◇◆安倍総理は逆上ればイズモ王・事代主の系譜◇
◆◇安部晋三◆◇内閣総理大臣
◆◇◇◆◇蝦夷扱いされ正史から葬られた、日本の名門◇◆◇
■事代主・・・子孫→2世紀のヤマトの指導者・大彦(ナガスネヒコ)
■大彦(ナガスネヒコ)はヤマトに攻めてきた物部勢と戦う
■大彦は戦いに敗れ、東国に移住し強力な→安倍王国を築く
■ヤマト物部勢からは蝦夷と蔑まれる
■安倍王国が最初に「日の本」国を名乗る
■大彦(ナガスネヒコ)→阿倍→安倍→安東
鳥取県米子市に安倍という地名がある。なぜ安倍という地名になったかと言うと、安倍という家
が、多かったので、その地名がついた。なぜ安倍家が多かったのか。それは先祖が粟嶋神社にまつ
られているからだった。子孫は先祖の地に心ひかれて、どうしても住みたくなるということで子孫
の安倍家が集まり、安倍という地名になった。それは1062年の前九年合戦で敗れた安倍一族が
船で、この地に逃れた、ことにさかのぼる。その粟嶋神社に祭られている先祖とは、出雲王国の有
名な第八代スクナヒコの事代主(個人名・八重波津身・やえなつみ)通称エビスさんとして、親し
まれている御方だ。紀元後180年頃のヤマト磯城王朝第八代クニクル大王(孝元)の御子で、実
質のヤマトの指導者は大彦(個人名・ナガスネヒコ・ナーガ竜神、スネヒコはスネークに通じる)
、尚、大彦とは大兄(おおえ)に相当する呼称である。、安倍家の直接の祖先に当たるが、大彦・
ナガスネヒコは事代主の血を引き継いでいた。紀元後180年頃にヤマトに攻めてきた第一次物部
勢と戦ったのが大彦であった。劣勢になり、琵琶湖の東岸に逃れた。なおも攻撃された大彦・ナガ
スネヒコは、出雲の向王家に来訪して加勢を求めた、と伝承されている。3世紀に日向にいる物部
政権が出雲を攻めるという噂があったので、向家は大彦・ナガスネヒコを助ける余力はないと、断
った。そのときまで、富家を名乗っていた大彦・ナガスネヒコに、以後は富家を名乗らないように
通告した。摂津国三島(大阪府高槻市)に事代主の領地があった。そこの山、(阿武山)の名をと
って、大彦・ナガスネヒコは以後、阿武(あべ)家を名乗ることになった。いわゆるナガスネヒコ
王国は、その後も物部王国に追われて、都を駿河の安倍川付近に移した。ナガスネヒコ王が亡くな
った後では、王家は安倍家を名乗り、クナト国を名乗った(因みにクナト大神に由来する)。三島
の人々はナガスネ王家を守るために、駿河国まで付いて行き、伊豆半島の入口に三島の町を造った
。そこに三島大社を建て、事代主をまつった。阿武山は古代は重要な神山で、今城塚古墳はその山
に向けて造られた。物部勢は安倍王国の征服に向かい、焼津や日本平の戦いなどで勝ち進んだ。安
倍勢は船で常陸(ひたち)国に移り、鹿島を都とし、そこに鹿島神宮を建て雷(出雲竜神の化神)
を祀った。中臣氏率いる軍勢が西から攻め神宮を奪った。そして、そこの祭神タケミカヅを奪って
自家の氏神に加えた。先に述べたように、出雲族はインドの太陽神スーリアの信仰を受け継ぎ、大
和に移住した後も三輪山の日の出を拝んだ。旧大和王国のナガスネ王一族と従う人々も、同じく太
陽信仰を持っていた。それで、住み着いた常陸国を「日立ちの国」と呼んだ。それは「太陽の昇る
国」の意味だった。「常陸国風土記逸文」に、鹿島の西方の「信太群の地は本、日高見(ひだかみ
)国なり」と記されている。また駿河の安倍川の東にある日本平の「日本」は、「日の元の国」の
意味で安倍王が名付けた地名かも知れない。その後、安部王国は宮殿を睦前国や睦中国へと移した
。そして、国名を日高見国と称した。今の北上川の名前は元は、「日高見川」だったらしい。その
流域に、鳥海柵や厨川柵(盛岡市)などの防衛基地の遺跡が残っている。ナガスネ王国が日高見国
と名乗ったから、日本書紀の景行期27に「東の夷の中に、日高見あり」と書かれた。日高見国は
その後、「日之元津国」とか、「日本之(ひのもとの)国」と名乗った。「旧唐書」(倭国日本国
の条)に次の記事がある。「日本国は倭国の別種なり。その国は(あさ)日の辺にある故に、日本
を名とする。倭国はその名が上品でないと自ら嫌い、改めて日本に変えた。あるいは言う。日本は
古くは小国で、倭国と並立していた」この日本国は倭国とは別の国名で、独自の貿易を行っていた
。この貿易の続行による輸入品は、後の平泉文化にも入っている。だから、この史書に書かれたよ
うに、日本列島には二つの独立国があったことは、外国には広く知られていた。そして「日本(ひ
のもと)」の国名は、東北の日高見国が先に使ったものだった。北にあった日本国の記念碑が、青
森県東北町に残っている。場所が移動したので、元あった位置「石文」の地名から陸羽街道(国道
4号線)をはさんで反対側の千曳神社近辺にある。その南が「坪」の地名で坪川が流れている。そ
の石文には、浅い彫りで「日本中央」と書かれている。浅い彫りであることが、彫る技術が未発達
な古い時代に造られたことを示している。この石文は東国の王・安倍致東が建立したと伝えられて
いる。伝承によると安倍政権には、アイヌ代表も加わっていたと言う。ということは、日本国はア
イヌが住む渡り鳥(北海道)や樺太も領土にしていたことになる。だから坪の石文が建てられた時
は、その場所が安倍王国すなわち、日本国の中央であったことは、誇張でないことがわかる。その
後、倭国は日本国の名を使ったから、大和政権の記事は「新唐書」では「東夷伝の日本の条」に書
かれた。それに関することが、若狭国の羽賀寺(小浜市国富)に残された記録だ。それにナガスネ
王の子孫・安倍(安東)康季公がその寺の伽藍を再興した際のもので、「奥州十三之港の日本の将
軍」と1435年に名乗っている。この文は安倍氏の東北王国が日本国を名乗った後に、倭国が勝
ってに日本の名を使ったことを示している。東北地方を領国とした安倍王は、都を津軽半島に定め
た。亀岡(木造町)はアラハバキ(出雲と同じ竜神木信仰)の聖地とされて、王国各地より、代表
が祭りに参列したと言う。その際に祭壇に目閉じ女神像が立てて拝まれたらしい。平安時代の末に
は、安倍王家の一部は奥六群に中心を移した。そこに源氏の軍勢が進出し、政府の指示なしに、私
闘を繰り広げた。それがいわゆる前九年合戦だった。これに敗れた安倍王家は領土を狭めた。安倍
家は鎌倉時代には安東氏を称するようになった。当時はアイヌが住む北海道も支配していたから、
自分の家系が東国の将軍だと自負したのは当然だったと考えられる。後の中心地は、津軽の十三港
(とさみなと)近辺だった。そこは初めはトミの港と呼ばれたが、後にはトサと呼ばれた。近年、
安東勢力の根拠地跡が発掘された。その場所は津軽半島の西海岸にあり、岩木川が海にそそぐ所だ
った。十三湖の日本海側に二本の長い砂州が防波堤のように伸びている。その内潟の明神沼の入口
に護岸施設と桟橋か゜ある港湾施設(青森県市浦村)が見つかった。安東氏の館と家臣団屋敷を掘
と土塁で守る形になっている。掘の外側には町屋や寺院跡があった。この十三港と町は出土遺物か
ら鎌倉時代初期に出現したことがわかった。1968年に函館空港の近くに、中世の志苔館遺跡が
発掘された。そこから、銅銭が37万4千枚以上見つかった。日本列島での埋納銭としては、最多
数だった。これは安東一族が埋めた可能性が大きい。安東氏は鎌倉時代後期に、北条執権政府の支
配下に入った。それ以前は独立していたから、古代から続いた安倍王国はこの時、終了したと言え
る。その後、文永と弘安年間の二回にわたり蒙古軍船の大襲来があった。二回とも神風が同じ場所
に来て、蒙古軍船は全滅したという奇妙な話が流された。しかし、実際は執権政府の要求に応えて
、津軽の安東水軍等が海上で懸命なゲリラ戦を繰り広げ、蒙古船を追い払った、と古老は伝える。
羽後国で湧き出る重油を樽に入れ積んだ安東船は、夜陰にまぎれて蒙古船に近づき、重油をつけた
松明に火をつけて敵船に投げ入れた。多くの敵船は燃えた。前九年合戦で敗れた安倍宗任は肥前松
浦に移って、松浦姓を名乗り一族は松浦党という水軍となった。かれらも蒙古軍船撃退のために活
躍した。残った蒙古の軍船は逃げ帰ったという。鎌倉幕府は恩賞を与えることを嫌い、安東水軍の
活躍を無視したという。蒙古船の一部は安東船を追って津軽まで進み上陸した。しかし、蒙古兵は
安東氏の指揮する軍勢に打ち滅ばされた。その蒙古兵のことが、今も津軽の子守唄に歌われている
。松浦党の一部はその後、先祖ゆかりの地・出雲に移り住んだという。その後も安東水軍による海
外貿易は続いたが、1341年(南北朝時代)の大津波が、十三港襲い町も滅んで、安東家(安倍
家)は衰退した。日本の名門・安倍家は時の政権から異民族でないのに蝦夷扱いされ、出雲王国と
同様に勝者の歴史=正史から、葬られた。大彦は二世紀末の指導者だったが、「記紀」では紀元前
二世紀の豪族にかえられ、神武天皇の敵にされた。たしかに大彦は、徹底した物部嫌いであった。
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■古代史ダイジェスト版-出雲王国~三韓征服まで-
紀元前400年頃、和国で最初の王国「出雲王国」は誕生した。それは武力で統一された国ではな
かった。「野ダタラ」と呼ばれる和国最初の鉄の生産により、経済が発展し文明が栄え、自然に人
々が集まるようになった。各地の豪族の娘と重婚し、それが広域出雲王国の領土となった。また「
幸神」を信仰する宗教国家であった。母系家族制で戦争もない平和な国だった。秦の始皇帝の時代
、紀元前219年頃に、秦国から古代最大の渡来人集団、徐福集団が出雲王国に渡来した。そして
出雲両国王の暗殺事件→出雲人による新王国の建立(ヤマト開拓)と、歴史が玉突きで動いた。徐
福は和国で王になれる見通しがないので失望し、さらに多勢の秦人を引き連れ和国の王になること
夢見、一旦、帰国することを決断する。紀元前210年頃に、徐福はさらに多勢の秦人を引き連れ
こんどは、九州の有明海に上陸した。合計五千人以上の渡来人が、古代の和国にやってきた。かれ
らの渡来は光と影があったが、縄文→弥生は徐福集団集団の渡来が、もたらしたものだ。紀元前1
00年頃、第二の渡来集団が、現れた。辰韓(新羅)からヒボコ王子とその従者(数百人)たちで
あった。ヒボコは辰韓王の長男であった。王は跡継ぎ争いを避けるために、ヒボコに家来をつけて
、財宝を持たせて和国に送った。それは次男を、跡継ぎにさせるためであった。それでヒボコは父
王を恨んで、反抗的な性格になっていた。ヒボコは生意気な態度であったため上陸を許可されず、
但馬方面に上陸した。尚、吉野ヶ里遺跡は徐福集団の住居跡で、そこで作られた土器が弥生土器の
基になった。秦人は高級機織りの技術をもっていたので秦(ハタ)族と呼ばれた。そして徐福の子
孫の代になると、筑紫平野を征服し新しく秦の国を築くという意味て゜築秦国とした。のちに、そ
れがなまって筑紫国となった。つまり九州の北部、筑紫平野は、中国人に支配されたことが、歴史
の事実である。徐福の子孫は物部氏を名乗った。日本史で重要な弥生時代の到来について、いつ、
誰が、何処にやってきたか具体的な話がないのは、そのためである。日本の古代史に欠落している
一つは弥生時代がどうやってもたされれたのか。そのことに言及する学者はいないのである。奈良
時代の日本書紀は、中国人にも見せるために、漢文で書かれた。そんなことを書いたら中国から属
国扱い、軽く見られる。そんなことは伏せるしかなかった。また、出雲渡来時の孫が海 村雲であ
り、ヤマトの初代大王となった。また子孫は海部氏(尾張氏とも言う)となった。徐福の腹異いの
子孫である物部氏と海部氏、それと事代主の子孫が古代の政治を動かしていた。紀元100年頃、
九州の物部勢がヤマトに第一次物部東征を行う。武力では優勢だったが、人民の尊敬を集めること
はてきず失敗(姫巫女がいなかったため)。約150年後の紀元後232年頃に、第二次物部東征
を計画。その最中に、物部イニエ大王が九州で没し、未亡人となったヒミコが意志を引き継ぐ。ヤ
マトに攻める前に魏に朝貢し後ろ盾を得ることにした。第二次東征は瀬戸内海ルートと日本海側ル
ートに分かれて進んだ。その日本海ルートで出雲王国は物部勢力に滅ぼされた。瀬戸内海ルートで
は安芸の宮島でヒミコは病死し、物部イクメが指揮官を引き継ぎヤマト磯城王朝(出雲系)を滅ぼ
し、物部王朝の政権を樹立。しかし物部王朝は短命の三代で終わる。物部王朝三代目はワカタラシ
(成務)大王で、后はオキナガタラシ姫であった。オキナガタラシ姫はヒボコの血を引き継いでい
た。当時、辰韓の王家が断絶し、家来が新羅国を起こした。当時は領土も人民も王家の財産だとの
考えがあった。だからヒボコの子孫のオキナガタラシ姫は、新羅領地と年貢を自分が受け継ぐ権利
があると考え、新羅に出兵し権利を承認させようと考えた。日向国の武内ソツ彦王の協力得て、ソ
ツ彦王が新羅出兵の総指揮者となり新羅だけでなく三韓征服に成功する。そして三韓からの年貢が
財政として使えたので、和国はそれ以前より豊になった。その三韓年貢マネーが使えたから、近畿
方面に巨大な古墳が誕生した。以上が出雲王国~三韓征服までの、ざっとした、あらましである。
○「記紀」で隠された、最大の「不都合な真実」
■神話の国にされた「出雲王国」、スサノオ・ニニギノにされた徐福
奈良時代に書かれた「記紀」は時の権力者が不都合な事は隠し、また史実としてでなく神話の形
を借りて話を創作した。それにより日本の古代史(紀元前500年頃~紀元後300年頃)、歴史
年表で言えば弥生時代に相当。その時代の古代史は「記紀」によりブラックホール化されてしまっ
た。現代人の古代史に関する常識も「記紀」が基になってしまった。「記紀」の最大の罪は、日本
の源流・古代史そのものと言ってよい「出雲王国」のことを神話の話に変えて隠したこと。それは
子孫が日本人の民族のルーツ・祖先を忘れる結果に繋った。もうひとつが、弥生時代の到来をもた
らした古代最大の渡来集団である「徐福集団の渡来」の史実を同じように神話の話に変え隠したこ
と。それは奈良時代の支配者であった貴族は、そのほとんどが、渡来人・徐福の子孫である物部氏
や海部氏(尾張氏)と、それと旧出雲王家の事色主の血を継ぐ子孫であった。渡来系の子孫は、今さ
ら900年前の出自・血筋・血統には、触れられくなかった。だから勝者の都合の良い官史には先
祖が渡来人であったことは隠された。都の貴族にとって先祖が渡来人であったことは隠さなければ
ならなかった。だから先住日本人の・出雲王国を徐福の子孫(奈良時代の物部氏や海部氏(尾張氏)
から見たら先祖にあたる)か゜滅ぼし、徐福の子孫がヤマトの大王(ヤマトの初代・海部王朝や、
300年頃の物部王朝)になったことなど、奈良時代の支配者/貴族であった徐福の子孫である、
物部氏や海部氏(尾張氏)にとっては不都合なことであり、隠したかった。先祖は天孫降臨したと
いう設定が一番、都合がよかった。先祖が渡来人の場合、あいまいなうやむやな話が一番、都合が
良かった。例えばハワイ王朝がアメリカに滅ばされた史実は、勝者の歴史では単にハワイがアメリ
カの州になったとしか記されないのと同様である。だから「記紀」の虚飾については支配者の腫物
に触ることに繋がるので、指摘するには命がけの覚悟が必要になる。いずれにしても、この二つの
重大な史実を「記紀」が隠したため、日本の古大史はすっぽり穴が開き、闇に葬られたままで、全
く判然としないのである。さらに明治の王政復古によって「記紀」の虚飾性ついては、政府・国に
よっても正当化され利用された。また国民も熱風のごとく歓迎し、時代の背景もあったが、それは
「記紀」の虚飾の虚構が影響を与えた部分も多少あり昭和の破滅に繋がった一面もある。そして出
雲王国は「神話の国」のまま放置にされた。日本の学者は官史「記紀」を鵜呑みにし、出雲王国は
史実に基づかない絵空事として取り扱ってきた。それは平成の世でも明治以後の王政復古に伴う呪
縛から解き放たれていない証左である。官史ということで疑いを持たないのが史学界の体質である
。そこには真実の探求という姿勢が感じられないのである。かぐや姫の作者の命がけの願いが全然
わかっていないのである。そういう姿勢は昭和59(1984)年、世紀の大発見と騒がれた、「
358本の銅剣」が見つかった神庭荒神谷遺跡から30年も経つのに、依然として出雲を語るとき
の枕詞は「神話の国」なのである。その間、史学界は何をやっていたかと言うと相も変らぬ、邪馬
台国論争・卑弥呼論争であった。これについては、巻末に説明しているので参照されたし。とにか
く史学界の出雲への無視ははなはなだしいのである。いずれにしても、日本人は官史である「記紀
」で、出雲神話の話が書かれたため、出雲はただ単に神話の話の舞台にされただけで、出雲王国が
史実であったとは思わなくなった。その結果が、日本人の起源は中国や半島から人が来て、それが
日本人になったと漠然と思うようになった。そして大和に最初の政権(裏付けとして巨大な古墳)
ができ、それが日本で最初の国造りと思うようになった。出雲王国を「記紀」が神話の話に変えた
結果大和が日本の国造りの原点と思うようになった。日本人は民族のルーツ・祖先を忘れることに
なったのである。徐福渡来のことは、各地に徐福の伝承があるため、徐福伝説という話を聞いたこ
とがある位の認識になった。「記紀」の罪は日本の国の初期を隠したために、子孫は国の成り立ち
を忘れてしまう結果を生んだ。それは、日本人は民族のルーツ、国としてのルーツを忘れることに
繋がった。また歴史=正史は、渡来人の光と影を隠した。それは稲作の伝来、文化向上で大きな役
割を果たした渡来人の功績を歴史から消してしまった。奈良時代では書けなかった事情もあるかと
思うが、今の時代であれば、ちゃんと中国人・秦人・ユダヤの子孫のかれらを評価すべきだと考え
る。
■■■■徐福と出雲王家はすぐ混血した■■■■
■秦から徐福は約2千人弱の秦人を引き連れ出雲王国に渡来してきた(紀元前219年頃)
■徐福(出雲)→火明(ホアカリ)と和国風の名前を名のる。「記紀」ではスサノオとされた
■徐福・ホアカリ(出雲)+高照姫(大国主の娘)=五十猛(いそたけ)誕生。
■徐福は出雲王国で王に就任することができず、失望し、一旦秦に帰国する。
■五十猛は、姓を海(あま)とし、海(あま)五十猛となる。
■海 五十猛は成人し、出雲の秦(ハタ)族を引き連れ、丹波に移住する。
■海 五十猛→海 香語山(かごやま)(丹波で改名する)
■海 香語山+大屋姫(大国主の孫娘)=高倉下→紀伊国造→武内宿祢→蘇我氏
■五十猛+穂屋姫(九州の徐福の娘)=海 村雲が誕生。「記紀」が海を(天)の字に変える
■海 村雲は成人し、出雲人が開拓したヤマトへ1万人近い丹波人を引き連れ、集団移住する。
■海(天)村雲+タタライスズ姫(事代主の娘)=→海部氏(尾張氏)→
■秦から徐福は約3人千の秦人を引き連れ九州に再来日した(紀元前210年頃)
■徐福(九州)→ニギハヤヒという名前を名のる。「記紀」ではニニギノという名にされた。
■徐福(出雲)→火明(ホアカリ)、徐福(九州)→ニギハヤヒで同一人物異名である。
■「記紀」では徐福(出雲)はスサノオ、徐福(九州)はニニギノという名にされた。
■徐福(九州)+市杵島姫(出雲王国の分家・宗像家の娘)=ホホヒデミ誕生→物部氏
■徐福(出雲)での五十猛、徐福(九州)でのホホヒデミは腹異の兄弟である。
■「記紀」では腹異の兄弟、五十猛とホホヒデミのことを海彦と山彦の神話にしている。
■徐福(出雲)での五十猛が海部氏、徐福(九州)でのホホヒデミが物部氏になる。
■古代の政治を動かした海部氏と物部氏の始祖が徐福である。その意味でも徐福の渡来は、歴史上
、大変に重要なことであり、徐福渡来が分からなければ古代史は理解できない。
渡来人と言っても、出雲王家の血とすぐ交わっているのである。だから、単純に出雲系とか渡来系
と区別するのは、簡単にいかない。女系家族制の影響もあり、母方の血も重要になる。古代では、
血筋が有力視された。奈良時代の都の貴族のほとんどが、海部氏・物部氏・事代主の子孫であった
が、大きくとらえれば、みな出雲王家および徐福の血を引き継いでいるので、あまり血筋をとやか
く言うことには意味がない。ただ子孫には、自分の家は、海部氏系とか物部氏とか事代主とかの、
こだわりがあった。また徐福の腹異いの子孫である物部氏と海部氏は仲が悪く、お互い対抗心を持
っていた。腹異いの兄弟の確執は、それは現代にも言える話だ。それを「記紀」では山彦と海彦の
話で例えている。尚、物部氏の家系は藤原不比等によって本家筋は歴史の闇に葬られた。物部氏の
親族は鈴木姓を名乗った。海部氏の家系はその家系図の「海部氏本系図」、と「海部氏勘注系図」
が、国宝となっているにことをもっても現代に脈々と続いている。家系図が国宝となっているのは
海部氏家だけである。民間の家系図が国宝になっていることは、どういう意味があるか考えてみて
ください。海部元首相や、日商岩井の海部副社長も海部氏の家系である。また徐福と一緒に渡来し
てきた秦(ハタ)族とよばれた人たちの子孫は日本人の多数に上る。波多(はた)や秦(はた)を
名乗る人は子孫である。有名な人では、羽田元首相。羽田元首相は自分は秦(ハタ)族の子孫だと
明言されている。和国に縄文→弥生と文化向上に尽くしたのが渡来人秦(ハタ)族である。なので
本来はかれらは称賛されていい人達である。渡来人=悪人ではなく、渡来人=和国の文化発展に貢
献した人、である。日本の歴史では、そのへんのところを、下手に隠している。光と影があったが
、光の部分は正当に評価が必要だ。だから和国の権力者が出自が渡来人であっても、何ら問題は、
ないのである。また徐福の子孫も2世代以降には出雲王家の血が入っているのであり隠す必要はな
いと思われる。尚、出雲族=縄文人=ドラビダ族というのは、母系家族制の権力指向がない、平和
を尊ぶ民族だが、反面、人が良い、騙されやすいという欠点がある。それにひきかえ、徐福にして
もヒボコにしても戦乱の絶えない国からやってきて戦には長じており、実践経験の乏しい出雲族と
は断然、違っていた。また父系家族制で権力指向のかたまりだ。平和だった和国に、そういう、渡
来人がやってきたら、渡来人系がおのずと支配者階級になるのは、いたしかたないことかも、知れ
ない。尚、誤解があるといけないのでかくが、決して和国・出雲人が文化が遅れていたとかでなく
インダス文明の子孫であったのでそれなりにあった。中国は4千年の歴史といっても、ほとんどが
西のオリエントから文化は入ってきた。それに対して日本は直接インドからインダス文明をひきつ
いでいたので、中国に引けをとるようなことは、さほどなかった。但し中国は父系制度だったため
権力指向が強いため政治体制が進んでいた。母系制度の平和に暮らしていた日本人は征服されやす
い面があった。しかし人民は簡単に渡来人系には従わない。そこでヤマトの歴代大王は、事代主の
血を引く三輪山の姫巫女を后に迎え、その人気を利用し、政権を維持した。また「幸の神」を神道
として、国家行事に取り入れ、人心の掌握に努めた。但し、支配者階級に都合が良かったとはいえ
、さすがに出雲王国を史実から葬りさったのは、やりすぎだ。それは当時の支配者が先住出雲系で
なく、渡来系だと自ら言っているようなものだ。しかし、出雲王国に限らず、アイヌ民族にしても
然り、次に記述する安倍王国にしても、敗者の歴史とは正史からは抹消されてしまう運命にある。
古今東西そういうもので、さほど異なものではない。。但し、歴史の闇に葬られた敗者の歴史に光
をあてることが、子孫の役目ではないかと考える。「記紀」が書かれた奈良時代以降、歴代政府、
また政治家はわが国で最も古い出雲王国を無視しつづけてきた。それは自国の歴史について無知で
日本人の先祖に対して先祖不幸をしていると、言われても仕方がないのである。
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付録資料5
.
■「天皇」という称号
中国の道教の最高神のことを指し、北極星を神格化した「天皇大帝」に由来する。秦から渡来し
てきた徐福は道教の方士(道士)であった。中国では秦国が全土を統一する前に、シャントン(
山東)省方面に斉(せい)という国があったが斉は秦に亡ばされた。徐福はその斉に住んでいた。
そして斉(せい)という国は「ユダヤの失われた十士族」の子孫がたどりついて住んだ地と言われ
ている。尚、日本人はユダヤ人というと白色の西洋人を思い浮かべるが、元々のユダヤ人というの
は、日本人に近いアジア系民族だった。中国の道教というのは、ユダヤ教とそっくりで、その特色
は仙人崇拝と北極星礼拝がある。この教えは方士・徐福が、はじめて和国に伝えた。それで各地の
山に「仙」の字のつく名がついた。出雲での徐福・ホアカリ(火明)は道教の方士(ほうし)であ
ったから、童男童女を夜に山頂に導き、仙人を尊ぶことを教え、道教の星神を拝ませた。仙人を意
味する「仙」の字が、かれらが登った山の名に付けられている。出雲では物部神社の北方に大仙山
があり、大森の石見銀山に仙ノ山がある。「7」を聖数としているのも同じだ。またイスラエルの
国旗に採用されている、「ダビデの星」は中国では六芒星と呼ばれ、日本では「カゴメ紋」とされ
ている。徐福と一緒にきた秦(ハタ)族と呼ばれたかれらの大半が「ユダヤの失われた十士族」の
子孫と考えられる。丹後の「天の橋立」があるが、その北端の近く(宮津市大垣)に、丹後国一の
宮である籠(この)神社が鎮座する。その地は徐福・ホアカリ(火明)ゆかり所であり、その直系
の子孫・海部氏が徐福・ホアカリ(火明)をおまつりしている。元宮は籠(この)神社の後方の小
高い山に元宮は、鎮座している。その山の名前が香語山であるから、五十猛(イソタケ)は、その
山の名前によって香語山(カゴヤマ)と名を変えたのであろう。元宮は比治真名井原にある真名井
神社であるが、初めは吉佐(よさ)と呼ばれた。719年に籠(この)神社創建されるまでは、吉
佐(よさ)宮が丹後地方の祭祀の中心であった。その真名井神社の碑には、カゴメ紋=六芒星=ダ
ビデの星が刻まれている。海部(あまべ)家の家系図、「海部氏本系図」、と「海部氏勘注系図」
は国宝となっている。尚、この海部(あまべ)家とその親族の娘(竹野姫など)は、天皇家に后妃
てして多く選ばれて入る。
■日本人の祖先の偉大な旅
約6万年前に人類はアフリカから出発し、車も飛行機もない時代に地球上のあらゆる地域に進出
、拡散した。南米の高地、北極圏、赤道直下のジャングル、寒冷地、乾燥地帯そして、それぞれの
地域の気候・風土の環境に適合して、それぞれの人種・民族になっていた。大陸の東の海に浮かぶ
日本列島にも、偉大な旅をして渡って来た、日本人の祖先の物語があった。それは今から3500
年前の話である。
■日本人は4大文明の一つインダス文明の子孫
いわゆるイズモ族は3千年以上前に、日本の本州に民族移動したと言う。「鼻の長い動物の住む
国から来た」との伝承がある。3500年以上前に、インド西北から戦闘的な民族アーリア人がイ
ンドに侵入して、先住民の土地を奪い牧畜を行った。母系制度で平和に暮らし農耕生活だった先住
民はドラビダ人だった。4大文明の一つインダス文明はドラビダ人が築いた。紀元前3800年頃
から、砂漠化や洪水、河川流路の変更など、さまざまな理由にのよって衰退期であった。紀元前3
500年頃、インドの中部に、クナ国と呼ばれる小王国があった。(今のグナの町らしい)そこに
イラン高原で遊牧をしていたアーリア人がが次々に侵入して来た。彼らは騎馬民族で父系家族制だ
った。森の樹木を切りはらいどんどん牧場を広げて、勢力を広めた。アーリアの男たちは、クナ人
の家に婿が来ていない夜の隙を狙って泊まり込み、女たちに彼らの種を植える行動に出た。彼達は
父系家族民なので、戦いに長じていた。クナ国の家々は女戸主の家族だったから、まとまりが弱く、
対抗できなかった。結果として、アーリア人との混血児をクナ族の女が産み、育てることが多くな
った。そして多くのドラビダ族は、アーリア人の奴隷にされた。母系家族制の民族は平和的だが、
父系家族制度の民族が得意の戦争には弱い面があった。この情勢の中で南方に逃れるドラビダ族も
いたが、クナ地方を支配していたクナト王は別の策を考えた。当時インドには、バイカル湖方面か
ら、ブリヤード人の商人が交易に来ることがあった。彼らから「シベリアの南方の大海原の中に住
民の少ない、温暖な島がある」と聞いていた。クナト王はそこに移住しようと考えた。出雲の古老
は「イズモ族は、砂の平原を通り、広い湖の近くから、長い川を流れ下って来た」と伝えている。
この「砂の平原」とはゴピ砂漠のことであろう。「広い湖」とはバイカル湖だと考えられる。「長
い川」は黒竜江(アムール川)であろう。クナト王は移住計画を発表し、移住集団に加わる若い元
気な男女を募集した。数千人の応募があったらしい。そこで食料などを家畜の背中に積んで、案内
役のブリヤード人を先頭に、移民団は出発した。まず北の山岳地帯を超えた。そこから東に進み、
朝鮮半島を通る道が近い、と現代人は思うかも知れない。しかし紀元前の古代世界では、それは危
険なことであった。獣でも縄張りがあり、近づくと攻撃してくる。ましてや弓矢を持つ異民族の国
の中を大集団が通過すると襲撃され、犠牲者が出る時代であった。だから住人の少ないシベリアを
通るのが無難であった。しかし冬のシベリアは極寒の地である。冬を避けて秋までに通過するため
に、移住者たちはゴビ砂漠を春に過ぎたことであろう。篠田謙一さんの研究報告によると遺伝子D
NAデータバンクに登録されている縄文人29体のうち、ブリヤード人と同じ塩基性配列のものが
17体あり、その配列はブリヤード人とモンゴル人に共通する、という結果が出た。登録数が少な
いので偏りが考えられるが、ブリヤード人が縄文人に混血していることは間違いない。アムール川
上流に自生していたソバの実をブリヤード人が倭国に伝えた、とも言われる。その上流で、移民団
は木材を用意し、筏と櫂を作った。そして食料を、家畜の背中から筏に移した。食料と家畜は途中
で食べられて減少し、最後にはすべてが移住者の胃袋に消えたことであろう。筏に乗ったあとは、
簡単であった。川の水が数千キロの距離を間宮海峡まで、移住民を流し運んでくれた。歩き疲れる
ことはなかった。古代にブリヤード人が倭国と交易していたことは、北海道産の黒曜石の石器がア
ムール川流域やバイカル湖岸から発掘されていることで証明できる。ブリヤード族はバカル湖付近
に住むが、アムール川を舟で下れば、楽に日本に来ることがてきた。アムール川は縄文時代の重要
な交易の道であった。一行は樺太(サハリン)西海岸を南に進み、古代に本州人が「渡り鳥」と呼ん
でいた、北海道に上陸し、そののち津軽半島にに渡った。ドラビダ族はサルタヒコ(鼻高神・性神
)の信仰をもっていてサルタ族とも呼ばれた。九州の宇佐八幡宮の社家であった宇佐公康さんが、
社家の伝承を本にしている。それにイズモ族の移住について書いている。すなわち「サルタ族がシ
ベリア方面から、日本列島に移動漂着した」と。宇佐八幡の付近に住んでいたウサ族は、サルタ族
より先に日本に住んでいたらしい。尚、ご存じのとおり、津軽半島の三内丸山遺跡には、約550
0~4000年前の1500年間ブリヤード人が定住していた。その遺跡からは現代人が想像する
より、はるかに文明が発達していたことが、伺える。日本人の遺伝子の検査により、出雲族には、
ドラビダ人の他にも、アジア大陸各地の血が混じっていることが、明らかになっている。民族移動
の道中の混血は当然だ。日本人の祖先は3000年前にインドから日本列島に民族移住したという
と、日本人全員それは絶対にあり得ないとの反応があると思う。日本人の古代史に関する常識では
、トンデモ話とされる。そういう常識になったのも「記紀」で出雲王国が抹消されたためだ。尚、
これだけは理解してほしい。南米のアンデス文明を築いた民族は、最初から南米に住んでいたわけ
ではない。我々、日本人と同じ顔つきをしたモンゴロイドが今から、1万5000年~1万200
0年ほど前にアジアからベーリンク海峡をわたって、南米まで到達したのだ。そして標高6000
メートルの高地で生活を始めて文明を築いたことを。我々の祖先は、想像できない、とてつもない
偉大な旅をして世界中に進出、拡散し、環境に適応してそれぞれの民族になっていった事実をわか
ってもらいたい。我々人類・ホモサピエンスは、最初からその地域にいたわけではなく、約6万年
前に人類はアフリカから出発し、紆余曲折を経ながら世界中の隅々まで拡散・進出したのであり、
現代、日本人のルーツである縄文人も紆余曲折を経ながら日本列島に渡ってきた歴史があるのであ
る。最初から日本列島に縄文人がいたわけではない。縄文人は遠い昔にどこからか日本列島に渡っ
てきて住み着いたという歴史がある。それが後に縄文人と呼ばれるようになった。しかし、縄文人
は、いつ頃、何処から、どういう民族が、どれくらいの人数で日本列島にやって来たのか。民族の
ルーツ・祖先について答えられる日本人は、いないのである。多くの日本人は先祖は中国大陸や朝
鮮半島から来たと漠然と思っている。確かに渡来人などにより、混血されている面があるが、基本
的には違う。中国も韓国も父系家族制度の国で父が威張る民族だ。父系制度の民はまた好戦的とい
う側面を持つ。ところがドラビダ族=縄文人=出雲族は母家族制度(婿入り婚も含む)の民族だ。
また出雲族より先に日本列島で暮らしてた日本最初の生活文化圏であった南北の、北海道・東北ま
た沖縄・九州の民族も母系家族制度だった。家族制度から見ても縄文人のルーツ・祖先は、中国人
や韓国人とは違うのである。この母系家族制度の特色は争いを好まず、平和的ということだ。和を
もって尊ぶという日本人の精神は、母系家族制に起因する。家族制度(結婚形態)というのは民族の
根源的なものであり、簡単には変えられないのである。しかし、その遠い昔の日本人のルーツ・縄
文人については、「記紀」によって出雲王国史が抹消されたために、ドラビダ族=縄文人=出雲族
の記憶も消えてしまった。日本人・縄文人の記憶のルーツは官史によって、完全に閉ざされてしま
ったのである。それは歴史の敗者になった出雲王国の宿命なのかもしれない。イズモ族が古代イン
ドから来たことは、縄文時代の日本語(ヤマト言葉)か゜ドラビダ語にそっくりであることで理解
できる。言語学者の大野晋さんは著書「日本語とタミル語」でタミル語の文法が日本語と似ている
ことを説明している。タミルはインドの南部地方で、ドラビダ族の一種が住んでいる。イズモ族が
古代に共に住んだインド中部のドラビダ族のうちで、南へ移動したのがタミル人だと考えられる。
尚、ドラビダ族はブリヤード人=モンゴル人と似た顔つきだった。今のインド人はアーリア人支配
以後の顔である。フィリッピン人がスペイン人に征服され血が混じり顔つきが西洋人ぽくなったの
と同様である。ドラビダ語に古代モンゴルなどが混じって出雲語ができた。それが基になって日本
語ができた。つまり出雲王国に各地の人が関係したから、出雲王国の言葉が共通語になり日本語が
形成されたらしい。日本人の先祖・縄文人は中国大陸や朝鮮半島から来たという大半の日本人が漠
然に思っている説は言語学的にも大分、遠い。クナト王が日本列島に上陸した時に、カネの兜(か
ぶと)をかぶりカネの槍をもっていた、との伝承がある。ドラビダ語では、金属をカネと言った。
その言葉が日本でも使われている。クナト王の所持していたカネ製品は、アカガネと呼ばれた銅製
品であったらしい。インドでは紀元前1300年以上前から、鉄が使われている。金属器が生活必
需品になっていたから、クナト王は移住の時、金属精錬の技術者をイズモ族として連れてきた可能
性が大きい
■中韓連合に滅ぶ■紀元250年頃
その物部氏勢力の猛攻撃というのは、中韓連合であった。「出雲王国」は紀元前400年頃~紀
元後250年頃の600年以上の長きに続いた王国であった。渡来人の徐福の九州の子孫である物
部氏の軍勢と紀元1世紀頃に辰韓(新羅)から渡来してきたヒボコの5世の子孫である田島間守(
タジマモリ)率いるヒボコ軍勢の渡来人連合による猛攻撃で滅ぼされた。特に田島間守(タジマモ
リ)は、先祖・ヒボコと家来集団が、出雲での上陸を許可されなかったことを根にもっていた。そ
のため、東征する前に出雲王家を皆殺しにすると宣伝していた。そして田島間守(タジマモリ)率
いるヒボコ子孫勢力は当時の出雲の祭場・田和山の王宮を猛攻撃で破壊した(田和山遺跡)。それ
が第二次物部東征での道中での出来事である。「記紀」では神武東征として書かれた。日本で最初
の王国、「出雲王国」は中韓連合によって、滅ばされた。残念ながら日本の政治家は自国の歴史を
知らないから、歴史認識で中韓にとやかく言われるのだ。それは、恩讐としてではなく、史実とし
て歴史を知るということだ。
出雲大社