美は乱調にあり | 秘密の扉

秘密の扉

ひと時の逢瀬の後、パパとお母さんはそれぞれの家庭に帰る 子ども達には秘密にして

去年正邪を判断して生きることを棄てた。


正義という概念は力によって成り立つものだし、それは環境や力のバランスによって絶えず移り変わっていくもの。
そんな曖昧なものを自分の規範にする違和感に耐えられなかった。
けれど今度は自分の規範をどこに置くかという問題になってくる。結局それは美学、美意識と呼ばれるものがそれに変わるわけである。
自分自身の美意識によって立つ。


共同幻想的な正邪で自分を縛る代わりに、移り変わっていく自分個人の感覚がそれに変わる。それはやっぱり曖昧かもしれないけれど、少なくとも規範は自分の内側にあるのだ。
正しい、間違っている。それを自分や他人に向けて発するとき、目に見えない一般や常識という力の元に縛り付ける一種の暴力的な行為だと思う。まず自分がどうしたいか。それを大切にしていきたいと思うのだ。
それはあくまでも自分の美学であり、他の人には他の人の美学が存在するであろう。


私はキリスト教徒の家に育った。だから幾分メンタリティが他の人と違うのかもしれない。一神教では神対個人の関係が強調される。信仰を持たなくなっても日本のような周囲との関係に根ざした曖昧さはどこか不可解だった。
和することと日和見、妥協と調和はどう違うのだろうか。私はそれがいつも理解できない。

それは純粋に対する青臭い憧れなのかもしれない。


先日、伝統的な日本の美意識の象徴として「風姿花伝」を引いた
「秘すれば花、秘せねば花なるべからずとなり。この分目を知ること、肝要の花なり」
その思想は確かに美しいと思う。人は一人では生きてゆけないのだから。私たちは周囲との調和とバランスで成り立つものなのだ。けれど自分が大切にしたいものを大切にするときに生まれる摩擦にどう対処していったらいいのだろうか。


わたくしは誠実でありたいと思う。自分にも相手にも誠実でありたいと願う。そうすることできっと軋轢を生んでいくのだろう。何よりもそれを恐れる。
恐れるけれど、きっとそれは私自身が乗り越えなくてはならない問題なのだろう。
自分の美学に則って生きていくなら私は「和」よりも「誠」に殉じたいと思う。自分の誠がいつか「和」していくことを願って。
「美は乱調にあり」 と喝破したのはアナーキストの大杉栄だ。
それもまた私は真実に近いものだと思う。だから強く、もっと強くありたいと願うのだ。自分が、自分らしく生きていくために。


茶室に活けられた一輪の紅い朝顔 を、秀吉でさえ美しいと思ったのなら、それはそれである種の普遍性でもあり、可能性であるとも思う。そしてそれは世阿弥の美学の真髄でもあるのではないだろうか。