国家最大のタブー -5ページ目

国家最大のタブー

かぐや姫のおとぎ話には子孫に気づいて欲しい暗号が隠されてた。

■真実の出雲王国史■

弥生時代の到来をもたらした渡来人の真実

■■秦の始皇帝を騙して和国に渡来した徐福■■紀元前219年頃■■

 始皇帝は、その短い15年の治世期間に広い中国を5回も行幸している。表向きは威厳を示すた
めと言われたが、真の目的は不老長生の薬探しだったと言われる。始皇帝は永遠の命が得られると
いうことで、水銀を飲んで亡くなったと言われるくらいの不老長生オタクだった。徐福は自分が住
んでいるとこに行幸して来た始皇帝に近づき、蓬莱(ほうらい・和国のこと)には仙人が住んでいて
不老長生の仙薬があると手玉にとり、莫大な金を使わせ、山東(シャントン)半島から蓬莱を目指
した。先遣隊として徐福の息のかかった○○が親子で先に出雲王国に到着した。銅鐸に似たような
物を土産として、後日、大集団が来るので上陸の許可を願いたいと。言葉どおり、翌年、紀元前2
19年頃に、出雲の五十猛海岸に見たことがない何十隻の大船団が現れた。約2000人弱にのぼ
る童男童女がアリの隊列のように上陸した。秦から来た彼らは、高級機織りの技術を持っていたの
で秦(ハタ)族と呼ばれた。尚、徐福は仙薬探しというのは口実で、本当は和国の王になるという
野心を隠して始皇帝を騙して,和国へやって来た。

「史記」「秦始皇本記」に記事がある。「「紀元前219年、始皇帝は諸郡県を巡行した。ろうや
山(シャントン省)に三か月も留まった。その時、斉人の徐福らが上書して述べた。・・海中に三
つの神山があり、名前は蓬莱と方丈ほうじょう・えい州と言います(蓬莱は和国、方丈は韓国のチ
ェジ島、えい州は沖縄だと言われる)島上に仙人が住んでいて、仙人は不老長寿の仙薬を持ってい
ます、心身を清め、けがれなき童男童女を連れて仙人を求めたいと思います」と。そこで始皇帝は
徐福をつかわし、童男童女数千人をおくって、海に出て仙人を探させた。また「漢書」の「地理志
」に千童県という地名が書かれているが、その地名は370年間続いた。唐代の書「元和群県図志
」に次のように書かれている。「じょ安県はもと漢の「千童県」で、徐福が衣食や船と梶を準備し
た所である」と。現在そこはホーペイ(河北)省塩山県「千童鎮」となり、そこには徐福集団の、日
本渡海を記念して、立派な千童祀が建てられている。


■■徐福の再来日 紀元前210年頃■■

 「史記」「秦始皇本記」に徐福のその後の話がある。37年(紀元前210年)、始皇帝はシャ
ントン省に至った。方士の徐福は海に浮かんで仙薬を求めたが、数年すぎても得られず、使った費
用は莫大であったから、責任を取らされるのを恐れて偽って言った。「蓬莱島の薬を手に入れるこ
とは可能です。しかし幾度も大ザメに苦しめられて、島に着くことができません。どうか弓の名手
を連れて行かせて下さい。大ザメが現れたら弩を連発して仕留めましょう」同じ年の話が「史記」
「准南衡山列伝」にも書かれている。徐福に神仙妙薬を求めさせたが、徐福は帰ってきて、偽って
言った。臣は海上で神に出会いました。すると、その神は言いました。「おまえは西皇(始皇帝)使
者か」と。「いかにも」と臣は答えました。神は「お前は何を求めるのか」と聞いた。「願い賜り
たい物は、長生不老の薬です」と臣は答えました。「西皇(始皇帝)は礼献が少ないので、見せる
ことはできるが、与えることはできない」と神は言いました。その後、神は臣をつれて東南方の蓬
莱に至りました。銅色竜形の使者がいて、天に昇り輝いたので、臣が拝んで改めて問いました。「
どんなものを献上すれば、かなうでしょうか」すると神は「童男童女と五穀と各種百工を献上すれ
ば薬が得られる」と言いました。始皇帝はこれを聞いて大いに喜び、さっそく男女三千人と五穀・
種々の熟練工を与え海に行かせた。徐福は平原平沢を得て、とどまり王となり、帰ってはこなかっ
た。この記録により、3千人以上の人々が出航し黄海を東南へ向かったことがわかる。かれらの出
発した所は、シャントン半島北部のポンライ(蓬莱)という海岸だと言われる。蓬莱島を目指して
出発したので、この名前がついた。徐福と童男童女の2回目の渡航は、北九州を目指した。そして
有明海沿岸に着いた。着いた島国には「平原」がある、と「史記」に記されている。その平原は筑
紫平野であった。築後川の下流の諸富から柳川にかけては、古代には沼地だったので、「広沢」と
言われた、と考えられる。徐福は2回合わせて5千人以上の、若い男女を新天地に連れてきた。紀
元前200年頃の5千人以上の子孫は、その後、大きな人口になっている。日本書紀は中国人にも
見せるために、漢文で書かれた。徐福集団の渡来を中国人が知ると、倭国は中国の植民地だと軽く
見られることを、外交上警戒したのかも知れない。奈良時代に書かれた古事記と日本書紀には、徐
福集団の渡来は隠された。しかし現代は、奈良時代と事情が違うので、もはや隠す必要はないと思
われる。徐福集団の渡航については、「後漢書」「東夷伝」にも書かれていて、中国では史実だと
考えられている。「会稽(かいけい)(長江の河口地域)の海のかなたに東 (とうてい)人(倭
人)がいる。分かれて、二十余国になる。伝えて言うには、「秦の始皇帝が方士(道教の師)徐福を
遣わし、童男童女数千人をひきいて海を進み、蓬莱の神仙を求めさせたが、得られなかった。徐福
は誅(ちゅう・罰の死)をおそれて、あえて帰らず、ついにこの州に止まった。かれらの子孫が増え
て、数万家になる。かれらの中には、時に会稽に行って交易を行う者がいる」と。吉野ケ里遺跡は
紀元前200年頃に造られた徐福集団の住居跡である。新しく秦を築くということで築秦国となり
、その後なまって筑紫国になった。また、かれらが築後平野で焼いた土器が日本の弥生土器の基に
なっており、弥生時代というのは徐福集団がもたらした。尚、徐福は出雲王国では火明(ホアカリ
)と名乗り、九州ではニギハヤヒと名乗った。それぞれ名前は違うが同じ人である。だから旧事本
記では「ホアカリニギハヤヒ尊」と続けて書いて、一人と見なしている。徐福は築秦王国を造った
のち、築後平野で亡くなったという。だから、吉野ケ里遺跡のどこかに埋葬されている可能性が大
きい。「肥前国風土記」の三根の群に「むかし三根の群と神埼の群は、合わせて一つの群であった
」との記事がある。神埼の群に「むかし、この群に荒れる神がいて、往来の人が多く殺された」と
書かれている。徐福集団は先住民を追い払い抵抗するものは殺したのであろう。その徐福が上陸し
た佐賀県諸富町の道角には、立派な徐福の全身像壁画が飾られている。徐福は上陸したとき、まず
井戸を掘らせたという、その井戸が今も民家の裏に残されている。それが「テアライ(手洗い)の
井戸」と呼ばれたが、なまって「寺井」の地名となった。そこの小川にかかる橋には「徐福寺井橋
」と書かれている。徐福は上陸し落ち着いたあと、西北方の金立(きんりゅう)山に登り天を拝ん
だ。今その山の頂上には、金立神社上社(佐賀市金立町)がある。麓に、金立神社下社が鎮座する
。金立神社には、徐福を「金立大権現」として、まつっている。童男童女たちは成人しても、故郷
に帰れずに、筑紫平野方面で亡くなった。かつての童男童女をまとめて「海童神」とした供養塔が
、下社の境内にひっそりと建っている。出雲市に徐福集団の子孫が建てた海童神社があるのと同じ
く、佐賀市の西方、白石町深浦竜王崎にも「海童神社」が鎮座する。長崎自動車道のサービス・エ
リア近くに、徐福長寿館(佐賀市金立町)がある。そこでは、徐福伝承や薬用植物の展示をおこな
っている。徐福集団が上陸後住んだ地域が、志波屋遺跡群だと考えられるが、その拠点集落が吉野
ヶ里遺跡である。その遺跡の特徴は徐福が住んでいたシャントン省にある「臨し城」と吉野ヶ里遺
跡はそっくりだということた゜。また遺骨を納めるために埋めた「かめ棺」が二千基以上出土して
いる。それはシシャントン省から出土しとたものと同じだ。銅剣や鋳型工具が出土してるが秦時代
のものだ。「肥前国風土記」の三根の群・物部の郷に記事がある。「この郷にの中に、神の社があ
る。・・・その神を鎮め祭られた。これにより物部の郷という」三根の群・物部の郷は吉野ヶ里の
近辺であり、吉野ヶ里には徐福が住んだ。そこには物部氏の重要な旧跡であったことは、奈良時代
までは知られていた。しかし「記紀」に書かれなかったので、忘れられたと言う。また、同じ、九
州人でも「佐賀県人が歩いた後は、ペンペン草も生えぬ」と言うが、なるほどと思わせる話である


■「ユダヤの失われた十士族」の子孫
 
 尚、話は前後するが徐福が住んでいた斉という国は、「ユダヤの失われた十士族」の子孫が住ん
でいた地域と言われている。古代ユダヤ人は黒髪・黒目のモンゴロイドであった。時々、日本人=
ユダヤ人という説が話題になることがあるが、まんざらトンデモ話ではないのである。徐福は道教
の方士(グル)であった。道教というのは、ユダヤ教とそっくりで、夜、山に登り、星を拝む信仰
である。「7」を聖数としているのも同じだ。またイスラエルの国旗に採用されている、「ダビデ
の星」は中国では六亡星と呼ばれ、日本では「カゴメ紋」とされている。秦(ハタ)族と呼ばれた
かれらの大半が「ユダヤの失われた十士族」の子孫と考えられる。

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■日本人の祖先の偉大な旅

 約6万年前に人類はアフリカから出発し、車も飛行機もない時代に地球上のあらゆる地域に進出
、拡散した。南米の高地、北極圏、赤道直下のジャングル、寒冷地、乾燥地帯そして、それぞれの
地域の気候・風土の環境に適合して、それぞれの人種・民族になっていた。大陸の東の海に浮かぶ
日本列島にも、偉大な旅をして渡って来た、日本人の祖先の物語があった。それは今から3500
年前の話である。


■日本人は4大文明の一つインダス文明の子孫

 いわゆるイズモ族は3千年以上前に、日本の本州に民族移動したと言う。「鼻の長い動物の住む
国から来た」との伝承がある。3500年以上前に、インド西北から戦闘的な民族アーリア人がイ
ンドに侵入して、先住民の土地を奪い牧畜を行った。母系制度で平和に暮らし農耕生活だった先住
民はドラビダ人だった。4大文明の一つインダス文明はドラビダ人が築いた。紀元前3800年頃
から、砂漠化や洪水、河川流路の変更など、さまざまな理由にのよって衰退期であった。紀元前3
500年頃、インドの中部に、クナ国と呼ばれる小王国があった。(今のグナの町らしい)そこに
イラン高原で遊牧をしていたアーリア人がが次々に侵入して来た。彼らは騎馬民族で父系家族制だ
った。森の樹木を切りはらいどんどん牧場を広げて、勢力を広めた。アーリアの男たちは、クナ人
の家に婿が来ていない夜の隙を狙って泊まり込み、女たちに彼らの種を植える行動に出た。彼達は
父系家族民なので、戦いに長じていた。クナ国の家々は女戸主の家族だったから、まとまりが弱く、
対抗できなかった。結果として、アーリア人との混血児をクナ族の女が産み、育てることが多くな
った。そして多くのドラビダ族は、アーリア人の奴隷にされた。母系家族制の民族は平和的だが、
父系家族制度の民族が得意の戦争には弱い面があった。この情勢の中で南方に逃れるドラビダ族も
いたが、クナ地方を支配していたクナト王は別の策を考えた。当時インドには、バイカル湖方面か
ら、ブリヤード人の商人が交易に来ることがあった。彼らから「シベリアの南方の大海原の中に住
民の少ない、温暖な島がある」と聞いていた。クナト王はそこに移住しようと考えた。出雲の古老
は「イズモ族は、砂の平原を通り、広い湖の近くから、長い川を流れ下って来た」と伝えている。
この「砂の平原」とはゴピ砂漠のことであろう。「広い湖」とはバイカル湖だと考えられる。「長
い川」は黒竜江(アムール川)であろう。クナト王は移住計画を発表し、移住集団に加わる若い元
気な男女を募集した。数千人の応募があったらしい。そこで食料などを家畜の背中に積んで、案内
役のブリヤード人を先頭に、移民団は出発した。まず北の山岳地帯を超えた。そこから東に進み、
朝鮮半島を通る道が近い、と現代人は思うかも知れない。しかし紀元前の古代世界では、それは危
険なことであった。獣でも縄張りがあり、近づくと攻撃してくる。ましてや弓矢を持つ異民族の国
の中を大集団が通過すると襲撃され、犠牲者が出る時代であった。だから住人の少ないシベリアを
通るのが無難であった。しかし冬のシベリアは極寒の地である。冬を避けて秋までに通過するため
に、移住者たちはゴビ砂漠を春に過ぎたことであろう。篠田謙一さんの研究報告によると遺伝子D
NAデータバンクに登録されている縄文人29体のうち、ブリヤード人と同じ塩基性配列のものが
17体あり、その配列はブリヤード人とモンゴル人に共通する、という結果が出た。登録数が少な
いので偏りが考えられるが、ブリヤード人が縄文人に混血していることは間違いない。アムール川
上流に自生していたソバの実をブリヤード人が倭国に伝えた、とも言われる。その上流で、移民団
は木材を用意し、筏と櫂を作った。そして食料を、家畜の背中から筏に移した。食料と家畜は途中
で食べられて減少し、最後にはすべてが移住者の胃袋に消えたことであろう。筏に乗ったあとは、
簡単であった。川の水が数千キロの距離を間宮海峡まで、移住民を流し運んでくれた。歩き疲れる
ことはなかった。古代にブリヤード人が倭国と交易していたことは、北海道産の黒曜石の石器がア
ムール川流域やバイカル湖岸から発掘されていることで証明できる。ブリヤード族はバカル湖付近
に住むが、アムール川を舟で下れば、楽に日本に来ることがてきた。アムール川は縄文時代の重要
な交易の道であった。一行は樺太(サハリン)西海岸を南に進み、古代に本州人が「渡り鳥」と呼ん
でいた、北海道に上陸し、そののち津軽半島にに渡った。ドラビダ族はサルタヒコ(鼻高神・性神
)の信仰をもっていてサルタ族とも呼ばれた。九州の宇佐八幡宮の社家であった宇佐公康さんが、
社家の伝承を本にしている。それにイズモ族の移住について書いている。すなわち「サルタ族がシ
ベリア方面から、日本列島に移動漂着した」と。宇佐八幡の付近に住んでいたウサ族は、サルタ族
より先に日本に住んでいたらしい。尚、ご存じのとおり、津軽半島の三内丸山遺跡には、約550
0~4000年前の1500年間ブリヤード人が定住していた。その遺跡からは現代人が想像する
より、はるかに文明が発達していたことが、伺える。日本人の遺伝子の検査により、出雲族には、
ドラビダ人の他にも、アジア大陸各地の血が混じっていることが、明らかになっている。民族移動
の道中の混血は当然だ。日本人の祖先は3000年前にインドから日本列島に民族移住したという
と、日本人全員それは絶対にあり得ないとの反応があると思う。日本人の古代史に関する常識では
、トンデモ話とされる。そういう常識になったのも「記紀」で出雲王国が抹消されたためだ。尚、
これだけは理解してほしい。南米のアンデス文明を築いた民族は、最初から南米に住んでいたわけ
ではない。我々、日本人と同じ顔つきをしたモンゴロイドが今から、1万5000年~1万200
0年ほど前にアジアからベーリンク海峡をわたって、南米まで到達したのだ。そして標高6000
メートルの高地で生活を始めて文明を築いたことを。我々の祖先は、想像できない、とてつもない
偉大な旅をして世界中に進出、拡散し、環境に適応してそれぞれの民族になっていった事実をわか
ってもらいたい。我々人類・ホモサピエンスは、最初からその地域にいたわけではなく、約6万年
前に人類はアフリカから出発し、紆余曲折を経ながら世界中の隅々まで拡散・進出したのであり、
現代、日本人のルーツである縄文人も紆余曲折を経ながら日本列島に渡ってきた歴史があるのであ
る。最初から日本列島に縄文人がいたわけではない。縄文人は遠い昔にどこからか日本列島に渡っ
てきて住み着いたという歴史がある。それが後に縄文人と呼ばれるようになった。しかし、縄文人
は、いつ頃、何処から、どういう民族が、どれくらいの人数で日本列島にやって来たのか。民族の
ルーツ・祖先について答えられる日本人は、いないのである。多くの日本人は先祖は中国大陸や朝
鮮半島から来たと漠然と思っている。確かに渡来人などにより、混血されている面があるが、基本
的には違う。中国も韓国も父系家族制度の国で父が威張る民族だ。父系制度の民はまた好戦的とい
う側面を持つ。ところがドラビダ族=縄文人=出雲族は母家族制度(婿入り婚も含む)の民族だ。
また出雲族より先に日本列島で暮らしてた日本最初の生活文化圏であった南北の、北海道・東北ま
た沖縄・九州の民族も母系家族制度だった。家族制度から見ても縄文人のルーツ・祖先は、中国人
や韓国人とは違うのである。この母系家族制度の特色は争いを好まず、平和的ということだ。和を
もって尊ぶという日本人の精神は、母系家族制に起因する。家族制度(結婚形態)というのは民族の
根源的なものであり、簡単には変えられないのである。しかし、その遠い昔の日本人のルーツ・縄
文人については、「記紀」によって出雲王国史が抹消されたために、ドラビダ族=縄文人=出雲族
の記憶も消えてしまった。日本人・縄文人の記憶のルーツは官史によって、完全に閉ざされてしま
ったのである。それは歴史の敗者になった出雲王国の宿命なのかもしれない。イズモ族が古代イン
ドから来たことは、縄文時代の日本語(ヤマト言葉)か゜ドラビダ語にそっくりであることで理解
できる。言語学者の大野晋さんは著書「日本語とタミル語」でタミル語の文法が日本語と似ている
ことを説明している。タミルはインドの南部地方で、ドラビダ族の一種が住んでいる。イズモ族が
古代に共に住んだインド中部のドラビダ族のうちで、南へ移動したのがタミル人だと考えられる。
尚、ドラビダ族はブリヤード人=モンゴル人と似た顔つきだった。今のインド人はアーリア人支配
以後の顔である。フィリッピン人がスペイン人に征服され血が混じり顔つきが西洋人ぽくなったの
と同様である。ドラビダ語に古代モンゴルなどが混じって出雲語ができた。それが基になって日本
語ができた。つまり出雲王国に各地の人が関係したから、出雲王国の言葉が共通語になり日本語が
形成されたらしい。日本人の先祖・縄文人は中国大陸や朝鮮半島から来たという大半の日本人が漠
然に思っている説は言語学的にも大分、遠い。クナト王が日本列島に上陸した時に、カネの兜(か
ぶと)をかぶりカネの槍をもっていた、との伝承がある。ドラビダ語では、金属をカネと言った。
その言葉が日本でも使われている。クナト王の所持していたカネ製品は、アカガネと呼ばれた銅製
品であったらしい。インドでは紀元前1300年以上前から、鉄が使われている。金属器が生活必
需品になっていたから、クナト王は移住の時、金属精錬の技術者をイズモ族として連れてきた可能
性が大きい

■出雲の「黒い川」

 本州に渡たり、東北地方に住んだ後、移住者は分かれて行った。クナト王の子孫は日本海沿岸を
南に移動し、最後には出雲の地に住みついた。暖かい関東平野や濃尾平野があるのに、なぜ雪深い
寒い出雲に住んだのか。その訳は「出雲に黒い川があったからだ」と伝承は述べる。黒い川とは、
現在の斐伊川のことであろう。その川底や河原には砂鉄がたまり、黒く見えることがある。古代に
は砂鉄がもっとも重要な産物だった。斐伊川は「聖なる川」としてあがめられた。その川には、「
ゆまり」(小便)をするのも禁じられた。「鉄は国家なり」と言われるが、古代でも国家の繁栄を
左右していた鍵は鉄だった。石器から鉄器の時代になると文明は飛躍的に発展する。自然に川底に
たまった砂鉄は「川粉(かわこ)ガネ」と呼ばれたが、それだけでは足りなかった。後では山の真
砂(まさ)・(花崗岩が風化したもの)がくずされて、「鉄穴流し(かんなながし)」が行われた。そ
れは真砂を溝に流して、砂鉄を選り採る方法である。奥出雲山地の真砂砂鉄は、チタンなど有害不
純物が少なく、低温精錬が容易で還元性に優れている。タタラはドラビダ語で「猛烈な火」を意味
する。日本で最初に行われた製鉄は、「野たたら」と呼ばれた。このような鉄の低温精錬は、古代
にオリエント地方でも行われたことが知られている。出雲王国は「鉄器の国」とも呼ばれた。それ
は明治期の西洋の近代的製鉄が導入される江戸時代まで「たたら製鉄」は日本の鉄の総生産の80
~90%を担っていた。尚、クナト王の子孫は、イズモに住み着いた。インドの熱帯では、常緑樹
が濃緑色にしげっていた。それに対し、新しい土地では、春に芽が出た森の色が、目にしみるよう
に美しく感じられた。かれらはその色をめでて自分たちの地方を「出芽(いずめ)の国」と呼んだ
。その発音が変化して「出雲の国」になったと伝わる。


■出雲王国の風景

 出雲の北部には、島根半島がある。その半島は天然の防波堤であった。王の海は波静かで、その
岸は良い港となった。誤解が多いが王国の都は現在の松江市である。そこに国の内外から交易の舟
が来た。出雲の輸出品はカネと首飾りに使われる玉類であった。勾玉も韓国人が高価で買い求めた
。特に鉄は各地の人々に重宝され、買いに来る人々で出雲(松江市)の港や村は賑わった。景気が
よかったので毎日、景色の良いところで老若男女が昼間から宴会を開いていた。出雲では庶民は労
役を課せられることもなく、厳しい年貢もなかった。それがDNAに刷り込まれていて今も、エビ
スさん、ダイコクさん信仰が続いているのかも知れない。出雲で採れる良質の砂鉄と鉄製品は各地
から求められた。豪族たちが最も欲しがったの鉄器は、槍の先に付ける双刃の小刀であった。それ
はウメガイと呼ばれた。それで木を削って木製品をつくるために、日用品としても、使われた。イ
ズモ族はインドでの風習であった祭りを、各地で続けていた。春分の日に春祭りを、秋分の日には
秋祭りを村中で行った。それは年2回の待ちに待った祭りだった。メインは歌垣で、それはあとの
お楽しみ付の合コンのようなものだった。現代人は紀元前200年頃の事代主がいた時代を想像し
ずらいと思うが、胎児の形の勾玉を造るには、その曲線の多い胎児形に石を加工する技術ならびに
、また勾玉に糸を通すために穴を開けなければならない。そのためには穴を作るには鉄の錐(きり
)が必要だ。石を加工して胎児形の勾玉を造るのは、現代でも容易ではない。紀元前の出雲王国に
は、現代でも難しい技術をもっていた文化の発展していた国だった。その名残が松江市に玉造り温
泉とか勾玉づくりとして残っている。


■幸の神(サイノカミ)◇◆◇◆クラウドファンディング◇◆◇◆

 その後、出雲の各地の代表は春分の日と秋分の日に王宮・神魂の丘(松江市大庭町・王の庭、場
という意味)に集まり大祭を行った。そしてドラビダ族=縄文人=出雲族の民族移住の指導者だっ
たクナト王を民族の守護神として定め、幸の神(サイノカミ)と呼んだ。また幸の神(サイノカミ
)は家族神(幸の神三神)で構成された。主神が「クナト大神」、母神を「幸姫の命」、息子神を「
サルタヒコ」と呼ばれた。サルタはドラビダ語で長鼻(男性器の隠語)という意味なので、サルタ
彦は「鼻高神」とも呼ばれる。幸の神(サイノカミ)の特色は子孫繁栄(生殖)の神である。先祖
・幸の神を敬い、子孫繁栄の守護を祈願するものだった。子孫繁栄には結婚と出産が必要である。
幸の神(サイノカミ)は「縁結びと子宝の神」とも言われる。子孫繁栄(生殖)には広い意味では、
夫婦円満、子宝安産、万物創生、五穀豊穣、男女和合、豊作祈願、招福除厄、無病息災・・等が含
まれる。つまり性の原理(生命創生・五穀豊穣・自然原理)を芽出たいとする考えが人生の基本にな
っていた。また古代は医療が未発達で祈るしかなかった。自然の猛威の前にも同様だった。世界の
3大宗教は性を罪悪視する考え方だが、日本人は幸の神(サイノカミ)のおかげで、性に対して寛
容な国民性となった。また3大宗教のような一神教、排他的な考えをもつことが避けられた。また
幸の神(サイノカミ)のおかげで日本人は先祖神を何より敬う精神構造になった。幸の神の(サイ
ノカミ)が全国に広まり、各地の御柱(男根崇拝)祭り、有名なもので名古屋小牧の「豊年祭り」、
長野の女男神像、等がある。尚、神道というのは幸の神(サイノカミ)が国家に横取りされたもの
である。地方の田舎の家では神棚に先祖神・幸の神(サイノカミ)を拝んでおり、神道とかと呼ぶ
庶民はいないのである。正月と言えば日本最大の行事であるが、正月も元々は幸の神(サイノカミ
)の行事として始まった。正月は幸の神(サイノカミ)さんのことを特別に歳徳神・歳神(としが
み)さんと呼んだ。お供えを用意し先祖神の歳神(としがみ)さんを家に招き迎えた。そして女夫
が添寝をし、仲よく幸せにやっていますよというところを見せて、先祖神・歳神(としがみ)さん
に安心をしてもらうことが重要だった。だから正月の姫初めは大事な神事だった。尚、紀元前10
0年頃にヤマトに出雲族が建てた正月の神さんを祭る御歳神神社が鎮座する。「記紀」が出た後、
神社の祭神は政府の意向で出雲系の神、及び「幸の神」はずいぶん変えられた。それは「記紀」で
初めて登場したイザナギとかイザナミ等々に変えられた。それでも出雲系の神、大国主や事代主を
祭る神社が現在でも、全国各地に多数ある。それだけ幸の神(サイノカミ)信仰が、日本全土にひ
ろまっている証拠である。それは縄文人=出雲族=日本人の民族の風習・伝統・行事といった民衆
レベルのことは、支配者が変わろうが、なかなか変わることはないのである。またへびのトグロに
似た山が、「神がこもる山」(神名備山かんなびやま)として崇拝された。中国地方最高峰の大山は
、伯耆富士ともいわれるように、三角錐の形をしており、代表的な神名備山である。その大山は、
出雲王国時代から奈良時代までは、大神(おおがみ)山と呼ばれていた。何故、大神山(おおがみ
やま)と呼ばれていたかと言うと、出雲王国の王宮がある大庭おおば(松江市大庭町)から、春・
秋の年2回の大祭の時に遠方、各地から参集した豪族たちは、、各種、催しもの・宴会が終わった
最後に、全員で東の彼方にクナトの大神がこもるとされた崇高な大神山(おおがみやま)に向かっ
て遥拝した。その後、大神山(おおがみやま)の麓には、大神山(おおがみやま)神社が遥拝地と
して建てられた。また後に大神山(おおがみやま)の、山腹に大神山(おおがみやま)神社奥社も
建てられ、現在も続いている。尚、なぜ大神山(おおがみやま)が、大山(だいせん)と呼ばれる
ようになったかというと、奈良時代に仏教勢力が強くなり大神山に大山寺(だいせんじ)を建てた
。それ以降、地元の人々は大神山(おおがみやま)と言わずに、大山寺(だいせんじ)があるので
大山(だいせん)と呼ぶようになった。尚、大神山(おおがみやま)神社が出雲王国、サイノカミ
、クナトの大神の名残を今に留めている。しかし残念ながら、なぜ昔、大神山(おおがみやま)と
言われていたのかということを知っている地元の人は、いない。これも「記紀」の影響で出雲王国
が忘れられたからだ。尚、クラウドファンディングで資金集めをして、幸の神アーカイブ(記録・
保存)プロジェクトを計画しています。ご賛同いただける方はご連絡ください。


■「三」は聖数

 尚、サイノカミ(幸の神)三神というように、幸の神では、「三」が聖数として扱われた。それで
結婚式で使う三三九度用の三つ重ねの盃は「三三クナト」の意味が込められている。大きい盃は花
婿を、中の盃は花嫁を、上の盃ははうまれてくる赤ん坊を象徴する。三宝も幸の神からだ。

 また、三拍子そろうと縁起が良い、も幸の神三神からきている。万歳三唱(当時はイズメ、イズ
メイズメ)も聖数「三」からきている。締めの拍子を三つ打つのも同様である。

 幸の神三植物は松竹梅だ。松の葉は乙女の下の毛に似ているので(若松様)と呼ばれ縁起が良い
。竹の筒は男性のアレである。梅の花は、幸の神では「産め」に通じるので、最高の花とされる。
 
■「八」も聖数

 太陽信仰からきており、日本海軍旗のように、朝日が八方に光りを放つ姿に見えるのでその八本
の光から来ている、という。

出雲大社