◎かぐや姫の物語には、国家最大のタブーが隠されてた
■かぐや姫コード
「いまは昔、竹取の翁といふもの有りけり」で始まる、かぐや姫の話には、重大なコード(暗号)
が隠されていた。おとぎ話は、あくまで隠れミノであり、作者がかぐや姫を創作した真の意図はお
とぎ話の中に隠された(コード暗号)であった。かぐや姫の話は、時の権力者が犯した歴史の改ざ
んについて糾弾するために、おとぎ話の設定を借りて後世の日本人に是非、気づいてほしいとの命
がけの思いで書かれたものて゛ある。これは不都合な事は隠し、自分達の都合のいい話に、歴史を
歪曲してしまった虚飾に満ちた「古事記」、「日本書紀」のいわゆる「記紀」の欺瞞を糾弾するの
が目的だった。しかし作者が工夫して書いた、かぐや姫の意図は気づかれず、現代では作者の意図
とは反対に、おとぎ話が映画化されてしまった。また学者も「記紀」に書かれていることを鵜呑み
にして古代史を解説している。日本の古代の歴史を、欺く基を作った「記紀」の欺瞞は1300年
経ても解明されていないのである。歴史の勝者の子孫によって作られた官史。それが正史として後
世に残る。。そこに権力者でも及ばない月の明りを照らして、隠された勝者の不都合な歴史、敗者
の歴史というものは、一体何だったのか、ということを後世の子孫に探ってもらいたいという願い
で「かぐや姫」の物語は、書かれた。
■封印された「かぐや姫」、200年後に発表
かぐや姫の作者は事代主の子孫にあたる伊予部馬飼(うまかい)が書いた可能性が高い。「記紀」
が世にでたあと、あまりにものの虚飾に憤慨し、おとぎ話の設定にし、批判とはわからぬように工
夫して書いたが、話の比喩、実在の政界実力者をもじった登場人物の設定など、わかる人が見れば
時の政界実力者への批判、官史への批判ということは一目瞭然だった。そんな物を世に出したら、
一族郎党の壊滅は必至だった。その後、あたり障りのない200年後に、彼の意志を継いだ子孫が
発表した。そういう理由で作者不詳になっている。
■かぐや姫コード(暗号)とは登場人物とその筋書き
かぐや姫に求婚する5人の貴公子は「記紀」が製作された当時の政府高官がモデルになっている。
偽りの多い「記紀」を書かせた人と虚飾を知りながら黙認した人たち、だった。偽物を作らされた
金工は、偽物の史書を書かされた、古事記の執筆者、柿本人麿がモデルだ。これが、かぐや姫のお
とぎ話の中に埋め込まれた、登場人物とその筋書きが、「かぐや姫コード(暗号)」である。まず
、「記紀」に虚偽の話が加えられたことを黙認したことで、悪役にされた三人の名前は、実存の大
納言・阿部御主人(みぬし)は物語では左大臣・阿部ミムラジとされて「永遠の皮袋(真実の史書
)」を見つけに行ったが、偽物を手に入れて来た。実存の大納言・大伴御幸は物語では同じ位と実
名で登場した。かれは竜の玉を得るために、竜神を殺そうとした。神罰のアラシは大伴を襲い、船
は転覆寸前となった。雷神は大伴御幸を攻撃し、かれは死に直面した。これは古事記にヤマタのオ
ロチ(竜神)を殺す話を作った人を、大伴御幸に例えている。実存の右大臣・丹比(たじひ)島は、
物語では石作ノ皇子とされた。丹比氏と石作氏は同族だったからだ。かれは「仏の光る石鉢」を探
せられたが、見つけられなかった。かぐや姫の話は、「記紀」製作時の政府高官がモデルになった
登場人物が失敗し、罰をうけた話だ。「記紀」の虚飾に怒っていた当時の知識人は、さぞ溜飲が下
がったことだろう。
■藤原不比等への糾弾
作者が一番、糾弾したかったのが、偽りの多い「記紀」を書かせた、時の右大臣・藤原不比等であ
った。隠されているが「記紀」の実質総責任者は藤原不比等であった。不比等は、かぐや姫の物語
の中では、かぐや姫に求婚する貴公子の中の一人、庫持ノ皇子の名前で登場している。右大臣・藤
原不比等の母の名が、車持与志古娘だったので、「車」の字と良く似た字の「庫」にされたらしい
。
■藤原不比等の描かれ方
物語の中で、庫持ノ皇子が、かぐや姫から与えられた結婚の条件は、「真珠の枝」を探してとって
くることだった。持ノ皇子は「真珠の枝」を海に行って探すこともせずに、金工に偽物を作らせた
。しかも金工に工賃を払わなかった。それらの実態をかぐや姫に見抜かれて、恥をかいた。かぐや
姫はほうびとして金工たちに、たくさんの工賃を払った。その後、庫持ノ皇子は金工たちの帰り道
を待ち伏せし、血か゜出るまで金工たちを殴り、工賃を奪った。この筋書きは何を暗示しているの
か。
■かぐや姫最大のコード(暗号)
偽物を作らされた金工の名は、漢部(あやべ)内麻呂という名で登場している。これは嘘の多い官
史(古事記)を書かされた、綾部(あやべ)柿本人麿がモデルだ。人麿は幼少時は綾部姓で柿本家に養
子に行き綾部姓から柿本姓に変わった。この設定は史書製作における右大臣・藤原不比等と柿本(
綾部)人麿の関係を表している。庫持ノ皇子と金工・漢部(あやべ)内麻呂のこの登場人物と筋書
きが、かぐや姫最大のコード(暗号)である。
■監禁/流刑
古事記を書き終わったあと、人麿にはとんでもない事件が待ち受けていた。高貴な女性との密会と
いう濡れ衣を着せられた。そして、監禁されその後、上総(かずさ)国に流刑となった。はめられた
のだ。なぜ人麿はこのような運命にならなければいけなかったのか。それは虚飾の官史を書かせら
れためだった。証拠隠滅である。和歌を詠み、日本人の精神風土の土台の一つを作り日本文化に多
大な貢献した偉人・人麿は、人生後半は不比等に利用され、虚飾の史書作りに関わらされたために
口封じの陰謀にはめられ最後は不幸な運命にされた。そのことを現代日本人は知らないのである。
■蔭位(おんい)の制
藤原不比等の時代に律が決められた。あわせて貴族・上級の官吏には経済的・身分的な特権が与え
られた。父や祖父の位階に応じた地位が無条件で与えられた。つまり貴族は生まれた時から、どの
官職につくか、出世の時期も決められていた。日本書紀に祖先が活躍したことが載れば、それは上
級の官吏になれることを意味する。また国史である「日本書紀」に、本当は黒でも白と書かれたら
、白になる。権威があった。当時の都は粛清と「蔭位(おんい)の制」があり、北朝鮮と同じ空気
があった。現代人には理解できないかも知れないが、それが公家社会の掟だった。お上が黒を白と
いったら逆らえなかった。奈良時代までは出雲王国のことは良く語られていたが、国史「日本書紀
」がでて講義されるようになると人々は史実として書かれていない、出雲王国のことは語らなくな
った。それが1300年も続いているのである。尚、そういう中での、かぐや姫の作者の「記紀」
への批判は命がけ、一族没落と背中合わせだった。
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■何故、かぐや姫の作者の怒りに気づかないのか
かぐや姫の作者が後世の子孫に気づいてもらいたいという願いが、何故届かないのか。それはひ
とえに、学者の怠慢である。まず古代史を語るのは、その多くは「記紀」、「風土記」の研究者で
ある。かれらが語る古代史と言うのは、官史「記紀」=正史の前提で、「記紀」に書かれている、
記述を研究・解釈することが古代史研究と思っている。その学者の書いた、監修した本・雑誌が、
書店の古代史コーナーにあふれている。そのために日本人は間違った古代史の常識を持つようにな
った。「記紀」研究者は、まず大きな背景を見逃している。国宝となっている「海部氏本系図」、
と「海部氏勘注系図」には、海部氏の祖先が徐福であることや、徐福が出雲王国の第八代の王であ
る有名な大国主、の娘・高照姫と結婚したことが書いてある。そして生まれた子が五十猛であり、
姓を海(あま)とし、海(あま)五十猛と名乗る。成人すると、出雲に渡来してた秦(ハタ)族の
集団を引き連れ丹波の国に集団移住した。そして、丹波の国で指導者となり、香語山と改名し、海
(あま)香語山となる。、その子が海(あま)村雲である。「記紀」では、天 村雲と書かれた。
天 村雲が、出雲人が開拓したヤマトに後から丹波人約一万人を引き連れ、集団移住した。そして
、出雲人集団と丹波人集団が協力して、政治的共同体を作った。それが初期のヤマト政権だった。
その後、天 村雲が、事代主の娘であるタタライスズ姫と結婚したので、村雲が両集団の代表とさ
れた。その代表が、後世に、ヤマト初代大王とされた。尚、海(あま)家は、三韓征服に参加した
あと、海部(あまべ)氏と名乗るようになった。近年では海部(かいふ)という呼び名に変わって
いる。話は戻るが、その徐福とは、「記紀」ではニニギノとしても書いてある。また「記紀」では
よく知られているように初代天皇は、神武天皇と書いてあり、その神武天皇の始祖は「記紀」では
、はっきりと日向に天孫降臨したニニギノと書いてある(実際は有明海に上陸したのだが)そのニ
ニギノとは、秦国から渡来して来た、徐福である。さらに「記紀」製作の責任者が時の右大臣・藤
原不比等ということが、わかっていない。まずわかっていたら、藤原不比等が関わっていることが
わかれば、信用に値しないことがわかるはずだ。わかった上であれば、「記紀」を前提に歴史を語
るのは、おこがましいのある。さらに「記紀」では歴史書といえ、権力闘争が一切書かれていない
不思議がある。戦国時代のような戦乱がないのは、どう考えても、おかしすぎる。戦で一人も死ん
でいないのである。記述内容は子ども向け相手のおとぎ話のような物語だ。さらに万世一系になっ
ているが、それについては一切、触れないのである。「記紀」は冒頭、国生み神話が書かれている
が、これは誰でも作り話だと分かる。また古事記ではその後、神話の話が続き、「出雲神話」と「
日向神話」が書かれている。学者はそのまま神話の話と解釈して解説している。ただし考えてみれ
ば、なぜ「出雲神話」と「日向神話」が書かれたのか。たんなる暇つぶしで書かれたのか。またな
ぜ、「出雲」と「日向」なのか。吉備と讃岐ではダメだったのか。ちょっと考えても史実としてで
なく、神話にされた裏には、何か重大な事が隠されていると考えるのが普通である。しかし、神話
の絵空事として、学者は史実としてみていない。その証拠に出雲を語る枕詞は「神話の国、出雲」
、「神々の国、出雲」、「神代の出雲」である。日本で最初の王国が神話の話にされ放置されたま
まになっているのである。さらに古代最大の渡来集団の徐福集団の渡来に関しては、古代史、最大
の事件であるはずの、縄文→弥生になった記述が「記紀」には一切、書かれていないことである。
それは、ペリーの黒船襲来の事件を隠して、江戸から明治時代になったと書かれているのと同じで
あるが、学者はそういうことを一切し無視し指摘もしないのである。
■かぐや姫の作者は何に怒っていたのか
それは「記紀」では古代史、歴史年表で言えば弥生時代の歴史が、いいように改ざんされている
ことだった。それは紀元400年頃~紀元後300年頃の歴史である。但し、あえてそういうこと
は、声高に指摘しなくても「記紀」のその時代の記述が歴史年表に採用されていないことを見ても
、学問的には史実と認められていない証左である。一番、大きい理由は、持統女帝の指示で「記紀
」は、史話を撰善言(よきことえらぶ)巻末資料参照で書くことに、なったからである。これは簡
単にいうと、TVの水戸黄門のようなものだ。実際の水戸光圀の史話ではなく、子どもが見ても安
心な脚色した話で正義は悪に最後は勝って、メデタシで終わるような話だ。だから結果、史話は嘘
で嘘を塗り固めた、ような話になった。史話が180度、変わってしまうのである。だから、そう
いうことを踏まえて「記紀」を見なくてはいけない。しかし、現代の学者は、「記紀」に書いてあ
る虚構の話の上面の解説に全労力を費やしており、例え話から、真実を探ろうという考えがないの
である。そのため、「記紀」の古代史に関しては、マンガの解説のような内容ばかりである。例え
ば「本能寺の変」を、撰善言(よきことえらぶ)方式で書くと、お殿様も旅先で戸締り、火の元に
注意しないと火事に遭います。よい子は火遊びに気を付けましょう。と言った話に変わってしまう
のである。子ども向けには、いいかも知れないが、大人が読む史書として耐えられない内容になっ
た。だから「記紀」には、権力闘争、戦争、裏切り、騙し合い、攻撃、滅亡と言った歴史の真実は
語られず、子ども向けの、マンガのような歴史書が、官史となった。他に万世一系方式の編集方針
も史実と異なる結果になった。これは例えると、織田政権、豊臣政権、徳川政権と政権が代わって
も同じ政権が続いているように見せることだ。それは、徳川政権は初代は徳川信長、二代目は、徳
川秀吉、三代目が徳川家康といった具合だ。また権力闘争を書くことも禁じられたので「比叡山焼
き討ち」、「大阪夏の陣」といった戦があっても、「記紀」では、隠された。尚、天武天皇以前の
大王は万世一系方式のため天皇にされた。また、万世一系方式のため、それらの大王には「記紀」
で創作された天皇名が付けられた。さらに天孫降臨をする話を入れることになった。人間が天孫降
臨することなど、おとぎ話ならいざ知らず、歴史書に天孫降臨の話をいれたら、歴史でなくなる。
以上の理由で「記紀」は史実とかけ離れた話が多数、存在する結果になった。まだ「記紀」の虚飾
は他にも多数あるが、以上みただけでも、かぐや姫の作者だけでなく、大人であれば誰でも、あま
りにものの虚飾に憤慨するのである。神話・歴史的おとぎ話なら許せるが、しかし大人が「記紀」
は官史だから、書かれていることは正しいとの思い込みで、まともに読むと有害な面がある。元総
理が「日本は神の国」発言をして話題になっていたが、総理大臣でも「記紀」の虚飾を信じている
のである。それは明治政府以降の王政復古政策により、官史「記紀」は絶対的になった。その時代
の国民は天孫降臨した話も信じたのであった。それは官史ということで嘘でも本当のことだと思わ
せる権威があるのである。かぐや姫の作者は官史「記紀」の何に怒っていたのか。生命の保障も顧
みず時の権力者に楯突いても、かぐや姫コードで、子孫に是非わかってほしいという願った真善美
とは何だったのか。史実でない記述が大半を占める史書を、偽書とするならば「古事記」は偽書と
言うことができる。日本書紀は、古事記より後の時代も書かれていて、後半に偽りが少ないので、
詐偽が過半数とはならない。
■「記紀」により日本人は間違った古代史の常識を持つようになった。
「記紀」では「出雲王国」と「徐福集団の渡来」のことを史実としてではなく、神話の話に変えた
。文明が栄え、日本で最初の王国である出雲王国だったが、国史により神話の話にされたため、出
雲は「神話の国」として語られるようになった。そしてはまた、弥生時代の到来をもたらした「徐
福集団の渡来」についても、「記紀」で出雲へのスサノオの天孫降臨、日向・高千穂のニニギノの
天孫降臨で誤魔化した。「出雲王国」と「徐福集団の渡来」という古代史の根本が何故、史実とし
て隠されて、神話の話にされたのか、それは簡単に言うと、勝者の子孫の都合で隠された。しかし
、史実として抹消しても何らか触れないと誰も納得しない。そこで神話の話にして差し替えた。何
の意味もなく「出雲神話」や「日向神話」が書かれた訳ではないのである。奈良時代に書かれた「
記紀」のせいで、日本人は1300年間も、自国の歴史について、誤った認識を持つようになった
。それは日本人は、どこからやってきたのかを忘れる結果になった。そして日本人の先祖は、中国
大陸や朝鮮半島から、渡って来たんじゃないかと漠然と考える国民になった。それは官史(記紀)
=正史と思い込む、お上に弱い国民性も影響している。日本人は自国の古代の歴史については、思
考停止した国民になってしまったのである。
■日本古代史研究レベル
和国、最初の歴史書「日本書紀」、「古事記」、「風土記」についての学者の見識は、狭い専門知
識範囲での見解であり、俯瞰した知識がないのである。依って史学者・考古学者の見識というのは
単純・純朴そのものである。誰が何の目的で、どういう背景で書かれたのか推測する能力が、完璧
に欠けている。それは、専門分野以前に洞察力がないのである。「日本書紀」、「古事記」が、書
かれた当時の政治状況、政治を動かした人物は誰か。誰が国の支配者であったのか、大きな時代の
流れの視点等の観点が全く欠け落ちているのである。そういうことを抜きに「記紀」をとらまえて
語るのは、いささか狭量すぎるのである。また歴史というのは、日本書紀」、「古事記」以外に民
間の風習・祭り・伝統があり、それらのほうが真実の歴史があり重要であるが、フィールドワーク
もなく、それらの知識がないのに堂々と学者は専門分野での知っている狭い範囲での古代史を語っ
ているのが日本古代史の現状である。つまり、日本の古代史と言うのは、神話解説者や、「記紀」
研究者がいたり、古墳至上主義の考古学者がいたりで、古代史は狭い専門分野しかわからない学者
が好き勝手なことを言う、言いたい放題が現状であり、そのため日本の古代史は混沌としてしまっ
た。言いたい放題が古代史の現状である。戦国時代以降は様々な敗者の歴史にも光が当たっている
が、古代史に関しては、依然とし勝者の歴史=正史「記紀」のみであり、敗者の歴史に光をあてる
研究は、まったくなく、「記紀」の言いなりになっており、学問として成立しえてないのが現状で
ある。そのレベルの低さを物語るのがが古代史最大のロマンと言われるヤマタイコク・ヒミコ論争
である。
■古代史ダイジェスト版-出雲王国~三韓征服まで-
紀元前400年頃、和国で最初の王国「出雲王国」は誕生した。それは武力で統一された国ではな
かった。「野ダタラ」と呼ばれる和国最初の鉄の生産により、経済が発展し文明が栄え、自然に人
々が集まるようになった。各地の豪族の娘と重婚し、それが広域出雲王国の領土となった。また「
幸神」を信仰する宗教国家であった。母系家族制で戦争もない平和な国だった。秦の始皇帝の時代
、紀元前219年頃に、秦国から古代最大の渡来人集団、徐福集団が出雲王国に渡来した。そして
出雲両国王の暗殺事件→出雲人による新王国の建立(ヤマト開拓)と、歴史が玉突きで動いた。徐
福は和国で王になれる見通しがないので失望し、さらに多勢の秦人を引き連れ和国の王になること
夢見、一旦、帰国することを決断する。紀元前210年頃に、徐福はさらに多勢の秦人を引き連れ
こんどは、九州の有明海に上陸した。合計五千人以上の渡来人が、古代の和国にやってきた。かれ
らの渡来は光と影があったが、縄文→弥生は徐福集団集団の渡来が、もたらしたものだ。紀元前1
00年頃、第二の渡来集団が、現れた。辰韓(新羅)からヒボコ王子とその従者(数百人)たちで
あった。ヒボコは辰韓王の長男であった。王は跡継ぎ争いを避けるために、ヒボコに家来をつけて
、財宝を持たせて和国に送った。それは次男を、跡継ぎにさせるためであった。それでヒボコは父
王を恨んで、反抗的な性格になっていた。ヒボコは生意気な態度であったため上陸を許可されず、
但馬方面に上陸した。尚、吉野ヶ里遺跡は徐福集団の住居跡で、そこで作られた土器が弥生土器の
基になった。秦人は高級機織りの技術をもっていたので秦(ハタ)族と呼ばれた。そして徐福の子
孫の代になると、筑紫平野を征服し新しく秦の国を築くという意味て゜築秦国とした。のちに、そ
れがなまって筑紫国となった。つまり九州の北部、筑紫平野は、中国人に支配されたことが、歴史
の事実である。徐福の子孫は物部氏を名乗った。日本史で重要な弥生時代の到来について、いつ、
誰が、何処にやってきたか具体的な話がないのは、そのためである。日本の古代史に欠落している
一つは弥生時代がどうやってもたされれたのか。そのことに言及する学者はいないのである。奈良
時代の日本書紀は、中国人にも見せるために、漢文で書かれた。そんなことを書いたら中国から属
国扱い、軽く見られる。そんなことは伏せるしかなかった。また、出雲渡来時の孫が海 村雲であ
り、ヤマトの初代大王となった。また子孫は海部氏(尾張氏とも言う)となった。徐福の腹異いの
子孫である物部氏と海部氏、それと事代主の子孫が古代の政治を動かしていた。紀元100年頃、
九州の物部勢がヤマトに第一次物部東征を行う。武力では優勢だったが、人民の尊敬を集めること
はてきず失敗(姫巫女がいなかったため)。約150年後の紀元後232年頃に、第二次物部東征
を計画。その最中に、物部イニエ大王が九州で没し、未亡人となったヒミコが意志を引き継ぐ。ヤ
マトに攻める前に魏に朝貢し後ろ盾を得ることにした。第二次東征は瀬戸内海ルートと日本海側ル
ートに分かれて進んだ。その日本海ルートで出雲王国は物部勢力に滅ぼされた。瀬戸内海ルートで
は安芸の宮島でヒミコは病死し、物部イクメが指揮官を引き継ぎヤマト磯城王朝(出雲系)を滅ぼ
し、物部王朝の政権を樹立。しかし物部王朝は短命の三代で終わる。物部王朝三代目はワカタラシ
(成務)大王で、后はオキナガタラシ姫であった。オキナガタラシ姫はヒボコの血を引き継いでい
た。当時、辰韓の王家が断絶し、家来が新羅国を起こした。当時は領土も人民も王家の財産だとの
考えがあった。だからヒボコの子孫のオキナガタラシ姫は、新羅領地と年貢を自分が受け継ぐ権利
があると考え、新羅に出兵し権利を承認させようと考えた。日向国の武内ソツ彦王の協力得て、ソ
ツ彦王が新羅出兵の総指揮者となり新羅だけでなく三韓征服に成功する。そして三韓からの年貢が
財政として使えたので、和国はそれ以前より豊になった。その三韓年貢マネーが使えたから、近畿
方面に巨大な古墳が誕生した。以上が出雲王国~三韓征服までの、ざっとした、あらましである。
■神武天皇 架空(建国記念日)
日本書紀には、天照大御神の孫にあたるニニギノ尊が日向に降臨し、3代経た後に生まれたのが
イワレヒコ、後の神武天皇で、イワレヒコは45歳のときに国土を拡大、そして支配するため東征
を決意、日向を旅立つ。1月1日(旧暦) 橿原野宮で即位して初代神武天皇となった、と記され
ている。この記述を解説すると、まず天照大御神というのは、出雲族の太陽信仰のことである。次
にニニギノ尊というのは秦から渡来して来た、徐福を指す。徐福は2回目の渡来地・九州ではニギ
ハヤヒという和国名を名のっていた。実際は有明海に上陸したのだが、降臨するという話で高千穂
の峰に天孫降臨する話に変えられた。子孫は物部氏となり筑紫平野を支配した。東征は実際は第1
次物部東征は紀元100年頃、第2次物部東征は紀元250年頃の2回行われた。それを、まとめ
て1回の話にし神武東征の話にしている。第2次東征でヤマト政権磯城王朝を倒し、物部イクメが
物部政権を樹立したが、短命の3代で物部政権は終わった。実際はヤマト初代大王は海(天)村雲
である。物部政権の時代は大王でいえば11代目位の時代背景に当たる。紀元後250~300年
頃の話だ。物部氏は古代の政治を動かした大豪族だ。もし日本書紀が正しいとすれば、物部氏が天
皇の祖ということになる。しかし、物部氏は天皇の祖ではない。なぜ、こういう話ができたかとい
うと、「記紀」製作時の左大臣が石上(物部)麻呂だったからである。右大臣・藤原不比等が、左大
臣・石上(物部)麻呂にご機嫌取りをして、こういう話を書かせた。「記紀」は当時の関係者により
、都合のいいように史実が変えられた。また、初代天皇とされている神武天皇は即位期間が紀元前
660年~紀元前582年の78年間に及び138歳まで生きたことになっている。これでは小学
生にも嘘だと指摘されてしまう。また現在の史学界では、第二十代の天武天皇から天皇という称号
が使われているので、それ以前の天皇は大王と呼び区別することが定説になっている。であればイ
ワレヒコが即位して初代の天皇、神武天皇になったという話自体がおかしい話になる。小学生にも
嘘だと指摘されてしまう神武天皇を根拠にしているのが日本の建国記念日なのである。ファンタジ
ーだとすれば問題ないが、明治の王制復古に伴い、国家に利用され、神武天皇の他、日本書紀(官
史)官史は日本の正史として絶対性を持った。また異を唱える国民はいなかった。熱風のごとき時
代では、日本は神の国と国家が煽った。そういう「記紀」(官史=正史)を絶対視する考えは現代
にも多分に引き継がれている。そこに官史=正史であるという先入観で「記紀」に疑いの余地を持
たない、日本人は自国の歴史に対して思考停止した国民性になってしまった。神武天皇138歳の
寿命は小学生であれば嘘だと言うが、大人で嘘と指摘する人はいないのである。書店の古代史コー
ナーの大人向けの雑誌には、「記紀」に書いてある神武天皇はじめ、その他記述が、さも古代の歴
史のように書かれている。監修を見ると大学教授だったりする。子ども向けの神話と史実の区別が
つかないのが、日本の古代史の現状である。言うまでももなく初代天皇は神武天皇というのは「記
紀」が、作った創作であり、初代天皇は天武天皇である。尚、ヤマトの初代大王・海あま(記紀で
は天に変えられた)村雲が消されて、その代わりに、架空のイワレヒコ(神武天皇)が書かれた。
史実であるヤマトの初代大王・海あま(天)村雲が、大王に就任するときに、出雲王から祝いとし
て贈られたのが、「村雲の剣」である。それは出雲型銅剣であった。「記紀」では、それを「草薙
の剣」として変えた。天皇家の三種の神器の一つになった。尚、徐福は出雲では和国風の名前、火
明り(ホアカリ)を名乗り、出雲の大国主の娘・高照姫を妻にもらい、生まれた御子が五十猛(い
そたけ)だった。海(あま)五十猛と名乗った。五十猛は成人し、出雲王国から秦族を引き連れ、
丹波の国に集団移住した。五十猛は丹波の国で指導者となり、海あま香語山(かごやま)と改名し
た。その長男が海(あま)村雲であった。村雲は成人してから、父上の香語山がしたように、丹波
人を引き連れて、出雲人が開拓したヤマトに約一万人が集団移住した。ヤマトでは先住の出雲人よ
り、丹波勢力が多くなった。そして出雲人集団と丹波人集団が協力して、政治的共同体を作った。
それが初期のヤマト政権だった。そして村雲は出雲の事代主の娘であるタタライスズ姫と結婚した
ので、村雲が両集団の代表とされた。それが後世にヤマト初代王と呼ばれた。尚、副王はタタライ
スズ姫の兄、登美家とか磯城家と呼ばれる(出雲王家の分家)のクシヒカタであった。出雲族は古
くから、朝日を拝む信仰をもっていた。三輪山から昇る太陽を葛城から拝んでいたが、タタライス
ズ姫は三輪山の麓に移り住み、太陽の女神を拝む儀式を行った。その祭りに多くの人が集まるよう
になり、政治的な結束が強まった。これが古代の「祭政一致」の政治状態だった。三輪山には、タ
タライスズ姫の父君・事代主の霊を、大物主の名前で祭った。三輪山には出雲の竜蛇神や幸の神(
サイノカミ)も祭られたから、三輪山には幸の神(サイノカミ)関係の社(やしろ)が多い。ヤマ
トの初代の王朝は、初代大王の出身家系により「海部王朝」と言われる。大王家には3代続けて磯
城家から后を迎えた。だから後には、磯城家の血が濃くなった。そのため3代以後は「磯城王朝」
と呼ばれ、大王には出雲人という意識や習慣を持つお方もいた。だから磯城王朝は第二の出雲王朝
とみなされた。登美家(磯城家と呼ばれる)は、大王家と同様な勢力を持つ存在となった。尚、ヤ
マトに移住し磯城王朝を建てた出雲人に対し、出雲に残った両王家は3世紀まで、後期出雲王国の
支配を継続した。若干、解説をしておくと海(あま)村雲の海(あま)家は、後に海部(あまべ)
家と呼ばれるようになったので海部(あまべ)王朝とした。また海部(あまべ)家は尾張家ともい
い、合わせて尾張家とも呼ぶ。尚、海部(あまべ)家は日本では、出雲の二王家と宗像家に次ぐ、
古い家柄である。その家系図の「海部氏本系図」、と「海部氏勘注系図」は国宝となっている。こ
の国宝の家系図や「旧事本記」を合わせ持って見ると、「記紀」で誤魔化された嘘の一旦が、わか
る。尚、この海部(あまべ)家とその親族の娘(竹野姫など)は、天皇家に后妃てして多く選ばれ
て入る。また初代天皇の天武天皇は即位の前は大海人(おおあまと)皇子という名前だった。「大
海人(おおあまと」の言葉は、「海(あま)部」から来ている。大海人(おおあまと)皇子の養育
者は安曇(あずみ)連家で、安曇家は海部(あまべ)家の分家であった。「安曇(あずみ)」とは
「海住(あまず)み」の発音がなまった苗字だ。話は飛ぶが「記紀」の前に、天武天皇の時代に「
帝紀編纂」という史書作りの大プロジェクトがあったが、結局完成せず、未完のまま下書きが残っ
た。それらの資料が「記紀」製作の資料に使われた。「帝紀編纂」の編集委員の中の一人に安曇(
あずみ)連稲敷(いなしき)が選ばれている。逆に海部氏と仲が悪かった腹異いの物部氏関係者は
帝紀編集委員には含まれていない。もし「帝紀」が完成されていたら、ヤマト王朝の初代王には海
部氏・安曇(あずみ)連の先祖に当たる、史実である海(あま)村雲になっていたはずだ。それが
「記紀」では関係者の都合により、架空のイワレヒコ(神武天皇)にされた。
■第六代孝安天皇
(国押人・クニオシヒト大王)にいたっては、即位期間が紀元前392年~紀元前291年の何と
即位期間が101年間のおよぶ。いったい何歳までの寿命だったのかと思う。ところが嘘はヒョン
なところからばれる。「後漢書」に紀元後107年に、和国から国押人大王が自ら生口(奴隷)1
60人を献上し、後漢安帝に自分が和国の王であることを認めるよう謁見したことが書かれている
。何とその年代の差は約500年も食い違う。
■武内宿祢
古代史の重要人物である武内宿祢にいたっては380歳位の生きたことになっている。他、あげた
らきりがないのでやめる。
○こども向けの推薦図書
■天武帝「帝紀編集事業」■紀元683年頃■
「記紀」がなぜ、史書として耐えられないのか。それには伏線があった。天武10年に、帝紀編
集事業が始まった。天武帝は真実に近い古代史を書かせる方針だったらしい。それは編集委員の人
選から推測できる。また編集委員は12人だった。ただそれが仇となった。各王朝の子孫が、過去
の事件記述に際し、当時の敵味方によって利害が異なり、表現に対する衝突が続いた。この対立の
中で、各委員は自分の先祖王朝に有利な史書の下書きを書いた。また最初に出雲王国史を書くべき
だ、とかれらは考えていた。しかし詳しく書くことに反対する者がいた。結局、各王朝史を一つに
まとめる事はできなかった。結局ばらばらの記述書類が残されたまま、「帝紀編集」という大プロ
ジェクトは休止状態になった。
■持統女帝の読書感想■紀元689年頃■
天武帝なきあと持統女帝の時代になった。当時は漢文が自在に、読み書きできる人は少なかった
。漢文が達者なことが良く知られていた人が、人麿だった。草壁皇子が亡くなった2か月あと、持
統女帝から人麿は召しを受けた。中国の神話の書「山海経」を読んで説明せよ、との話だった。こ
の本は世界の始まりを想像した神話が書かれていた。また古代の王や政治家たちの話に、尾ヒレを
付けた神話も書かれていた。女帝はこの本の物語を、ことのほか喜ばれた。この漢書を読み終わる
と、先帝が作らせた帝紀を読み解説せよ、命じた。帝紀は完成していなかったが、編集委員が作っ
た漢文の下書きが残されていた。それを中務省の公文書保管の係りから借り出してきて、人麿は読
みながら女帝に説明した。各委員の作った下書きを長時間かけて、あらまし読み聞いたあとで、女
帝は吐き捨てるように言われた。「何という嫌な記録ばかりですか。それらは皇位獲得にかかわる
陰謀と争いの連続ではないですか。このような物を役人や若い豪族たちに読ませるのは、有害です
。焼き捨てるがいいわ」。人麿は恐る恐る申し上げた。「これらの物は、苦労して書き続けられた
物ですので、中務省に返したいと思いますが」「それなら、そちは返すがよい。わたしから、中務
省長官に焼却を命じることにする」。人麿はそのまま、引き下がる他はなかった。
■撰善言司(よきことえらぶつかさ)■紀元689年頃■ 巻末付録資料参照
689年6月に、撰善言司を設置する、との勅令が゛発せられた。委員には事代主の子孫・伊予
部馬飼や大学頭・調老人(つきのおきな)たちが、指名された。その役目は、「善言」という題名
の説話集を作る仕事だった。史話を、良い教訓になる話に変えて書かせるのが、持統女帝の意図だ
ったらしい。そして史話はマンガのように書き変えられた。撰善言司の委員たちが、つぶやいた。
「撰言の文書を読むと、良い話だから読むのは気楽だ。しかし、実話が嘘の話に変わっている。わ
たしは善言を読むと、学者としての良心が痛むよ」そう言って自分が書いた物を、自宅に隠す者が
多かった。そのうちに、委員たちは書き渋った。仕事がはかどらないのを知り、持統女帝は撰善言
司を解散させた。この仕事は、無駄だった訳ではない。かれらの書いた説話が、後で作られた古事
記や日本書紀に入っている。
■歴史的物語
だから古事記と日本書紀は完全な史書ではなく、神話と説話と例え話が、史話のなかに半分程度
、混じっている。だから古事記と日本書紀は、図書館では史書の分類には入らず、「歴史的物語」
の分類に属する。
■不比等の提案、持統女帝の意向
和国が東洋の一流国と見なされるためには、国史をもつことが重要だと、不比等の息子・定恵が
遣唐使で外国事情を学んだあと、父に話した。それで国史製作の必要性を、不比等は持統女帝に提
案した。女帝は賛成したけれども、国史の中に前王朝を倒す権力闘争を書くことに反対した。真実
の歴史を書くには、王朝の交替とその因果関係を書く必要がある。それで、不比等も迷った。しか
し女帝の意志が固いので、不比等は正確な歴史の作成を断念した。そして万世一系方式を、提案し
た。すなわち王朝の交替を誤魔化す方式だった。前王朝打倒者を前王朝の血統者に書き変え、各王
朝を連続して一王朝とする官史を書くことで、両者の意見は一致した。また韓国の壇君伝説を真似
て、最初の王朝の始祖を神に祭り上げて、天孫降臨の話を作ることが決められた。
■こども向けの推薦図書
さらにそのほか不比等は女帝から撰善方式を指示され、約束させられた。その結果、古事記と日
本書紀は「撰善言史書」となった。「撰善言」だから、子ども向きの推薦図書には、適しているか
もしれない。しかし「記紀」には史実と異なる箇所が多数、存在することになった。だからあらか
じめ内容の詐為性を十分踏まえた上で接っしないと、とんでもないことになる。こども向けなら「
記紀」は許せるが、大人が間に受ける歴史の書ではないのである。しかし、書店の古代史コーナー
には、「記紀」の記述をそのまま引用して古代史の解説をしてる本ばかりである。だから古代史は
史実とかけ離れた話が通説になってしまった。それは虚飾の歴史を基に、本当の歴史のごとくその
まま解説するのは詐偽の洗脳行為であり、有害になる。そういう本に加担する大人は学問的責任を
負わなければならない。官史に書かれているからというのは言い訳にはならないのである。日本の
古代史学者は「記紀」研究者が多く占めており、「記紀」で神話になっていることは史実として認
めない立場であり、また「記紀」に書かれていることを忠実に考えるのが研究の第一になっており
、そのため「記紀」そのものの虚構性について疑うという考えが及ばないのである。よって日本の
古代史研究は進歩のない状態から一歩も抜け出せないのである。数年前に「古事記編纂1300年
」というイベントがあったが、そのどれもが古事記を絶賛する内容だった。それは「記紀」の和歌
はすべて人麿が書き、そのすばらしい和歌の影響が多分に影響してるかも知れない。しかし、「撰
善言」の虚構性は大人には耐えられない内容だ。まがりなりにも「古事記」、「日本書紀」は官史
なので、それに異を訴えるという姿勢は史学界にはないので、日本の古代史は「撰善言」のマンガ
のような世界がそのまま放置されることになった。
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○「記紀」で隠された、最大の「不都合な真実」
■神話の国にされた「出雲王国」、スサノオ・ニニギノにされた徐福
奈良時代に書かれた「記紀」は時の権力者が不都合な事は隠し、また史実としてでなく神話の形
を借りて話を創作した。それにより日本の古代史(紀元前500年頃~紀元後300年頃)、歴史
年表で言えば弥生時代に相当。その時代の古代史は「記紀」によりブラックホール化されてしまっ
た。現代人の古代史に関する常識も「記紀」が基になってしまった。「記紀」の最大の罪は、日本
の源流・古代史そのものと言ってよい「出雲王国」のことを神話の話に変えて隠したこと。それは
子孫が日本人の民族のルーツ・祖先を忘れる結果に繋った。もうひとつが、弥生時代の到来をもた
らした古代最大の渡来集団である「徐福集団の渡来」の史実を同じように神話の話に変え隠したこ
と。それは奈良時代の支配者であった貴族は、そのほとんどが、渡来人・徐福の子孫である物部氏
や海部氏(尾張氏)と、それと旧出雲王家の事色主の血を継ぐ子孫であった。渡来系の子孫は、今さ
ら900年前の出自・血筋・血統には、触れられくなかった。だから勝者の都合の良い官史には先
祖が渡来人であったことは隠された。都の貴族にとって先祖が渡来人であったことは隠さなければ
ならなかった。だから先住日本人の・出雲王国を徐福の子孫(奈良時代の物部氏や海部氏(尾張氏)
から見たら先祖にあたる)か゜滅ぼし、徐福の子孫がヤマトの大王(ヤマトの初代・海部王朝や、
300年頃の物部王朝)になったことなど、奈良時代の支配者/貴族であった徐福の子孫である、
物部氏や海部氏(尾張氏)にとっては不都合なことであり、隠したかった。先祖は天孫降臨したと
いう設定が一番、都合がよかった。先祖が渡来人の場合、あいまいなうやむやな話が一番、都合が
良かった。例えばハワイ王朝がアメリカに滅ばされた史実は、勝者の歴史では単にハワイがアメリ
カの州になったとしか記されないのと同様である。だから「記紀」の虚飾については支配者の腫物
に触ることに繋がるので、指摘するには命がけの覚悟が必要になる。いずれにしても、この二つの
重大な史実を「記紀」が隠したため、日本の古大史はすっぽり穴が開き、闇に葬られたままで、全
く判然としないのである。さらに明治の王政復古によって「記紀」の虚飾性ついては、政府・国に
よっても正当化され利用された。また国民も熱風のごとく歓迎し、時代の背景もあったが、それは
「記紀」の虚飾の虚構が影響を与えた部分も多少あり昭和の破滅に繋がった一面もある。そして出
雲王国は「神話の国」のまま放置にされた。日本の学者は官史「記紀」を鵜呑みにし、出雲王国は
史実に基づかない絵空事として取り扱ってきた。それは平成の世でも明治以後の王政復古に伴う呪
縛から解き放たれていない証左である。官史ということで疑いを持たないのが史学界の体質である
。そこには真実の探求という姿勢が感じられないのである。かぐや姫の作者の命がけの願いが全然
わかっていないのである。そういう姿勢は昭和59(1984)年、世紀の大発見と騒がれた、「
358本の銅剣」が見つかった神庭荒神谷遺跡から30年も経つのに、依然として出雲を語るとき
の枕詞は「神話の国」なのである。その間、史学界は何をやっていたかと言うと相も変らぬ、邪馬
台国論争・卑弥呼論争であった。これについては、巻末に説明しているので参照されたし。とにか
く史学界の出雲への無視ははなはなだしいのである。いずれにしても、日本人は官史である「記紀
」で、出雲神話の話が書かれたため、出雲はただ単に神話の話の舞台にされただけで、出雲王国が
史実であったとは思わなくなった。その結果が、日本人の起源は中国や半島から人が来て、それが
日本人になったと漠然と思うようになった。そして大和に最初の政権(裏付けとして巨大な古墳)
ができ、それが日本で最初の国造りと思うようになった。出雲王国を「記紀」が神話の話に変えた
結果大和が日本の国造りの原点と思うようになった。日本人は民族のルーツ・祖先を忘れることに
なったのである。徐福渡来のことは、各地に徐福の伝承があるため、徐福伝説という話を聞いたこ
とがある位の認識になった。「記紀」の罪は日本の国の初期を隠したために、子孫は国の成り立ち
を忘れてしまう結果を生んだ。それは、日本人は民族のルーツ、国としてのルーツを忘れることに
繋がった。また歴史=正史は、渡来人の光と影を隠した。それは稲作の伝来、文化向上で大きな役
割を果たした渡来人の功績を歴史から消してしまった。奈良時代では書けなかった事情もあるかと
思うが、今の時代であれば、ちゃんと中国人・秦人・ユダヤの子孫のかれらを評価すべきだと考え
る。
■スサノオの名前の由来(神話にされた出雲での徐福)「記紀」が創作した名前
国史製作の折、出雲王国の史実の抹消案を要望し、代わりに出雲神話を作った○○が、出雲神話
で徐福のことをスサノオという名前に変えた。なぜ変えたのかと言うと、徐福の名をだすと、出雲
人が昔、出雲王国時代に徐福がした悪事を思い出す恐れがあっったからだ。また○○の祖先○○は
、徐福の忠実な部下だったからである。日本書紀の神代八段第五に、「スサノオの子の名を五十猛
(香語山)と言う」とあり、後者は徐福の長男だから、スサノオとは「記紀」が名づけた徐福のこ
とだと、わかる。渡来してきた徐福の実家は、中国のシャントン半島にあったが、その一族は蘇州
にも移住し発展していた。蘇州の漢字の前後を逆にすると、「スサ(州蘇)となる。この地名に基
づいて、スサノオという名前を作った。「オ」は、「男」の意味だろう。尚、徐福は出雲では和国
風な名前として火明(ホアカリ)を名乗る。
■徐福は道教の方士(道士)であった。中国の道教というのは、ユダヤ教とそっくりで、その特色
は仙人崇拝と北極星礼拝がある。この教えは方士・徐福が、はじめて和国に伝えた。それで各地の
山に「仙」の字のつく名がついた。出雲での徐福・ホアカリ(火明)は道教の方士(ほうし)であ
ったから、童男童女を夜に山頂に導き、仙人を尊ぶことを教え、道教の星神を拝ませた。仙人を意
味する「仙」の字が、かれらが登った山の名に付けられている。
■ニニギノの名前の由来(神話にされた九州での徐福)「記紀」が創作した名前
九州に再来日した徐福は、和国名をニギハヤヒノと名乗った。子孫は物部氏を名乗る。