前回のブログ投稿からほぼ一年経ってしまったが、久しぶりに自閉症およびAPDに関連したことで気になったことがあったので、記事を書くことにした。

 

今、アカデミー賞授賞式でのロバート・ダウニー・Jrの態度が「アジア人差別」として物議をかもしている。

前年受賞者のベトナム系俳優キー・ホイ・クァンからトロフィーを受け取る際、クァンとは視線も合わせず、握手もせずにトロフィーを受け取った後、クァンの横に並んでいた白人俳優とは握手を交わした…というものだ。

 

その後、様々なSNSで、アメリカ在住、または留学や旅行で訪れた日本人から、自分もアメリカで白人に無視をされた…という体験談が次々に投稿されていた。

 

一方私はといえば、これまで酷い差別をされたことはないと信じていた。

私が住んでいる地域は移民も多く、アジア人など珍しくないので、地元の人も外国人の扱いに慣れており、そのためよほど国際化の波に乗り遅れた差別主義者でもない限り、アジア人を差別することなどないだろうと思っていたのだ。

 

だが、上記のようにSNSに投稿された日本人からのメッセージには、自分が今まで感じてきたことと共通する体験が綴られていた。

というのは、「いないことにされる」というものだ。

実はこれは私が常日頃から感じていたもので、確かに集団の中にいても、白人同士は楽しそうにおしゃべりしているのに、誰も私には話しかけてこないということがよくある。

 

しかし、自閉症および聴覚情報処理障害(APD)故に、日本にいたころから友達もなかなかできず、いじめられた経験もあり、加えて英語が母国語ではない私としては、これは周囲も私が人づきあいや会話も苦手であることを雰囲気で察しているからだと思っていた。

もっと自分から心を開いて、相手と目を合わせることが自然にできるようになれば、周囲の態度も変わってくるのかな?という程度に考えていた。

まさか自分がアジア人だからだとは考えてもみなかったのだ

 

そして、そういう態度を取る白人たちも、故意に意地悪をしているようには見えない。

まるで私が透明人間であるかのように、存在を意識していないような態度を、嫌みなく自然に取るのである。

恐らく本人たちもアジア人を差別しているという意識はないのだろう。

 

私の場合は日本で生まれ育ち、成人後に渡米した生粋の日本人なのだが、これがアメリカで生まれ育ったアジア系アメリカ人ならどうなのだろうか?

やはり同じような「差別」を受けるのだろうか?

 

今回の件で、自分も実は差別の対象になっていたかもしれないことに気づき、何だか悲しい気持ちになった。

だが、それ以前に、冷たくされることが日常茶飯事だった少女時代を生き抜いてきた結果、生きづらさという感覚が麻痺していたことに、改めて気づかされたような気がする。

 

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久しぶりのブログ投稿になるが、実は最近出張で日本に帰っていた。

仕事だったので、当然訪問先があったわけだが、ここで問題だったのが、訪問先との食事をどうするかだった。

前にも書いたと思うが、私はもうかれこれ10年ほどベジタリアンを続けており、特にパンデミックが始まった頃からは、動物性食品を一切摂らないビーガンである。

アメリカでは、最近出身国や宗教に関係なくベジタリアンやビーガンも増えており、ほとんどのレストラン(少なくとも都市部では)にはベジタリアン向けメニューもあるが、日本で育った私は、日本では「好き嫌いせず何でも食べること」が今でも美徳とされていることも分かっている。

 

今回は同僚も数名同行したわけだが、同僚たちは私がベジタリアンであることを知っているので、訪問先と関係のない食事については、一人でホテルの部屋で食べることで了解してもらった。

しかし、問題は訪問先と一緒の食事だ。

 

日本に着いて二日目の夜は、訪問先との食事に誘われていた。

この食事会は、訪問先で業績を上げた人のお祝いも含むということだったので、顔を出しておいた方がよいと思い、出席する旨伝えておいた。

いざとなれば、お通しや付け合わせの野菜など、何か食べるものはあるだろうと思っていたのだ。

しかし、私の出席が決まった後に受け取ったメールによると、予約したレストランではコースメニューを注文したとのことで、その詳細を見てみると、全ての料理に必ず肉か魚が入っている。

幸い、コースと言っても、大皿料理をシェアするものなので、私一人が食べていなくても誰にも気づかれないだろうと思っていたのだが…。

 

当日、私の横にいた訪問先の女性が、私の目の前の小皿に肉の入ったサラダを盛りつけようとしたので、

あ。いいです。

と、やんわり断ろうとすると、驚いた顔をされた。

私が改めて、

食べたいものがあったら自分で取りますので、いいですよ。

と言っても、彼女はまだ不思議そうな顔をしていた。

いいんですか?お腹空きますよ。

と彼女が心配そうに訊いてくるので、最初は、

まだ時差であまりお腹が空いていないんです。

と言って言葉を濁していたが、彼女はずっと心配し続けていたので、ついに私は、変人扱いされることを覚悟の上、迷った挙句、

実はベジタリアンなんです。

と言ってしまった。

 

実際時差のせいでそれほどお腹が空いていなかったのも事実だし、それに、実はホテルの向かいにあったスーパーで果物を買い込んでおいたので、お腹が空いて眠れないという心配はなかった。

もちろん、無理してでも肉や魚を食べるというオプションもあったのかもしれないが、長年食べていなかった動物性食品を今の私の体が消化できるかどうかも不安だった。

だから、私はここでは水だけ飲んでやり過ごし、訪問先の人には一切迷惑をかけたり気を遣わせたりしたくなかったのだが、結局メニューを渡され、

食べられるものを選んで注文してください。

と言われてしまった。

私のせいで余計なお金がかかるのは申し訳ないですから。本当に大丈夫なんですよ。

と断ったのだが、どうしても注文してほしいようだったので、結局お言葉に甘えてキュウリの小鉢を注文した。

 

 

その翌日からは、二日間の会議のため、宿泊施設で合宿を行うことになっていた。

合宿には一日目の昼食と夕食、二日目の朝食と昼食が含まれており、事前に食事についてのアンケートがあって、どうしてもアレルギー等で食べられないものについては報告できるようになっていたのだが、そのアンケートには以下のような注意書きがあった。

 

食べられないものとは、好き嫌いのことではありません。

また、メニューによっては対応できない場合もあります。

アレルギーが起きた際の対応について把握するため、医師の診断書を提出していただく場合もございます。

 

つまり、命に係わるアレルギーがない限り、多少体に合わなくても、無理してでも食べろということらしかった。

アメリカでは絶対このようなことはあり得ないと思うが、やはりここは「好き嫌いせず何でも食べること」が昔から美徳とされてきた日本独特だと思った。

幸い自分で食事を持ち込むことは許可されていたので、私は全ての食事を断り、代わりに買い込んでおいた果物を持っていくことにした。

ここでも、無理してでも他の人と同じものを食べるべきか迷ったのだが、やはり長年食べていない動物性食品を食べることで消化不良や体調不良を起こすのではないかという不安があった。

結局、食事会場で一人だけ違うものを食べるのは抵抗があったため、全ての食事は部屋で一人で食べた。

相手先の人たちは食事会場に私がいないことに気づいていたかどうかはわからないが、気づかれていたとしたら、やはり変人だと思われていたかもしれない。

 

 

この合宿が終わった後、実家に帰ったのだが、幸い私の家族は私がベジタリアンであることに理解を示してくれた。

とはいっても、レストランを選ぶにしても、ベジタリアンメニューがある店を選ぶのは安易ではなかった。

実家があるのは農業の盛んな地域でもあるため、地元野菜を使用していることをアピールしている店は沢山あるのだが、メニューを見ると殆どと言っていいほど肉や魚が入っているのだ。

 

 

日本にもベジタリアンは少数派ながらも存在すると思うのだが、特に仕事での食事ではどうするのが最適なオプションなのだろうか?

やはり、周囲に失礼のないよう、無理してでも動物性食品を食べるべきだったのだろうか。

変人と思われるのはまだいいとして、迷惑な人、面倒な人と思われていなかったかが不安である。

だからといって、また肉を食べられるようになりたいとは考えていないのだが…。

 

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どうやら、昔から私は時々「ありがとう」の一言を言い忘れるようだ。

 

自覚したのは、恐らく大学生のころだったと思う。

誰かから親切にしてもらったことを話すと、当時付き合っていた彼からよく、

「ありがとうした?」

と訊かれたので、

「あ、もしかして、私、よくありがとうの一言を言い忘れているのかな?」

と思った。

 

もちろん、親切にしてもらったときは、感謝の気持ちを伝えなければならないのはわかっている。

しかし、何故か「ありがとう」の一言を言い忘れてしまうようだ。

もしかしたら、「親切にしてもらって当然」という厚かましい考えの持ち主などと誤解されているのではないかと思うと、ぞっとするし、そんな自分が恥ずかしくなる。

 

 

ところで、感謝の気持ちの伝え方としては、もちろん「ありがとう(Thank you)」と口に出して言うことは基本中の基本であるが、最近本当にそれだけで十分なのかな?と思える事例があった。

 

ある日、自分の車のタイヤの空気が抜けていたことに気が付いた。

しかし、私は一度も自分でタイヤに空気を入れたことがない。

そこで、いくつかの動画を何度も繰り返して見て、ガソリンスタンドでタイヤに空気を入れる方法を学習し、本番に臨むことにした。

 

まずはオートショップで空気圧測定のためのバルブを買い、ガソリンスタンドへと向かった。

そして、いざ車を空気入れ装置の前に移動させたはいいが、なんせ初めてなので、やはりもたもたしてしまった。

空気入れ装置に書いてあった説明を読みながら、なかなか行動に取り掛かれないでいると、近くにいた男性が声をかけてきた。

どうやら、私のぎこちなさを見て、タイヤの空気入れをするのが初めてだということがわかったようだ。

 

使い方を教えてくれるのかと思いきや、その男性はなんと、親切にも最初から最後までタイヤの空気入れをやってくれた。

「え?全然知らない人なのに、ここまでしてもらっちゃっていいの?」

と思い、もちろん間違いなく「Thank You」とは言った。

しかし、ここまで親切にしてもらって本当に「Thank You」の一言だけでよかったのだろうか?

とはいっても、まさか相手の連絡先を聞くのは却って失礼になるかもしれないし、かといって、感謝してもしきれない気持ちをどう伝えればよかったのか…というモヤモヤ感がしばらく残った。

語彙力のある人なら、もっと上手に感謝の気持ちを伝えられたのかもしれない。

しかし、コミュニケーション能力の低い私には、「Thank You」の一言を言うのが精一杯だった。

 

もう恐らくこの男性に会うことはないと思われるので、感謝の気持ちを返すためにできることは、せいぜいこれから誰か他の人に対して、見返りを求めない親切をすることだろう。

 

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昨年の4月に、コロナワクチンに関し、周囲の人との考え方のズレを感じた記事をアップしたが、また自分がズレているのか疑問に思うようなことがあった。

それは、同僚二人とオンライン会議をした時のことだった。

同僚A(女性)と同僚B(男性)は、製薬業界で長年医薬品開発に携わってきたエキスパートだが、Aの方はその時、ブースターを2回(つまり合計4回接種)打っていたにもかかわらず、COVID-19の抗原検査に陽性反応が出て療養中だった。

 

同僚A:月曜日に陽性反応が出ちゃって…。口の中が変な味がするけど、COVIDのせいなのか抗ウイルス薬のせいなのかはわかりません。嗅覚はだいぶ戻ったかも。でも、呼吸が苦しくなったりはしなくて、喉で止まってる感じです。

同僚B:ああ、それ、オミクロンだね。上気道が集中的にやられるらしい。

私:PCR検査を受けたのですか?

同僚A:いいえ、抗原検査ですよ。日曜日、母のところに行こうと思って検査した時には、症状もなくて、陰性だったんです。でも、月曜日、何だか体調が悪いなと思って、検査したら、陽性になっていたんです。

同僚B:この間の出張でもらっちゃったかな?

同僚A:2回目のブースターを打ったのが、今から二週間前。出張に行く4日前だったのですよ。

私:4月にFDAが発表したワクチンの有効性データ見ました?

同僚B:見たよ。

私:あのデータ見ると、2回接種後、3か月ぐらいで殆ど有効性はゼロになって、7か月も経てば逆にマイナスになってましたよね。

同僚A:でも、症状が出てしまうのを抑える効果はなくても、ワクチンはそれでも有効だと思いますよ。重症化率は下げてるみたいだから。陽性率は下がらなくても入院率は下がっていたんですよね?

私:うーん、どうでしょう。実は、私一度も打ってないんですよね。

同僚B:えーっ、それって、すごく気を付けないとまずいんじゃないの?

私:今のところ、パンデミックが始まって以来、一度も風邪ひいたことすらありませんけど。

同僚B:どぅるがーさん、君が一度もワクチン打ってなかったなんて、知らなかったよ。ほんと、気をつけなきゃ。

同僚A:私は5回でも打ちますよ。

 

私は、AとBのような医薬品開発のエキスパートが、Aが2回ブースターを打っても感染したにもかかわらず、いまだに盲目的にワクチンの効果を信じていることに驚いた。

(どう見ても、オミクロン株に対する有効性は、2回目接種後7か月でマイナス、つまり打った方が罹りやすいということになっている。)

 

 

ここで、医薬品の臨床開発のプロセスについて、私が実際にアメリカで見てきた体験を交えて説明しようと思う(長文かつ専門的になるので、興味のない方は読み飛ばしてください)。

 

まず、これは多くの人が知っていると思うが、承認前の試験には、大きく分けて、非臨床第1相第2相第3相の段階が存在する。

非臨床とは人間を使わない試験で、生きた動物を使わないIn Vitro(試験管内)と生きた動物を使うIn Vivo(生体内)がある。

動物の致死率や腫瘍の発生などは見てわかるが、人間の言葉を話さない動物が苦痛を訴えているかどうかを判断する際には、体を何回くねらせるか、どんな鳴き声を何回あげるかなどが指標として用いられる。

 

無事非臨床で安全性が確認できた薬は、臨床試験で人間に投与されるようになるわけだが、まず第1相では、健康な被験者に治験薬を投与して、安全性や薬の体内での動態(血中濃度の推移など)を確認する。

ここで大切なのは被験者が「健康」であることで、年齢、BMI、基礎疾患、他に飲んでいる薬、妊娠や授乳などを確認し、条件をクリアした者だけが選ばれる。

言い換えれば、痩せすぎていたり太りすぎていたり、あるいは基礎疾患があったり、妊娠していたりする場合の安全性は確認できないことになる

 

第1相を無事クリアすれば、次に第2相に進むわけだが、ここでは、少数の患者に投与して、病気の治療に必要な投与量を決定したり、あるいは治療の方針を決めたりする。

よく用いられるのは、プラセボ(偽薬)を用いた比較試験である。

実薬とプラセボどちらを投与されているかを医師や患者が知ってしまっていては、先入観によるバイアスができてしまうため、ここでは医師や患者にはどちらが投与されたかを秘密にする、いわゆる「二重盲検」という手法が取られる。

試験の期間や患者数は、プラセボとの間に有意な差が見られそうな数値を予測して計算して決めるのだが、ここでもできる限りノイズの少ないきれいなデータが得られるよう、年齢、BMI、基礎疾患などの条件を設定して患者を選定する。

それでもこの段階で、プラセボとの間に差が出なかったりなど、躓くことは多々あるため、それを解決するために企業はあらゆる努力をする。

薬自体を作り替えたり、用量を増やしたり減らしたりなども考えられるが、薬自体はそのままでも、データの解析法や試験のデザインを工夫したり、体形や基礎疾患や併用薬が試験に影響を及ぼすような患者を除外したり、あるいは試験を実施する医療機関を変えたりするだけでも、結果が違ってくることがある

 

そして、それでうまくいけば、いよいよ大人数での第3相試験に突入するわけだが、ここでも第2相で行ったように、きれいなデータが出る条件に合った患者の選定および試験のデザインを行う

もちろん、企業としても、無駄な出費は最低限に抑えて、なるべく早く承認を得たいわけだから、試験期間は、有効性や安全性が確認できる最低の期間に限定される

 

それでプラセボとの間にはっきりとした差が見られれば、FDAや厚労省などの規制当局にデータを提出して、いよいよ審査に入る。

審査期間中には、当局が実際に製造工場を訪れ、工程を細かく確認するわけだが、清掃状態が悪くて異物混入の危険性があったり、製造記録を怠っていたりなどの不具合が見つかった場合、期限内に改善策を講じなければ、製造差し止めになる。

 

審査はその医薬品のリスクとベネフィットを天秤にかけて行われるわけだが、ここでいうベネフィットとは、必ずしも薬の有効性のみではなく、最終的に承認されるかどうかは、政治的経済的ベネフィットも含めて、審査機関が有用だと思うかどうかにかかっている

第1相、第2相、第3相というと、三つの試験を行えば承認が得られるように見えるかもしれないが、実際は各相を何度も繰り返しつつ、全ての試験が終了して有効性と安全性が証明されるまでには長い年月を要するのだ。

 

しかし、めでたく承認されたとしても、これで終わりではない。

上記の通り、臨床試験はなるべく必要最低限の期間で、条件を絞り込んだ被験者のみで行うため、実際に世に出て、あらゆる年齢層や基礎疾患を持った患者に長期間にわたって使用されることになると、新たな問題が出てくることが多々あるのだ。

そこで、企業は市販後も医療機関にアンケートを行ったり、或いは患者や医療関係者からの副作用の自発報告を募ったりして、定期的に当局に連絡することを義務付けられている。

それで、一度承認されはしても、使用する条件を限定されたり、最悪の場合承認取り消しになる場合も少なくない。

 

 

これを踏まえたうえで、長年この業界に勤務してきたAやBが、数か月の臨床試験のみで緊急使用許可を得られたワクチンに対して、何の疑問も持たないのが、私には理解できない。

さすがにデータ改ざんなどの詐欺は行っていないと信じたいが、もしかしたら人為的にあの手この手を尽くしてプラセボとの差が出るようにして得られたデータなのではないか?長期に使用して新たな問題は出てこないのか?などとは考えなかったのだろうか?

 

しかし、逆に言えば、AやBのようなエキスパートが信頼するということは、信頼することの方が当たり前なのだろうか?

 

 

日本のSNSを見ると、「海外ではもう誰もマスクをしていない」「未だに行動制限をしているのは日本だけだ」などというコメントも目に付くが、実は決してそんなことはない。

アメリカでも、一部のサービスでは、サービス提供を接種済みの客に限定して、未接種者はリモート限定にしたりなどの規制が未だに行われている。

しかし、私の考えが少数派なのだとしたら、辛抱強くパンデミックが終息するまで待つしかないだろう。

 

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前回のqEEG検査から2か月が過ぎ、再び検査を受けることになった。

 

3月の段階でかなり良い結果が出ていたのに対し、前回、5月の段階では、逆に悪化しているように見えた。

そこで、T先生は、私の脳が今までのニューロフィードバックに慣れてしまったと判断し、新しい方法を試すことになった。

今までの方法というのは、Netflixで見たい動画を選び、それに専用のフィルターをかけて画面の明暗を変えることで脳に刺激を与えるものだったが、これに対して新しい方法とは、ゲームをしながら脳に報酬を与えるものだった。

 

ゲームというので、楽しいものを想像していたのだが、その内容はとても単調なものだった。

野球、フットボール、ホッケー、バスケットボールの四つの種目から選べるようになっているのだが、そもそもスポーツには興味のない私は、特にフットボールやホッケーはルールすら知らない。

とはいっても、ルールを知っている必要はない。

このゲームでは、例えばバスケットボールなら、ただひたすらボールが投げられ続け、それがバスケットに入れば得点が入る。

それをスクリーンの前に座って、ヘッドギアを付けて、ただ見ているだけだ。

これで、ヘッドギアを通して機械が脳波を検出し、その脳波の挙動がよければ脳に報酬が与えられるというのだが、だからといってどうすればよいのかは、施術を受ける側にはわからない。

意図的に集中すればよいというわけでも、リラックスすればよいというわけでもないのだ。

ただ、ちゃんとボールがバスケットに入ってくれれば、少し嬉しい気持ちにはなる。

 

因みに、これらの中で比較的面白かったのはサッカーのジャグリングだった。

(サッカーのジャグリングとは、以下の動画のようにボールを足、膝、頭などでトスする技術のことらしい。)

 

 

このニューロフィードバックのゲームは、サッカーのユニフォームを着たCGの男性が、ジャグリングをし、トスが長く続くほど高い得点が出る。

この男性の顔が何だかいかつくて、何故こんな顔にデザインしたんだろう?などと余計なことを考えながら見ていた。

 

そこで、このゲームを二か月続けた結果だが、期待したほど改善してはいなかった。

 

ここ最近の結果を比較してみても、寧ろ3月の段階より、アルファ波のい部分が増えてしまっているように見える。

因みに、結果の見方は前回の記事を見ていただきたいのだが、要するにの部分はできればない方がよく、全体が緑色になるのが理想なのだ。

 

そこで、T先生からは、これから三か月間ニューロフィードバックを休憩するようアドバイスされた。

エクササイズと同じで、停滞期にはブレークを入れることも必要らしい。

 

三か月ブレークを置いたら、その後はどうするかだが、ニューロフィードバックを続けるというオプションの他、更に他の方法を試すというオプションもあるようだ。

 

今回は少し残念な結果だったが、それでも一年前に比べると明らかに改善しているので、今までのニューロフィードバックセッションは無駄ではなかったと思っている。

 

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