2014年2月14日午前9時半ころ/シグマDP2にて撮影
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)
というブログを、最近開きました。本ブログと内容的に同じものと違うものとがありますが、ギャラリーの背景が白いフレームになってるので、画像が一層クリアーで見やすく、画像のサイズも大きいので、オリジナルの画像に近い形で鑑賞いただけます。ぜひご覧になってください。
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今月23日(日曜)の午後2時から、松山市の子規記念博物館で、私の講演会があり、「正岡子規、従軍す」というタイトルで約1時間半、講演をしてきました。
この演題は、3年前、平凡社から刊行された拙著『正岡子規、従軍す』からそのまま取ったもので、明治28年4月10日、正岡子規は、胸の病(肺結核)を再発させるだけだからという周囲の反対の声を振り切って、なぜ従軍したのか。それも、旧藩主から拝領した刀を一本刀に背負い込み、まなじりを決して、「いざ行かん筆の花散るところまで」などと、悲壮な決意を短歌に詠み、「敵を切って、切って、切り殺せ。それでも切りつくせなかったら、潔く腹を切れ!」などという物騒な新体詩まで書き残して、近衛師団付の従軍記者と して遼東半島に渡って行ったのか。そして、そのことが結果として、その後の子規文学の展開に対して、さらには日本近代文学の成立と展開に対していかなる意味を持つか……など、近代文学の根底に蟠る謎について、『正岡子規、従軍す』の記述に則して話をしてきました。
内容が相当固い話なので、どれだけ聴衆が集まってくれるかちょっと心配でしたが、さすが子規を生み出した松山だけあって、300人を越える市民が集まり、熱心に話を聞いてくださいました。
講演を進めるにあたっては、わずかに33日間といいう短い期間ではあったものの、子規が実際に歩き、その眼で見た遼東半島の中国の、子規の形容を借りれば、「兀(はげ)山は笑う すべさえなかりけり」といった広大無辺、荒涼たる風景と風土が、いかに日本の「箱庭的」自然と異質で、過酷であったかを理解してもらうために、日本で最初の従軍カメラマンとして、森鴎外が軍医部長を務めた第二軍医に従軍し、戦場取材を行った旧津和野藩主の亀井玆明伯爵の従軍写真集『日清戦争従軍写真帖』から取った画像をスクリーンに映し出し、この過酷な体験を命と引き換えに乗り切り、全く異質な世界(中国)の大きさ、広さ、深さ、厳しさを自身の内側に取り込んだことが、そのあとに続く3年余りの「六尺の病床」における、壮絶な死との戦いを勝ち抜き、あれらの膨大な子規文学を書き残すことを可能にした、という観点で話を進めました。
ところで、子規が、明治28年の秋、松山での漱石との愚陀仏庵での同居生活を経て、精神的に立ち直り、東京の根岸庵に帰って行った年の翌年の29年に「洪水」という大変長大な新体詩を詠んでいることは、子規研究者のあいだでもほとんど知られていません。これは、この年、三陸地方を襲った大津波(3.11の大津波とほぼ同じ規模)を、明治維新以降、薩長藩閥政府が行った悪政がもたらした祟りであるとし、山の神と川の神が自然を破壊してやまない明治の文明開化と都市化、工業化の行き過ぎを懲らしめるために、雨の神に頼んで、大雨を降らせ、大洪水を起こしてもらうというもので、正に3.11を予言したような、恐ろしくも物すごい詩です。小生はこの詩を今回初めて読んで、子規の新 体詩が21世紀を先取りしている ことに、驚嘆させられました。この時期、子規は「病の窓」という、「洪水」ほどは長くないのですが、これも凄まじい新体詩を作っています。ぜひ読んでみてください。
講演会では、最後の部分で、この「洪水」を取り上げ、正岡子規は、詩人の直感で21世の大破滅を見通していた。しかも、「6尺の病床」に拘禁され、病苦に耐えながら、身の回りの狭い生活空間の中に、無尽の美と喜びと、幸福を見出し、俳句を詠み、短歌を詠い、写生文を書き、草花や果物の絵を描き抜いた子規の生き方は、正に3.11以降、日本人に求められている、電気、石油エネルギーの消費をできる限り抑え、身の回りの生活空間の中に生きる喜びと幸福を見出して行かなければならないという、人間としての基本的生き方の大転換を先取りしたものである。そうした意味で、子規の文学は21世紀の今こそ全面的に読み返されなければならない……という趣旨で、話をまとめたところ、 聴衆は大変心を動かされたようで、講演終了後、涙が出てきたなどと言ってくれる人もあり、苦労して子規を読み込み、『正岡子規、従軍す』を書き上げた甲斐があったと思った次第です。
ちなみに、このブログで、身の回りに咲く花の画像を紹介するようになって5年ほどになりますが、自分が、花を通して何を表現しようとしているのかがはっきりとわかり、画像の質が飛躍的に進化し、自分以外にこういう花の写真を撮っている人間は他にいないと思えるようになったのは、忘れもしない、3年前のあの東北大震災とそれに次ぐ原発事故の前の日、すなわち3月10日に、梅の花を水に浮かべて撮ったときからでした。
なぜ水に浮かべたのか、今もって分かりません。何か自然の呼び声を聴いたからという風にしか答えられません。以来、私は、ほとんど毎日のように、家の周囲に咲く花を撮り続けているわけで、それは、子規ほどに狭く限定されたものではありませんが、エネルギーの消費を最小限に抑えて、身近な世界の中に「美」を発見し、ビジュアルなイメージとして表現するということでは、「六尺の病床」に身を横たえ、花や野菜、虫や鳥を「写生」し、俳句を詠み、短歌を詠った正岡子規がやったことと重なっているように思います。
そんなわけで、正岡子規が21世紀の今、生きているとしたら、何をしているだろうかということに思いをはせて、これからも花の写真が撮り続けていきたいと思います。
さて、しばらく画像の更新ができない状態が続きましたが、今日から再開したく思います。最初は2週間ほど前、雪が降った日に竜安寺で撮った石庭の画像です。お楽しみください。
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2014年2月14日午前9時半ころ/シグマDP2にて撮影
2014年2月14日午前9時半ころ/シグマDP2にて撮影
2014年2月14日午前9時半ころ/シグマDP2にて撮影
2014年2月14日午前9時半ころ/シグマDP2にて撮影
2014年2月14日午前9時半ころ/シグマDP2にて撮影
2014年2月14日午前9時半ころ/シグマDP2にて撮影
2014年2月14日午前9時半ころ/シグマDP2にて撮影
2014年2月14日午前9時半ころ/シグマDP2にて撮影
2014年2月14日午前9時半ころ/シグマDP2にて撮影
2014年2月14日午前9時半ころ/シグマDP2にて撮影
2014年2月14日午前9時半ころ/シグマDP2にて撮影
2014年2月14日午前9時半ころ/シグマDP2にて撮影