香港ドール10 | 秘密の扉

秘密の扉

ひと時の逢瀬の後、パパとお母さんはそれぞれの家庭に帰る 子ども達には秘密にして

「モーニン」私は男に向かって笑顔を向けた。

あぁ、本当に来てくれて嬉しい。死ななくて済んだのだ。目が見えなくても、閉じ込められていても、生きていられるというのはホッとするものだ。
カサカサとビニールの音がして柔らかなものが私の手に押し付けられる。

三角形の包みは、もしかして…
サンドイッチだ。
中華風でないものは本当に久しぶりで、嬉しくなってビニールを引きちぎるようにして齧り付いた。なんでもない普通のサンドイッチが懐かしい。チーズが入っている。トマトも挟んである。


向こうではごとんと重い音がして何かが注がれている様子にそうっと手を出してみる。
手に触れたプラスチックのコップに重みがあって、並々と注がれたコップを口元に持っていくと、オレンジジュースの芳香が私の鼻腔を満たす。なんと爽やかな香りなのだろうか。口に含んでゆっくり味わう。ただのオレンジジュース。別段飲みたかったわけではないけれど、久しぶりの味に心が躍った。
「ありがとう、とぉちぇ、多謝」
私はコップに鼻を突っ込んで匂いをかぐ。大きく息を吸い込む。
「いい匂い」
思わず笑顔がこぼれる。男の立ち位置と思われる方向に向かって笑ってみせた。


いつも男は朝来ないのに今日は随分とゆっくりしている。
「今日はお休みなの?」
相手の沈黙にも構わず話し続けた。男と一緒に黙っていたら、頭がおかしくなりそうだ。
「ねぇ、あなたは一緒に食べないの?」
男はいつも私に食べさせるばかりだ。
「今日はお休みなんだったら、今日はずっと一緒に過ごすの?」
「ねぇ、どんな仕事をしているの?」
聞きたいことはそんなことではなかったが、聞いても答えてもらえないせいか、私はどうでもいいことばかり聞いていた。

男はテーブルの上を片付けだして、しゃべり続ける私の手を引いてベッドの上に座らせた。なにやら向こうでガタゴトと音がしていた。
一瞬なにやら静かになると突然ピアノの音がした。モーツアルトのピアノ曲だ。ソファの前に移動してテーブルの上を調べてみるとポータブルのレコードプレイヤーの上でLPレコードが回っていた。テーブルの上にはまだ何枚かのレコードがあり、何曲も聴くことが出来るのだろう。
「嬉しい!
とぉちぇ、多謝」
言ってみるものだ。行動してみるものだ。返事が無いからと諦めてしまっては何も変わらない。


その日、一日中二人で音楽を聴いて過ごした。すべてクラッシックだったけれど、香港の歌謡曲などを持ってこられるよりよっぽど良かった。
「ねぇ、モーツアルトが好きなの?」
沈黙。
「ピアノ曲だったらショパンもいいよね」
沈黙。
それでも私は笑顔でいたはずだ。耳に快い音楽。踊る音色、変化するリズム。その至福、喜びは暗闇と静寂の世界に慣れてしまっていた私に、光となって煌めいていた。レコード盤の縁から手探りでそっと針を落とすやり方にもすぐ慣れた。
「ねぇ、レコード持って帰っちゃう?
ずっと置いといてくれる?」
無言。
夕飯時になると、男は出かけて、すぐに戻り、なにやら焼きそば風のものと、酢豚のような味付けのものを買ってきた。初めて私に箸が渡された。
「自分で食べていいの?」
無言。
男が取り分けてくれた紙皿を手にとって食べ始めた。始めの頃はちゃんと口に入ったが、皿が空になりかかると、、目が見えないせいか、上手くソバを掴めない。
「くくっくっくっ」
男が笑う声がした。どうやら見当違いのところを探っているらしい。ちょっとムッとしながら、それでも男が反応してくれたことが嬉しかった。ソバを皿の中央に向かって丁寧に箸で寄せて食べた。


目の見えないことにはこれから少しづつ慣れていくのだろう。何より男の行動が謎めいていて、これからのことはとても不安だったけれど、相手の耳が聞こえないと思えばいいのだ。どちらにしても言葉が通じないのだから同じようなもの。目が見えない私と、耳の聞こえない男。似合いの取り合わせではないか。


食事を終えると男はいつものようにティッシュで私の口元をふき取ってくれる。もう少し経ったら入浴の時間になるだろう。そうしたらまた二人の間の緊張感が高まりそうな気がして、少しの間ベッドの上に寝転んで今の状況を少し考えてみることにした。
私がここにいる理由のことだ。


 A 男の背後に誰かいる。つまり男は私の世話係である。
 B 男自身の意思で私を囲っている。


Aの場合は男は私に手を出すことを許されていないのだろう。なので入浴は一種の越権行為に近い。
口を利かないのは余計な情報を私に与えないためだ。あるいは親しくなって情を移したくないため。
男が私を抱いたところで、私はそれを背後にいる誰かに知らせる術を持っていない。

逆に背後にいる誰かが出てきたときに、男との入浴を英語か何かで後から私が伝えることだって出来る。なんだかその辺が中途半端だ。
ちょっと待て、だったらなぜ世話係を女にしないのだろう。そのほうが自然ではないか。
分からない、あぁ、分からない。


Bだとすると何か時期を待っているのだろうか。だとしたら何の時期を。
理由が男のほうにあるのならそれは全く分からない。
理由が私にあるとしたら…考えたくないことだけれど、今では売春宿で何か病気を貰っていないか、それはずっと気になっていた。

一応避妊具をつける決まりになっていたが、それは男たちの意思に委ねられていた。下着の類は朝にはいつも無かったから洗ってくれているのは男なのだろう。そういったもので何か判断をつけようとしているのだろうか。それもなんだか想像したくない。
男自身の意思だとしたら、なぜちゃんとコミュニケーションを取らないのかそこが最大の疑問点になる。

香港ドール11へ