茶道のとある流派の先代お家元の中澤弘幸さんという方が、動画の中で差別意識について素晴らしいお話をされているので書きたいと思います^^

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東京パラリンピックで手のない選手が優勝し、

インタビューで喜びの声のあとに、
「自分の障害を受け入れるのに、ものすごく時間がかかりました。」と言った。

つまりその選手は、自分の障害に対する差別意識を持っていたのです。
それを受け入れたということは、やっと自分への差別意識をなくしたということ。
そのことが大事なんです。

自分の障害を受け入れられないことは、悪いことではない。

しょうがないこと。
自分が自分を差別していたことを乗り越えることができて、
だからこそ人として誇り高くメダルを獲得できた、
最高にハッピーな今がある、と彼は言っている。
それを聞いて私たちはすごい、と思えるわけなのです。
 

人の存在は差別意識から始まっていく、ということを彼が話している。
そういうことを我々が聞き取れているか、ということが大切。

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ざっとですが、以上のような内容だったと思います。

私も同様の経験があり、とても共感しました。
子供が突然重度の障害を負いましたが、
子供を愛おしく思う一方で、
子供の障害が受け入れられず、恥ずかしいと思ったり、人目を気にする時期がありました。
つまり障害に対する差別意識が私にありました。
そして当時は、そんな自分に対して、
「我が子の障害を恥ずかしいと思う私の方が恥ずかしい」

「子供に対して失礼だ」
「そんなことを思う母親は失格」

などと自分を裁いていました。

その差別意識をどう克服できたかは、一言で言い表せませんが、
目の前にいる子供の命の素晴らしさを感じたり、
成長に感動したり、
親同士で泣きあったり、
療育の先生に勇気をもらったりしながら、
日々の生活のなかで少しづつ癒されていったように思います。

何年もかかりましたが、
じわじわと自分の差別意識が解けていき、
障害のことで、自分も他人も裁いたり攻撃しないようになりました。

『障害は、「障がい」と書くべき』とか、いわゆるポリコレとか、うわべのことは正直どうでもいいと思えます^^
差別があるのに、差別がないかのようにうわべを取り繕っても、何も本質的なものはうまれません。

差別はある、という土俵に立つのはとても勇気がいりますが、
そこから本当の愛や調和がうまれるのではないかと思います^^