国家最大のタブー -3ページ目

国家最大のタブー

かぐや姫のおとぎ話には子孫に気づいて欲しい暗号が隠されてた。

◇◆◇◆◇◆たたら製鉄◇◆◇◆◇◆◇◆
◇◆◇◆クラウドファンディング◇◆◇◆


■出雲の「黒い川」

 本州に渡たり、東北地方に住んだ後、移住者は分かれて行った。クナト王の子孫は日本海沿岸を
南に移動し、最後には出雲の地に住みついた。暖かい関東平野や濃尾平野があるのに、なぜ雪深い
寒い出雲に住んだのか。その訳は「出雲に黒い川があったからだ」と伝承は述べる。黒い川とは、
現在の斐伊川のことであろう。その川底や河原には砂鉄がたまり、黒く見えることがある。古代に
は砂鉄がもっとも重要な産物だった。斐伊川は「聖なる川」としてあがめられた。その川には、「
ゆまり」(小便)をするのも禁じられた。「鉄は国家なり」と言われるが、古代でも国家の繁栄を
左右していた鍵は鉄だった。石器から鉄器の時代になると文明は飛躍的に発展する。自然に川底に
たまった砂鉄は「川粉(かわこ)ガネ」と呼ばれた。、タタラはドラビダ語で「猛烈な火」を意味
する。日本で最初に行われた製鉄は、「野たたら」と呼ばれた。このような鉄の低温精錬は、古代
にオリエント地方でも行われたことが知られている。出雲王国は「鉄器の国」とも呼ばれた。それ
は明治期の西洋の近代的製鉄が導入される江戸時代まで「たたら製鉄」は日本の鉄の総生産の80
~90%を担っていた。尚、クナト王の子孫は、イズモに住み着いた。インドの熱帯では、常緑樹
が濃緑色にしげっていた。それに対し、新しい土地では、春に芽が出た森の色が、目にしみるよう
に美しく感じられた。かれらはその色をめでて自分たちの地方を「出芽(いずめ)の国」と呼んだ
。その発音が変化して「出雲の国」になったと伝わる。


■野だたら◇◆◇◆クラウドファンディング◇◆◇◆

砂鉄「川粉(かわこ)ガネ」と呼ばれたが、それだけでは足りなかった。
 山の真砂(まさ)・(花崗岩が風化したもの)がくずされて、「鉄穴流し(かんなながし)」が行わ
れた。それは真砂を溝に流して、砂鉄を選り採る方法である。奥出雲山地の真砂砂鉄は、チタンな
ど有害不純物が少なく、低温精錬が容易で還元性に優れている。そして雨が長く降らず土が乾燥し
た時季に、奥出雲の山地で風の強く当たる傾斜地にね直径70センチほどの深い穴が掘られる。そ
こには火が焚かれ、木炭と砂鉄が交互に入れられる。そしてタタラの横の小穴から、強風を吹きつ
ける。この作業の指揮者を、炭坂と呼ぶ。温度が七百度以上になると、タタラの底かの穴からズク
(銑)を取り出すことができる。このような鉄の低温精錬は、古代にオリエント地方でも行われた
ことが知られている。そのタタラの横穴からは、金くそも取り出す。これは不純物のチタンなどが
、粘土と化合したものである。長時間の加熱の後に、野ダタラの穴はこわされる。そして、底に固
まった円盤状のケラ(鉧)を取り出す。それは上質なケラで、刃金の材料になった。それで、ウメ
ガイと呼ぶ両刃の小刀が作られた。野ダタラ製鉄は、江戸時代まで行われた。鳥上山の上に周辺に
は、多くの野ダタラ跡があった。捨てられた金くそが散らばり、タタラで使った木炭の破片が土の
上にこぼれている。つぎに、大鍛冶場が造られる。土の湿気を除くために、地面を煉瓦のように焼
く。その上に粘土で炉を築く。炉の横には羽口が付き、そこから吹子で風を入れる。そのタタラで
、野ダダラから出た鍛鉄を加熱して脱炭し精錬する。つぎに小鍛冶場で、脱炭したり浸炭したりし
て、鉄製品を作る。だから製鉄加工遺跡は、野ダタラと大鍛冶場と小鍛冶場の三種類に分けられる
。出雲の砂鉄の出る山地と野ダタラの穴を作る土地を所有し、製鉄と鉄器生産を支配していたので
、古代出雲王はオオナモチ(大穴持ち)と呼ばれたと言う。津軽の岩木山方面に金屋子神がまつら
れているが、鉄の作り方を大国主が教えたとの伝承がある。和国の弥生遺跡からは、鉄製品ととも
に鉄器で削られた木製品が数多く発掘されている。遺跡の年代測定は、国立民族博物館の春成教授
らにより、精度の高いAMS法が行われるようになった。すると、弥生時代の遺跡は従来の推定と
は異なり、歴年代(実年代)が約五百年も古いことがわかった。中国で最古の鉄製品は、西周末の
遺跡から出土した鉄剣である。新しいAMS法での測定によると、福岡県の曲り遺跡の実年代は紀
元前900年となった。その結果、そこから出土した鉄製品が中国出土の鉄製品より古いことにな
った。これは、和国の鉄の生産と使用が、中国の影響によるのではなく、インド方面から直接に和
国に伝わったことを意味している。明治期の西洋の近代的製鉄が導入される江戸時代まで「たたら
製鉄」は日本の鉄の総生産の80~90%を担っていた。「野だたら」の伝統はその後、途絶えて
しまったが、日本刀の原材料として欠かせないということで現在は日本刀の伝統を守るために、日
本刀保存協会の資金援助のもと、「野だたら」の伝統が復活している。現在の最先端の鋼(はがね
)生産技術をもっても、原始的な「野だたら」で作られるカネ・鉄(はがね)の品質には、およば
ないとのことで日本刀保存協会が、日本刀の伝統を守るために、「野だたら」の支援、援助してい
る。尚、「野だたら」でできるハガネの原料は新日鉄住金、日立金属でもその品質は作れないとの
こと。原始的だが最先端技術でも作れないものである。本来であれば、国からの支援があってしか
るべきであるが、一切国の支援もなく、日本刀保存協会の支援、援助だけで、かろうじて現状、細
々と伝統が維持できている。いつ資金難とかで伝統が途絶えてしまうことを憂慮すれば、一刻も早
く幅広くクラウドファンディングにより、浄財を集めて、「、野だたら」の伝統の維持に留まらず、
世界最高峰のハガネとして、ドイツのゾーリンゲンを超え、積極的に最高級の医療用メス、最高級
のハサミ、最高級の包丁等、汎用品でなく高級品であらたなニーズをつくっていきたい。そして「
野だたら」を現在でも経済的に儲かるものとして、復活させ地域経済に貢献できないかと考えてい
ます。それが「野だたら」をした先祖への恩返しではないかと思います。ご賛同いただける方は、
ご連絡ください。

和国で最初に鉄生産「野だたら」が行われ文明のブレークスルーがおき、繁栄したのが出雲王国で
ある。その名ごりを残すものとして、●「金屋子(かなやご)神社」製鉄や鍛冶の神様で、同名の
神社は全国に千二百社もあり、ここがその総本社。製鉄・冶金関係者らが現在でも数多く参拝して
います。他に●「和鋼博物館」、●「鉄の歴史博物館」、●「野だたらと白椿の里」、●「奥出雲
とたたら刀剣館
」、●「たたら角炉伝承館」、●「鉄の未来科学館」●「金持神社」等があります
。明治期の西洋の近代的製鉄が導入される明治初期まで「たたら製鉄」は日本の鉄の総生産の80
~90%を担っていた。「野だたら」の伝統はその後、途絶えてしまったが、日本刀の原材料とし
て欠かせないということで現在は日本刀の伝統を守るために、日本刀保存協会の資金援助のもと、
「野だたら」の伝統が復活している。原始的な「野だたら」で作られるカネ・鉄(はがね)の、そ
の品質は、現在の最先端の鋼(はがね)生産技術をもってもかなわない。


■出雲王国の風景

 出雲の北部には、島根半島がある。その半島は天然の防波堤であった。王の海は波静かで、その
岸は良い港となった。誤解が多いが王国の都は現在の松江市である。そこに国の内外から交易の舟
が来た。出雲の輸出品はカネと首飾りに使われる玉類であった。勾玉も韓国人が高価で買い求めた
。特に鉄は各地の人々に重宝され、買いに来る人々で出雲(松江市)の港や村は賑わった。景気が
よかったので毎日、景色の良いところで老若男女が昼間から宴会を開いていた。出雲では庶民は労
役を課せられることもなく、厳しい年貢もなかった。それがDNAに刷り込まれていて今も、エビ
スさん、ダイコクさん信仰が続いているのかも知れない。出雲で採れる良質の砂鉄と鉄製品は各地
から求められた。豪族たちが最も欲しがったの鉄器は、槍の先に付ける双刃の小刀であった。それ
はウメガイと呼ばれた。それで木を削って木製品をつくるために、日用品としても、使われた。イ
ズモ族はインドでの風習であった祭りを、各地で続けていた。春分の日に春祭りを、秋分の日には
秋祭りを村中で行った。それは年2回の待ちに待った祭りだった。メインは歌垣で、それはあとの
お楽しみ付の合コンのようなものだった。現代人は紀元前200年頃の事代主がいた時代を想像し
ずらいと思うが、胎児の形の勾玉を造るには、その曲線の多い胎児形に石を加工する技術ならびに
、また勾玉に糸を通すために穴を開けなければならない。そのためには穴を作るには鉄の錐(きり
)が必要だ。石を加工して胎児形の勾玉を造るのは、現代でも容易ではない。紀元前の出雲王国に
は、現代でも難しい技術をもっていた文化の発展していた国だった。その名残が松江市に玉造り温
泉とか勾玉づくりとして残っている。



■世紀の大発見358本の出雲型銅剣-神庭荒神谷遺跡-吉備・出雲戦争が原因 昭和59年発見
■埋納された理由のひとつは奥出雲の良質な砂鉄が狙われた

紀元後180年頃、ヤマトの内紛からフトニ王がヤマトを飛び出し、出雲王国領であった、吉備を
占領し吉備王国を成立させた。そして吉備から出雲に二つの要求があった。その一つは、出雲の仁
多の群と飯石の群を吉備王国に譲ることであった。仁多と飯石の奥出雲は和国でも最も良質な砂鉄
がとれる産地であった。二つ目の要求は、すべての銅剣を吉備王国に渡せ、というものだった。出
雲の二王家はすぐさま協議し、この要求には応じないことを決めて通知した。結果は怒涛のごとく
の吉備兵士の侵攻があり、奥出雲に敵が侵入する段階で出雲の両王家は対応を協議した。神門王家
は銅剣を渡す条件で、休戦交渉に入ることを提案した。向王家はそれには反対で徹底抗戦を主張し
た。妥協には至らなかった。それで、これからは相手の王家の方針には、干渉しないことを決めた
。両家は古くから協力していたから、完全に別れることは望まなかった。しかし実質的には、その
時点で出雲王国は東西に分裂した。両家はそれぞれ。独自の外交を行うことになった。対外的には
一つの王国であるが、外務大臣が二人いるような状態だった。向家は銅剣を構成員に配ることをや
め、すべての出雲型銅剣344本を、神に守って貰うために、神庭斎谷の地下に隠すことになった
。神門王家はは所有する出雲型銅剣を、吉備王国に差し出すつもりであったが、銅剣そのままを渡
すのは、自尊心が許さなかった。それで融かして、インゴットにすることになった。両王家は領地
の境である、神庭斎谷に集まった。そして以前に銅矛と銅鐸を埋納した斜面の左側に埋納した。向
家所有の銅剣には、×印が刻まれた。それは、向王家の「銅剣交差紋章」の形であった。神門家で
は、所有するすべてを融かす予定であったが、14本を神門家の守護を神に頼むために、一緒に埋
納することになった。最終的には、合計358本が埋納された。銅剣を埋納した斜面の谷底では、
坩堝炉がつくられ、その中に神門家の銅剣が入れられた。融解された銅剣が冷えた頃、陶土の炉が
壊された。中から、ただの塊となった青銅が現れた時、見守っていた人々の目からは涙が流れた。
尚、桃太郎の鬼退治の話は、吉備・出雲戦争で猛攻撃した吉備津彦の子孫が、先祖が出雲を攻めた
とを、正当化し誤魔化すために、おとぎ話を作った。鬼の名を温羅(うら)となづけているが、そ
れは裏日本の出雲を指す。現代人はそれを忘れて、吉備・出雲戦争の激戦地の鳥取県溝口町では、
「鬼の里」として観光にしている。吉備人に先祖・出雲族が言われのない鬼扱いにされ、その上に
またそこで戦士した多数の出雲兵のことを考えれば、現代の大人が歴史を知らないということは、
先祖不幸な悲しいことである。