昭和63年5月、近鉄バファローズの超優良助っ人リチャード・デービス外野手が大麻所持で逮捕されました。
当然球団側は即刻解雇!
当時の報道を見た私はショックでしたね。
掛布選手が飲酒運転で逮捕された時はまだ「謹慎処分程度で済むだろう」と思いましたが、デービス選手の場合はフォローのしようがないから・・・
その上『大麻の所持、自宅マンションでの栽培』ですからね。
近鉄はデービス外野手の代役として、中日の二軍で燻っていた、その年中日に入団したばかりの新外国人ラルフ・ブライアント外野手をトレードで獲得。
その年の中日は「投手:郭源治(ストッパー)」「野手:ゲーリー外野手」で一軍枠が埋まっていたが為に、一軍で起用できる見込みのないブライアントを金銭トレードで近鉄に譲渡した・・というのが事実のようです。
しかし、当時の仰木彬監督と中西太コーチはブライアントの打法は確実性がない(三振が多いアッパースイング)一方、長打力は抜群なのでどう指導しようか?と迷ったとのこと。
そこで、二人は「ホームランバッターは多かれ少なかれ多く三振を記録する。ブライアントだってそうだ。ここでもし、ブライアントに三振を減らすようなバッティングを教えたら、彼の最大の魅力である「長打力」が生かせなくなるし、彼は単なる平凡なバッターで終わってしまう。三振が多いのには目を瞑り、豪快なアッパースイングを生かして、パリーグの投手に合わせられる様に打撃を教えてやってくれ、と言うことになり、中西コーチと当時の打撃コーチでアッパースイングを生かした、ブライアントに合う打法を教え込みました。
その結果、彼は7月にデビューしたのに、シーズン終了までの三ヶ月間で何と「34本」もの本塁打を記録!
(これは一シーズンあたりの本塁打数に換算すると「60本塁打」を軽々と超えます!)
この年の活躍でブライアントや一躍近鉄の主力打者の仲間入りを果たし、平成元年の西武球場でのダブルヘッダーではこんな奇跡を起こしました→ココをクリック!
その年は大活躍が認められてパリーグMVPを貰った。
その後も近鉄の主力打者として長年に渡り活躍したが、’95年にケガで途中帰国するとそのまま退団。
大選手の割には実に寂しい退団劇であった。
もし、デービスがあんな事をしていなかったら、もしブライアントがあのまま中日にいたら、彼は大選手になっていなかっただろうと思います。
仰木彬監督&中西太コーチとの出会い&指導があったから、ブライアントは球界を代表する助っ人外国人野手になったと私は思っている。
ラルフ・ブライアント、夢や感動をありがとう!