倍川付近に移した。ナガスネヒコ王が亡くな
った後では、王家は安倍家を名乗り、クナト国を名乗った(因みにクナト大神に由来する)。三島
の人々はナガスネ王家を守るために、駿河国まで付いて行き、伊豆半島の入口に三島の町を造った
。そこに三島大社を建て、事代主をまつった。阿武山は古代は重要な神山で、今城塚古墳はその山
に向けて造られた。物部勢は安倍王国の征服に向かい、焼津や日本平の戦いなどで勝ち進んだ。安
倍勢は船で常陸(ひたち)国に移り、鹿島を都とし、そこに鹿島神宮を建て雷(出雲竜神の化神)
を祀った。中臣氏率いる軍勢が西から攻め神宮を奪った。そして、そこの祭神タケミカヅを奪って
自家の氏神に加えた。先に述べたように、出雲族はインドの太陽神スーリアの信仰を受け継ぎ、大
和に移住した後も三輪山の日の出を拝んだ。旧大和王国のナガスネ王一族と従う人々も、同じく太
陽信仰を持っていた。それで、住み着いた常陸国を「日立ちの国」と呼んだ。それは「太陽の昇る
国」の意味だった。「常陸国風土記逸文」に、鹿島の西方の「信太群の地は本、日高見(ひだかみ
)国なり」と記されている。また駿河の安倍川の東にある日本平の「日本」は、「日の元の国」の
意味で安倍王が名付けた地名かも知れない。その後、安部王国は宮殿を睦前国や睦中国へと移した
。そして、国名を日高見国と称した。今の北上川の名前は元は、「日高見川」だったらしい。その
流域に、鳥海柵や厨川柵(盛岡市)などの防衛基地の遺跡が残っている。ナガスネ王国が日高見国
と名乗ったから、日本書紀の景行期27に「東の夷の中に、日高見あり」と書かれた。日高見国は
その後、「日之元津国」とか、「日本之(ひのもとの)国」と名乗った。「旧唐書」(倭国日本国
の条)に次の記事がある。「日本国は倭国の別種なり。その国は(あさ)日の辺にある故に、日本
を名とする。倭国はその名が上品でないと自ら嫌い、改めて日本に変えた。あるいは言う。日本は
古くは小国で、倭国と並立していた」この日本国は倭国とは別の国名で、独自の貿易を行っていた
。この貿易の続行による輸入品は、後の平泉文化にも入っている。だから、この史書に書かれたよ
うに、日本列島には二つの独立国があったことは、外国には広く知られていた。そして「日本(ひ
のもと)」の国名は、東北の日高見国が先に使ったものだった。北にあった日本国の記念碑が、青
森県東北町に残っている。場所が移動したので、元あった位置「石文」の地名から陸羽街道(国道
4号線)をはさんで反対側の千曳神社近辺にある。その南が「坪」の地名で坪川が流れている。そ
の石文には、浅い彫りで「日本中央」と書かれている。浅い彫りであることが、彫る技術が未発達
な古い時代に造られたことを示している。この石文は東国の王・安倍致東が建立したと伝えられて
いる。伝承によると安倍政権には、アイヌ代表も加わっていたと言う。ということは、日本国はア
イヌが住む渡り鳥(北海道)や樺太も領土にしていたことになる。だから坪の石文が建てられた時
は、その場所が安倍王国すなわち、日本国の中央であったことは、誇張でないことがわかる。その
後、倭国は日本国の名を使ったから、大和政権の記事は「新唐書」では「東夷伝の日本の条」に書
かれた。それに関することが、若狭国の羽賀寺(小浜市国富)に残された記録だ。それにナガスネ
王の子孫・安倍(安東)康季公がその寺の伽藍を再興した際のもので、「奥州十三之港の日本の将
軍」と1435年に名乗っている。この文は安倍氏の東北王国が日本国を名乗った後に、倭国が勝
ってに日本の名を使ったことを示している。東北地方を領国とした安倍王は、都を津軽半島に定め
た。亀岡(木造町)はアラハバキ(出雲と同じ竜神木信仰)の聖地とされて、王国各地より、代表
が祭りに参列したと言う。その際に祭壇に目閉じ女神像が立てて拝まれたらしい。平安時代の末に
は、安倍王家の一部は奥六群に中心を移した。そこに源氏の軍勢が進出し、政府の指示なしに、私
闘を繰り広げた。それがいわゆる前九年合戦だった。これに敗れた安倍王家は領土を狭めた。安倍
家は鎌倉時代には安東氏を称するようになった。当時はアイヌが住む北海道も支配していたから、
自分の家系が東国の将軍だと自負したのは当然だったと考えられる。後の中心地は、津軽の十三港
(とさみなと)近辺だった。そこは初めはトミの港と呼ばれたが、後にはトサと呼ばれた。近年、
安東勢力の根拠地跡が発掘された。その場所は津軽半島の西海岸にあり、岩木川が海にそそぐ所だ
った。十三湖の日本海側に二本の長い砂州が防波堤のように伸びている。その内潟の明神沼の入口
に護岸施設と桟橋か゜ある港湾施設(青森県市浦村)が見つかった。安東氏の館と家臣団屋敷を掘
と土塁で守る形になっている。掘の外側には町屋や寺院跡があった。この十三港と町は出土遺物か
ら鎌倉時代初期に出現したことがわかった。1968年に函館空港の近くに、中世の志苔館遺跡が
発掘された。そこから、銅銭が37万4千枚以上見つかった。日本列島での埋納銭としては、最多
数だった。これは安東一族が埋めた可能性が大きい。安東氏は鎌倉時代後期に、北条執権政府の支
配下に入った。それ以前は独立していたから、古代から続いた安倍王国はこの時、終了したと言え
る。その後、文永と弘安年間の二回にわたり蒙古軍船の大襲来があった。二回とも神風が同じ場所
に来て、蒙古軍船は全滅したという奇妙な話が流された。しかし、実際は執権政府の要求に応えて
、津軽の安東水軍等が海上で懸命なゲリラ戦を繰り広げ、蒙古船を追い払った、と古老は伝える。
羽後国で湧き出る重油を樽に入れ積んだ安東船は、夜陰にまぎれて蒙古船に近づき、重油をつけた
松明に火をつけて敵船に投げ入れた。多くの敵船は燃えた。前九年合戦で敗れた安倍宗任は肥前松
浦に移って、松浦姓を名乗り一族は松浦党という水軍となった。かれらも蒙古軍船撃退のために活
躍した。残った蒙古の軍船は逃げ帰ったという。鎌倉幕府は恩賞を与えることを嫌い、安東水軍の
活躍を無視したという。蒙古船の一部は安東船を追って津軽まで進み上陸した。しかし、蒙古兵は
安東氏の指揮する軍勢に打ち滅ばされた。その蒙古兵のことが、今も津軽の子守唄に歌われている
。松浦党の一部はその後、先祖ゆかりの地・出雲に移り住んだという。その後も安東水軍による海
外貿易は続いたが、1341年(南北朝時代)の大津波が、十三港襲い町も滅んで、安東家(安倍
家)は衰退した。日本の名門・安倍家は時の政権から異民族でないのに蝦夷扱いされ、出雲王国と
同様に勝者の歴史=正史から、葬られた。大彦は二世紀末の指導者だったが、「記紀」では紀元前
二世紀の豪族にかえられ、神武天皇の敵にされた。たしかに大彦は、徹底した物部嫌いであった。
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◎かぐや姫の物語には、国家最大のタブーが隠されてた
■かぐや姫コード
「いまは昔、竹取の翁といふもの有りけり」で始まる、かぐや姫の話には、重大なコード(暗号)
が隠されていた。おとぎ話は、あくまで隠れミノであり、作者がかぐや姫を創作した真の意図はお
とぎ話の中に隠された(コード暗号)であった。かぐや姫の話は、時の権力者が犯した歴史の改ざ
んについて糾弾するために、おとぎ話の設定を借りて後世の日本人に是非、気づいてほしいとの命
がけの思いで書かれたものて゛ある。これは不都合な事は隠し、自分達の都合のいい話に、歴史を
歪曲してしまった虚飾に満ちた「古事記」、「日本書紀」のいわゆる「記紀」の欺瞞を糾弾するの
が目的だった。しかし作者が工夫して書いた、かぐや姫の意図は気づかれず、現代では作者の意図
とは反対に、おとぎ話が映画化されてしまった。また学者も「記紀」に書かれていることを鵜呑み
にして古代史を解説している。日本の古代の歴史を、欺く基を作った「記紀」の欺瞞は1300年
経ても解明されていないのである。歴史の勝者の子孫によって作られた官史。それが正史として後
世に残る。。そこに権力者でも及ばない月の明りを照らして、隠された勝者の不都合な歴史、敗者
の歴史というものは、一体何だったのか、ということを後世の子孫に探ってもらいたいという願い
で「かぐや姫」の物語は、書かれた。
■封印された「かぐや姫」、200年後に発表
かぐや姫の作者は事代主の子孫にあたる伊予部馬飼(うまかい)が書いた可能性が高い。「記紀」
が世にでたあと、あまりにものの虚飾に憤慨し、おとぎ話の設定にし、批判とはわからぬように工
夫して書いたが、話の比喩、実在の政界実力者をもじった登場人物の設定など、わかる人が見れば
時の政界実力者への批判、官史への批判ということは一目瞭然だった。そんな物を世に出したら、
一族郎党の壊滅は必至だった。その後、あたり障りのない200年後に、彼の意志を継いだ子孫が
発表した。そういう理由で作者不詳になっている。
■かぐや姫コード(暗号)とは登場人物とその筋書き
かぐや姫に求婚する5人の貴公子は「記紀」が製作された当時の政府高官がモデルになっている。
偽りの多い「記紀」を書かせた人と虚飾を知りながら黙認した人たち、だった。偽物を作らされた
金工は、偽物の史書を書かされた、古事記の執筆者、柿本人麿がモデルだ。これが、かぐや姫のお
とぎ話の中に埋め込まれた、登場人物とその筋書きが、「かぐや姫コード(暗号)」である。まず
、「記紀」に虚偽の話が加えられたことを黙認したことで、悪役にされた三人の名前は、実存の大
納言・阿部御主人(みぬし)は物語では左大臣・阿部ミムラジとされて「永遠の皮袋(真実の史書
)」を見つけに行ったが、偽物を手に入れて来た。実存の大納言・大伴御幸は物語では同じ位と実
名で登場した。かれは竜の玉を得るために、竜神を殺そうとした。神罰のアラシは大伴を襲い、船
は転覆寸前となった。雷神は大伴御幸を攻撃し、かれは死に直面した。これは古事記にヤマタのオ
ロチ(竜神)を殺す話を作った人を、大伴御幸に例えている。実存の右大臣・丹比(たじひ)島は、
物語では石作ノ皇子とされた。丹比氏と石作氏は同族だったからだ。かれは「仏の光る石鉢」を探
せられたが、見つけられなかった。かぐや姫の話は、「記紀」製作時の政府高官がモデルになった
登場人物が失敗し、罰をうけた話だ。「記紀」の虚飾に怒っていた当時の知識人は、さぞ溜飲が下
がったことだろう。
■藤原不比等への糾弾
作者が一番、糾弾したかったのが、偽りの多い「記紀」を書かせた、時の右大臣・藤原不比等であ
った。隠されているが「記紀」の実質総責任者は藤原不比等であった。不比等は、かぐや姫の物語
の中では、かぐや姫に求婚する貴公子の中の一人、庫持ノ皇子の名前で登場している。右大臣・藤
原不比等の母の名が、車持与志古娘だったので、「車」の字と良く似た字の「庫」にされたらしい
。
■藤原不比等の描かれ方
物語の中で、庫持ノ皇子が、かぐや姫から与えられた結婚の条件は、「真珠の枝」を探してとって
くることだった。持ノ皇子は「真珠の枝」を海に行って探すこともせずに、金工に偽物を作らせた
。しかも金工に工賃を払わなかった。それらの実態をかぐや姫に見抜かれて、恥をかいた。かぐや
姫はほうびとして金工たちに、たくさんの工賃を払った。その後、庫持ノ皇子は金工たちの帰り道
を待ち伏せし、血か゜出るまで金工たちを殴り、工賃を奪った。この筋書きは何を暗示しているの
か。
■かぐや姫最大のコード(暗号)
偽物を作らされた金工の名は、漢部(あやべ)内麻呂という名で登場している。これは嘘の多い官
史(古事記)を書かされた、綾部(あやべ)柿本人麿がモデルだ。人麿は幼少時は綾部姓で柿本家に養
子に行き綾部姓から柿本姓に変わった。この設定は史書製作における右大臣・藤原不比等と柿本(
綾部)人麿の関係を表している。庫持ノ皇子と金工・漢部(あやべ)内麻呂のこの登場人物と筋書
きが、かぐや姫最大のコード(暗号)である。
■監禁/流刑
古事記を書き終わったあと、人麿にはとんでもない事件が待ち受けていた。高貴な女性との密会と
いう濡れ衣を着せられた。そして、監禁されその後、上総(かずさ)国に流刑となった。はめられた
のだ。なぜ人麿はこのような運命にならなければいけなかったのか。それは虚飾の官史を書かせら
れためだった。証拠隠滅である。和歌を詠み、日本人の精神風土の土台の一つを作り日本文化に多
大な貢献した偉人・人麿は、人生後半は不比等に利用され、虚飾の史書作りに関わらされたために
口封じの陰謀にはめられ最後は不幸な運命にされた。そのことを現代日本人は知らないのである。
■蔭位(おんい)の制
藤原不比等の時代に律が決められた。あわせて貴族・上級の官吏には経済的・身分的な特権が与え
られた。父や祖父の位階に応じた地位が無条件で与えられた。つまり貴族は生まれた時から、どの
官職につくか、出世の時期も決められていた。日本書紀に祖先が活躍したことが載れば、それは上
級の官吏になれることを意味する。また国史である「日本書紀」に、本当は黒でも白と書かれたら
、白になる。権威があった。当時の都は粛清と「蔭位(おんい)の制」があり、北朝鮮と同じ空気
があった。現代人には理解できないかも知れないが、それが公家社会の掟だった。お上が黒を白と
いったら逆らえなかった。奈良時代までは出雲王国のことは良く語られていたが、国史「日本書紀
」がでて講義されるようになると人々は史実として書かれていない、出雲王国のことは語らなくな
った。それが1300年も続いているのである。尚、そういう中での、かぐや姫の作者の「記紀」
への批判は命がけ、一族没落と背中合わせだった。
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■何故、かぐや姫の作者の怒りに気づかないのか
かぐや姫の作者が後世の子孫に気づいてもらいたいという願いが、何故届かないのか。それはひ
とえに、学者の怠慢である。まず古代史を語るのは、その多くは「記紀」、「風土記」の研究者で
ある。かれらが語る古代史と言うのは、官史「記紀」=正史の前提で、「記紀」に書かれている、
記述を研究・解釈することが古代史研究と思っている。その学者の書いた、監修した本・雑誌が、
書店の古代史コーナーにあふれている。そのために日本人は間違った古代史の常識を持つようにな
った。「記紀」研究者は、まず大きな背景を見逃している。国宝となっている「海部氏本系図」、
と「海部氏勘注系図」には、海部氏の祖先が徐福であることや、徐福が出雲王国の第八代の王であ
る有名な大国主、の娘・高照姫と結婚したことが書いてある。そして生まれた子が五十猛であり、
姓を海(あま)とし、海(あま)五十猛と名乗る。成人すると、出雲に渡来してた秦(ハタ)族の
集団を引き連れ丹波の国に集団移住した。そして、丹波の国で指導者となり、香語山と改名し、海
(あま)香語山となる。、その子が海(あま)村雲である。「記紀」では、天 村雲と書かれた。
天 村雲が、出雲人が開拓したヤマトに後から丹波人約一万人を引き連れ、集団移住した。そして
、出雲人集団と丹波人集団が協力して、政治的共同体を作った。それが初期のヤマト政権だった。
その後、天 村雲が、事代主の娘であるタタライスズ姫と結婚したので、村雲が両集団の代表とさ
れた。その代表が、後世に、ヤマト初代大王とされた。尚、海(あま)家は、三韓征服に参加した
あと、海部(あまべ)氏と名乗るようになった。近年では海部(かいふ)という呼び名に変わって
いる。話は戻るが、その徐福とは、「記紀」ではニニギノとしても書いてある。また「記紀」では
よく知られているように初代天皇は、神武天皇と書いてあり、その神武天皇の始祖は「記紀」では
、はっきりと日向に天孫降臨したニニギノと書いてある(実際は有明海に上陸したのだが)そのニ
ニギノとは、秦国から渡来して来た、徐福である。さらに「記紀」製作の責任者が時の右大臣・藤
原不比等ということが、わかっていない。まずわかっていたら、藤原不比等が関わっていることが
わかれば、信用に値しないことがわかるはずだ。わかった上であれば、「記紀」を前提に歴史を語
るのは、おこがましいのある。さらに「記紀」では歴史書といえ、権力闘争が一切書かれていない
不思議がある。戦国時代のような戦乱がないのは、どう考えても、おかしすぎる。戦で一人も死ん
でいないのである。記述内容は子ども向け相手のおとぎ話のような物語だ。さらに万世一系になっ
ているが、それについては一切、触れないのである。「記紀」は冒頭、国生み神話が書かれている
が、これは誰でも作り話だと分かる。また古事記ではその後、神話の話が続き、「出雲神話」と「
日向神話」が書かれている。学者はそのまま神話の話と解釈して解説している。ただし考えてみれ
ば、なぜ「出雲神話」と「日向神話」が書かれたのか。たんなる暇つぶしで書かれたのか。またな
ぜ、「出雲」と「日向」なのか。吉備と讃岐ではダメだったのか。ちょっと考えても史実としてで
なく、神話にされた裏には、何か重大な事が隠されていると考えるのが普通である。しかし、神話
の絵空事として、学者は史実としてみていない。その証拠に出雲を語る枕詞は「神話の国、出雲」
、「神々の国、出雲」、「神代の出雲」である。日本で最初の王国が神話の話にされ放置されたま
まになっているのである。さらに古代最大の渡来集団の徐福集団の渡来に関しては、古代史、最大
の事件であるはずの、縄文→弥生になった記述が「記紀」には一切、書かれていないことである。
それは、ペリーの黒船襲来の事件を隠して、江戸から明治時代になったと書かれているのと同じで
あるが、学者はそういうことを一切し無視し指摘もしないのである。
■かぐや姫の作者は何に怒っていたのか
それは「記紀」では古代史、歴史年表で言えば弥生時代の歴史が、いいように改ざんされている
ことだった。それは紀元400年頃~紀元後300年頃の歴史である。但し、あえてそういうこと
は、声高に指摘しなくても「記紀」のその時代の記述が歴史年表に採用されていないことを見ても
、学問的には史実と認められていない証左である。一番、大きい理由は、持統女帝の指示で「記紀
」は、史話を撰善言(よきことえらぶ)巻末資料参照で書くことに、なったからである。これは簡
単にいうと、TVの水戸黄門のようなものだ。実際の水戸光圀の史話ではなく、子どもが見ても安
心な脚色した話で正義は悪に最後は勝って、メデタシで終わるような話だ。だから結果、史話は嘘
で嘘を塗り固めた、ような話になった。史話が180度、変わってしまうのである。だから、そう
いうことを踏まえて「記紀」を見なくてはいけない。しかし、現代の学者は、「記紀」に書いてあ
る虚構の話の上面の解説に全労力を費やしており、例え話から、真実を探ろうという考えがないの
である。そのため、「記紀」の古代史に関しては、マンガの解説のような内容ばかりである。例え
ば「本能寺の変」を、撰善言(よきことえらぶ)方式で書くと、お殿様も旅先で戸締り、火の元に
注意しないと火事に遭います。よい子は火遊びに気を付けましょう。と言った話に変わってしまう
のである。子ども向けには、いいかも知れないが、大人が読む史書として耐えられない内容になっ
た。だから「記紀」には、権力闘争、戦争、裏切り、騙し合い、攻撃、滅亡と言った歴史の真実は
語られず、子ども向けの、マンガのような歴史書が、官史となった。他に万世一系方式の編集方針
も史実と異なる結果になった。これは例えると、織田政権、豊臣政権、徳川政権と政権が代わって
も同じ政権が続いているように見せることだ。それは、徳川政権は初代は徳川信長、二代目は、徳
川秀吉、三代目が徳川家康といった具合だ。また権力闘争を書くことも禁じられたので「比叡山焼
き討ち」、「大阪夏の陣」といった戦があっても、「記紀」では、隠された。尚、天武天皇以前の
大王は万世一系方式のため天皇にされた。また、万世一系方式のため、それらの大王には「記紀」
で創作された天皇名が付けられた。さらに天孫降臨をする話を入れることになった。人間が天孫降
臨することなど、おとぎ話ならいざ知らず、歴史書に天孫降臨の話をいれたら、歴史でなくなる。
以上の理由で「記紀」は史実とかけ離れた話が多数、存在する結果になった。まだ「記紀」の虚飾
は他にも多数あるが、以上みただけでも、かぐや姫の作者だけでなく、大人であれば誰でも、あま
りにものの虚飾に憤慨するのである。神話・歴史的おとぎ話なら許せるが、しかし大人が「記紀」
は官史だから、書かれていることは正しいとの思い込みで、まともに読むと有害な面がある。元総
理が「日本は神の国」発言をして話題になっていたが、総理大臣でも「記紀」の虚飾を信じている
のである。それは明治政府以降の王政復古政策により、官史「記紀」は絶対的になった。その時代
の国民は天孫降臨した話も信じたのであった。それは官史ということで嘘でも本当のことだと思わ
せる権威があるのである。かぐや姫の作者は官史「記紀」の何に怒っていたのか。生命の保障も顧
みず時の権力者に楯突いても、かぐや姫コードで、子孫に是非わかってほしいという願った真善美
とは何だったのか。史実でない記述が大半を占める史書を、偽書とするならば「古事記」は偽書と
言うことができる。日本書紀は、古事記より後の時代も書かれていて、後半に偽りが少ないので、
詐偽が過半数とはならない。
■「記紀」により日本人は間違った古代史の常識を持つようになった。
「記紀」では「出雲王国」と「徐福集団の渡来」のことを史実としてではなく、神話の話に変えた
。文明が栄え、日本で最初の王国である出雲王国だったが、国史により神話の話にされたため、出
雲は「神話の国」として語られるようになった。そしてはまた、弥生時代の到来をもたらした「徐
福集団の渡来」についても、「記紀」で出雲へのスサノオの天孫降臨、日向・高千穂のニニギノの
天孫降臨で誤魔化した。「出雲王国」と「徐福集団の渡来」という古代史の根本が何故、史実とし
て隠されて、神話の話にされたのか、それは簡単に言うと、勝者の子孫の都合で隠された。しかし
、史実として抹消しても何らか触れないと誰も納得しない。そこで神話の話にして差し替えた。何
の意味もなく「出雲神話」や「日向神話」が書かれた訳ではないのである。奈良時代に書かれた「
記紀」のせいで、日本人は1300年間も、自国の歴史について、誤った認識を持つようになった
。それは日本人は、どこからやってきたのかを忘れる結果になった。そして日本人の先祖は、中国
大陸や朝鮮半島から、渡って来たんじゃないかと漠然と考える国民になった。それは官史(記紀)
=正史と思い込む、お上に弱い国民性も影響している。日本人は自国の古代の歴史については、思
考停止した国民になってしまったのである。
■日本古代史研究レベル
和国、最初の歴史書「日本書紀」、「古事記」、「風土記」についての学者の見識は、狭い専門知
識範囲での見解であり、俯瞰した知識がないのである。依って史学者・考古学者の見識というのは
単純・純朴そのものである。誰が何の目的で、どういう背景で書かれたのか推測する能力が、完璧
に欠けている。それは、専門分野以前に洞察力がないのである。「日本書紀」、「古事記」が、書
かれた当時の政治状況、政治を動かした人物は誰か。誰が国の支配者であったのか、大きな時代の
流れの視点等の観点が全く欠け落ちているのである。そういうことを抜きに「記紀」をとらまえて
語るのは、いささか狭量すぎるのである。また歴史というのは、日本書紀」、「古事記」以外に民
間の風習・祭り・伝統があり、それらのほうが真実の歴史があり重要であるが、フィールドワーク
もなく、それらの知識がないのに堂々と学者は専門分野での知っている狭い範囲での古代史を語っ
ているのが日本古代史の現状である。つまり、日本の古代史と言うのは、神話解説者や、「記紀」
研究者がいたり、古墳至上主義の考古学者がいたりで、古代史は狭い専門分野しかわからない学者
が好き勝手なことを言う、言いたい放題が現状であり、そのため日本の古代史は混沌としてしまっ
た。言いたい放題が古代史の現状である。戦国時代以降は様々な敗者の歴史にも光が当たっている
が、古代史に関しては、依然とし勝者の歴史=正史「記紀」のみであり、敗者の歴史に光をあてる
研究は、まったくなく、「記紀」の言いなりになっており、学問として成立しえてないのが現状で
ある。そのレベルの低さを物語るのがが古代史最大のロマンと言われるヤマタイコク・ヒミコ論争
である。
■日本人の祖先の偉大な旅
約6万年前に人類はアフリカから出発し、車も飛行機もない時代に地球上のあらゆる地域に進出
、拡散した。南米の高地、北極圏、赤道直下のジャングル、寒冷地、乾燥地帯そして、それぞれの
地域の気候・風土の環境に適合して、それぞれの人種・民族になっていた。大陸の東の海に浮かぶ
日本列島にも、偉大な旅をして渡って来た、日本人の祖先の物語があった。それは今から3500
年前の話である。
■日本人は4大文明の一つインダス文明の子孫
いわゆるイズモ族は3千年以上前に、日本の本州に民族移動したと言う。「鼻の長い動物の住む
国から来た」との伝承がある。3500年以上前に、インド西北から戦闘的な民族アーリア人がイ
ンドに侵入して、先住民の土地を奪い牧畜を行った。母系制度で平和に暮らし農耕生活だった先住
民はドラビダ人だった。4大文明の一つインダス文明はドラビダ人が築いた。紀元前3800年頃
から、砂漠化や洪水、河川流路の変更など、さまざまな理由にのよって衰退期であった。紀元前3
500年頃、インドの中部に、クナ国と呼ばれる小王国があった。(今のグナの町らしい)そこに
イラン高原で遊牧をしていたアーリア人がが次々に侵入して来た。彼らは騎馬民族で父系家族制だ
った。森の樹木を切りはらいどんどん牧場を広げて、勢力を広めた。アーリアの男たちは、クナ人
の家に婿が来ていない夜の隙を狙って泊まり込み、女たちに彼らの種を植える行動に出た。彼達は
父系家族民なので、戦いに長じていた。クナ国の家々は女戸主の家族だったから、まとまりが弱く、
対抗できなかった。結果として、アーリア人との混血児をクナ族の女が産み、育てることが多くな
った。そして多くのドラビダ族は、アーリア人の奴隷にされた。母系家族制の民族は平和的だが、
父系家族制度の民族が得意の戦争には弱い面があった。この情勢の中で南方に逃れるドラビダ族も
いたが、クナ地方を支配していたクナト王は別の策を考えた。当時インドには、バイカル湖方面か
ら、ブリヤード人の商人が交易に来ることがあった。彼らから「シベリアの南方の大海原の中に住
民の少ない、温暖な島がある」と聞いていた。クナト王はそこに移住しようと考えた。出雲の古老
は「イズモ族は、砂の平原を通り、広い湖の近くから、長い川を流れ下って来た」と伝えている。
この「砂の平原」とはゴピ砂漠のことであろう。「広い湖」とはバイカル湖だと考えられる。「長
い川」は黒竜江(アムール川)であろう。クナト王は移住計画を発表し、移住集団に加わる若い元
気な男女を募集した。数千人の応募があったらしい。そこで食料などを家畜の背中に積んで、案内
役のブリヤード人を先頭に、移民団は出発した。まず北の山岳地帯を超えた。そこから東に進み、
朝鮮半島を通る道が近い、と現代人は思うかも知れない。しかし紀元前の古代世界では、それは危
険なことであった。獣でも縄張りがあり、近づくと攻撃してくる。ましてや弓矢を持つ異民族の国
の中を大集団が通過すると襲撃され、犠牲者が出る時代であった。だから住人の少ないシベリアを
通るのが無難であった。しかし冬のシベリアは極寒の地である。冬を避けて秋までに通過するため
に、移住者たちはゴビ砂漠を春に過ぎたことであろう。篠田謙一さんの研究報告によると遺伝子D
NAデータバンクに登録されている縄文人29体のうち、ブリヤード人と同じ塩基性配列のものが
17体あり、その配列はブリヤード人とモンゴル人に共通する、という結果が出た。登録数が少な
いので偏りが考えられるが、ブリヤード人が縄文人に混血していることは間違いない。アムール川
上流に自生していたソバの実をブリヤード人が倭国に伝えた、とも言われる。その上流で、移民団
は木材を用意し、筏と櫂を作った。そして食料を、家畜の背中から筏に移した。食料と家畜は途中
で食べられて減少し、最後にはすべてが移住者の胃袋に消えたことであろう。筏に乗ったあとは、
簡単であった。川の水が数千キロの距離を間宮海峡まで、移住民を流し運んでくれた。歩き疲れる
ことはなかった。古代にブリヤード人が倭国と交易していたことは、北海道産の黒曜石の石器がア
ムール川流域やバイカル湖岸から発掘されていることで証明できる。ブリヤード族はバカル湖付近
に住むが、アムール川を舟で下れば、楽に日本に来ることがてきた。アムール川は縄文時代の重要
な交易の道であった。一行は樺太(サハリン)西海岸を南に進み、古代に本州人が「渡り鳥」と呼ん
でいた、北海道に上陸し、そののち津軽半島にに渡った。ドラビダ族はサルタヒコ(鼻高神・性神
)の信仰をもっていてサルタ族とも呼ばれた。九州の宇佐八幡宮の社家であった宇佐公康さんが、
社家の伝承を本にしている。それにイズモ族の移住について書いている。すなわち「サルタ族がシ
ベリア方面から、日本列島に移動漂着した」と。宇佐八幡の付近に住んでいたウサ族は、サルタ族
より先に日本に住んでいたらしい。尚、ご存じのとおり、津軽半島の三内丸山遺跡には、約550
0~4000年前の1500年間ブリヤード人が定住していた。その遺跡からは現代人が想像する
より、はるかに文明が発達していたことが、伺える。日本人の遺伝子の検査により、出雲族には、
ドラビダ人の他にも、アジア大陸各地の血が混じっていることが、明らかになっている。民族移動
の道中の混血は当然だ。日本人の祖先は3000年前にインドから日本列島に民族移住したという
と、日本人全員それは絶対にあり得ないとの反応があると思う。日本人の古代史に関する常識では
、トンデモ話とされる。そういう常識になったのも「記紀」で出雲王国が抹消されたためだ。尚、
これだけは理解してほしい。南米のアンデス文明を築いた民族は、最初から南米に住んでいたわけ
ではない。我々、日本人と同じ顔つきをしたモンゴロイドが今から、1万5000年~1万200
0年ほど前にアジアからベーリンク海峡をわたって、南米まで到達したのだ。そして標高6000
メートルの高地で生活を始めて文明を築いたことを。我々の祖先は、想像できない、とてつもない
偉大な旅をして世界中に進出、拡散し、環境に適応してそれぞれの民族になっていった事実をわか
ってもらいたい。我々人類・ホモサピエンスは、最初からその地域にいたわけではなく、約6万年
前に人類はアフリカから出発し、紆余曲折を経ながら世界中の隅々まで拡散・進出したのであり、
現代、日本人のルーツである縄文人も紆余曲折を経ながら日本列島に渡ってきた歴史があるのであ
る。最初から日本列島に縄文人がいたわけではない。縄文人は遠い昔にどこからか日本列島に渡っ
てきて住み着いたという歴史がある。それが後に縄文人と呼ばれるようになった。しかし、縄文人
は、いつ頃、何処から、どういう民族が、どれくらいの人数で日本列島にやって来たのか。民族の
ルーツ・祖先について答えられる日本人は、いないのである。多くの日本人は先祖は中国大陸や朝
鮮半島から来たと漠然と思っている。確かに渡来人などにより、混血されている面があるが、基本
的には違う。中国も韓国も父系家族制度の国で父が威張る民族だ。父系制度の民はまた好戦的とい
う側面を持つ。ところがドラビダ族=縄文人=出雲族は母家族制度(婿入り婚も含む)の民族だ。
また出雲族より先に日本列島で暮らしてた日本最初の生活文化圏であった南北の、北海道・東北ま
た沖縄・九州の民族も母系家族制度だった。家族制度から見ても縄文人のルーツ・祖先は、中国人
や韓国人とは違うのである。この母系家族制度の特色は争いを好まず、平和的ということだ。和を
もって尊ぶという日本人の精神は、母系家族制に起因する。家族制度(結婚形態)というのは民族の
根源的なものであり、簡単には変えられないのである。しかし、その遠い昔の日本人のルーツ・縄
文人については、「記紀」によって出雲王国史が抹消されたために、ドラビダ族=縄文人=出雲族
の記憶も消えてしまった。日本人・縄文人の記憶のルーツは官史によって、完全に閉ざされてしま
ったのである。それは歴史の敗者になった出雲王国の宿命なのかもしれない。イズモ族が古代イン
ドから来たことは、縄文時代の日本語(ヤマト言葉)か゜ドラビダ語にそっくりであることで理解
できる。言語学者の大野晋さんは著書「日本語とタミル語」でタミル語の文法が日本語と似ている
ことを説明している。タミルはインドの南部地方で、ドラビダ族の一種が住んでいる。イズモ族が
古代に共に住んだインド中部のドラビダ族のうちで、南へ移動したのがタミル人だと考えられる。
尚、ドラビダ族はブリヤード人=モンゴル人と似た顔つきだった。今のインド人はアーリア人支配
以後の顔である。フィリッピン人がスペイン人に征服され血が混じり顔つきが西洋人ぽくなったの
と同様である。ドラビダ語に古代モンゴルなどが混じって出雲語ができた。それが基になって日本
語ができた。つまり出雲王国に各地の人が関係したから、出雲王国の言葉が共通語になり日本語が
形成されたらしい。日本人の先祖・縄文人は中国大陸や朝鮮半島から来たという大半の日本人が漠
然に思っている説は言語学的にも大分、遠い。クナト王が日本列島に上陸した時に、カネの兜(か
ぶと)をかぶりカネの槍をもっていた、との伝承がある。ドラビダ語では、金属をカネと言った。
その言葉が日本でも使われている。クナト王の所持していたカネ製品は、アカガネと呼ばれた銅製
品であったらしい。インドでは紀元前1300年以上前から、鉄が使われている。金属器が生活必
需品になっていたから、クナト王は移住の時、金属精錬の技術者をイズモ族として連れてきた可能
性が大きい
。
■出雲の「黒い川」
本州に渡たり、東北地方に住んだ後、移住者は分かれて行った。クナト王の子孫は日本海沿岸を
南に移動し、最後には出雲の地に住みついた。暖かい関東平野や濃尾平野があるのに、なぜ雪深い
寒い出雲に住んだのか。その訳は「出雲に黒い川があったからだ」と伝承は述べる。黒い川とは、
現在の斐伊川のことであろう。その川底や河原には砂鉄がたまり、黒く見えることがある。古代に
は砂鉄がもっとも重要な産物だった。斐伊川は「聖なる川」としてあがめられた。その川には、「
ゆまり」(小便)をするのも禁じられた。「鉄は国家なり」と言われるが、古代でも国家の繁栄を
左右していた鍵は鉄だった。石器から鉄器の時代になると文明は飛躍的に発展する。自然に川底に
たまった砂鉄は「川粉(かわこ)ガネ」と呼ばれたが、それだけでは足りなかった。後では山の真
砂(まさ)・(花崗岩が風化したもの)がくずされて、「鉄穴流し(かんなながし)」が行われた。そ
れは真砂を溝に流して、砂鉄を選り採る方法である。奥出雲山地の真砂砂鉄は、チタンなど有害不
純物が少なく、低温精錬が容易で還元性に優れている。タタラはドラビダ語で「猛烈な火」を意味
する。日本で最初に行われた製鉄は、「野たたら」と呼ばれた。このような鉄の低温精錬は、古代
にオリエント地方でも行われたことが知られている。出雲王国は「鉄器の国」とも呼ばれた。それ
は明治期の西洋の近代的製鉄が導入される江戸時代まで「たたら製鉄」は日本の鉄の総生産の80
~90%を担っていた。尚、クナト王の子孫は、イズモに住み着いた。インドの熱帯では、常緑樹
が濃緑色にしげっていた。それに対し、新しい土地では、春に芽が出た森の色が、目にしみるよう
に美しく感じられた。かれらはその色をめでて自分たちの地方を「出芽(いずめ)の国」と呼んだ
。その発音が変化して「出雲の国」になったと伝わる。
■出雲王国の風景
出雲の北部には、島根半島がある。その半島は天然の防波堤であった。王の海は波静かで、その
岸は良い港となった。誤解が多いが王国の都は現在の松江市である。そこに国の内外から交易の舟
が来た。出雲の輸出品はカネと首飾りに使われる玉類であった。勾玉も韓国人が高価で買い求めた
。特に鉄は各地の人々に重宝され、買いに来る人々で出雲(松江市)の港や村は賑わった。景気が
よかったので毎日、景色の良いところで老若男女が昼間から宴会を開いていた。出雲では庶民は労
役を課せられることもなく、厳しい年貢もなかった。それがDNAに刷り込まれていて今も、エビ
スさん、ダイコクさん信仰が続いているのかも知れない。出雲で採れる良質の砂鉄と鉄製品は各地
から求められた。豪族たちが最も欲しがったの鉄器は、槍の先に付ける双刃の小刀であった。それ
はウメガイと呼ばれた。それで木を削って木製品をつくるために、日用品としても、使われた。イ
ズモ族はインドでの風習であった祭りを、各地で続けていた。春分の日に春祭りを、秋分の日には
秋祭りを村中で行った。それは年2回の待ちに待った祭りだった。メインは歌垣で、それはあとの
お楽しみ付の合コンのようなものだった。現代人は紀元前200年頃の事代主がいた時代を想像し
ずらいと思うが、胎児の形の勾玉を造るには、その曲線の多い胎児形に石を加工する技術ならびに
、また勾玉に糸を通すために穴を開けなければならない。そのためには穴を作るには鉄の錐(きり
)が必要だ。石を加工して胎児形の勾玉を造るのは、現代でも容易ではない。紀元前の出雲王国に
は、現代でも難しい技術をもっていた文化の発展していた国だった。その名残が松江市に玉造り温
泉とか勾玉づくりとして残っている。
出雲大社
。