もういくつか寝ると日本です。睡眠のスケジュールも崩壊しているため、具体的にあと何回寝るかは神のみぞご存知です。

 

少し前ですが、祖母が逝去しました。傘寿を迎えてひと月ほどでしょうか、最後は緩和ケアの施設で引き取ったそうです。

 

私が最後に面と向かって喋ったのは私が日本を発った1月中旬でしたから、あれが最後だったのか、と今思うと随分と呆気ない別れだったと回帰しているところです。

 

私は2019年に逝った曾祖母がおりましたが、彼女が私にとっては初めての『親族の別れ』でした。ですが卒寿で数年間老人ホームで過ごしていた彼女がこの世を去ることは皆が理解していましたし、覚悟ができていたというのもあり、もどかしさは覚えませんでした。

しかし此度は1月の下旬にステージ4の癌が発覚し、トントン拍子で体調が悪くなっていきましたし、覚悟はあまりできておらず、そして気がついたら母からの報せが入っていました。

 

とはいえ発覚後もビデオ通話や通話を何度もできたわけで、肉声を聞けただけでも御の字です。これが半世紀以上も前であれば『ソホキトク スクカヘレ』という電報を受け取るだけに過ぎなかったわけです。そして慌てて荷物をまとめて客船を乗り継いでも着く頃にはすでに49日も終わっていたりするかもしれません。そういった意味では非常に恵まれていることには変わりません。

 

私は実は頻繁に学校が開くミサ(カトリック)に赴いています。土曜日以外の週に6日は毎日二回開かれている礼拝ですが、極力水日以外は足を運んでいます。そこで一日のうちの少しの時間でも神様に相対し、彼女が無事に天国に迎え入れられるように願っています。勿論私がそれを祈ることで審判の結果が変わることはないかもしれません。ましてや死後の審判も存在するかもわかりませんし、魂だってあるかはわかりません。

 

ですが、それは最後に挨拶を交わした時に軽く『また夏ね』と言ってしまった自分の懺悔と、せめてもの罪滅ぼしなのかもしれません。

 

お祖母様が無事に天国に招き入れられ、曾祖母や私のご先祖と再会を果たし、生きている我々を空高く見守って下さいますように。末永く平和にお眠り下さい。

 

カミゴリ

 

 

 

 

期末まで二週間ぐらいです。正直精が入りません。どないしましょう。

 

今日は短く済ませます。チューターをしていて説明が難しいと思ったエピソードをひとつばかり。

 

桃太郎は日本人であれば必ず通る話ですね。その中で、

 

『おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行きました』

 

という描写があります。これは最早小学生でも空で言えるレベルの認知度です(多分)。

 

この文章の構造は

『人物』は『目的地』へ『その目的地での行動』に行く、となっていますね。私が教える教科書でもそう教えています。

ところが『目的地での行動』の欄で教科書では『〇〇ます』から『ます』を取ったものを挿入するようにと記載されています。

例 田中さんはレストランにごはんを食べに行きました。

 

しかしここで桃太郎の爺さん婆さんは『洗濯』と『芝刈り』、という行為の名詞形に『に』がくっついて、そして我々はそれに違和感を覚えないわけです。

 

もし教科書どおりであれば『爺さんは山へ芝を刈りに』『芝刈りをしに』でなければなりません。

 

では『洗濯』に動詞的要素が含まれるのか。しかし洗濯『ます』とは言わないわけで、それは間違っています。

 

我々には思考停止で可能な『洗濯に→洗濯しに』を英語でどうやって生徒に説明すればいいんですかね…

 

前途多難です。

 

カミゴリ

アメリカでは昨日8日に金環日食が観測されました。なんと観測可能なエリアに沿うようにAirbnb(民泊サイト)の予約が埋まっているという地図が話題になっています。

https://www.axios.com/2024/04/05/airbnb-bookings-eclipse-april-8-map

 

さて、今回も労働に関する話題です。文句を垂れてる暇があったらインターン応募の一つでもしろやという正論にはノイズキャンセルをし、今回の『歯車になりたい問題』について話していきます。

 

社会全体が『夢を見るように』『成功した経営者になれるように』と誘導していると思えるこの頃ですが、私にはそこまでの野心も気力もありません。私の目指すは父のように、『サラリーマンとして社会の歯車となり、家庭を築き、背伸びをしない幸せを掴む』ことです。

ですがアメリカでは残念ながら、成功者教育がかなり盛んに思えます。講演会なども『若くして財を成した経営者』や『アントレプレナー(起業家)』といった面々が多いです。勿論彼らの話は非常に為になり、無駄かと言われるとそうは言い切れない節はあります。

 

ですが逆に、そんな一握りのニンゲンの話をされても、あまり実感が沸かないというのもこれまた事実です。また、先ほど上げたような経営者を経営者たらしめるのは彼らのもとで汗を、血を流し、会社に貢献する社員(ここでは便宜上歯車と呼ばせてもらいますが)がいるわけです。私の父もいい年ですからベテラン戦士として中間管理職に就いているわけですが、そういった有能な人材の元に経営者というのは存在するわけです。

 

ですから私は是々非々、中間管理職やサラリーマンの講演会などがあっても面白い、というか是非開いてほしい、と思ったりもします。何を考え働き、何を人生の楽しみとするか。経営者などの『外れ値』とも言える人たちではなく、その他大勢のマジョリティの私達の将来を正直に反映しているともいえるこのイベントがあれば飛んでいって話を聞くのに、と思います。

 

 

この間ツイッターでこんな投稿を見かけました。

私はこれにかなり同意する節があり、今の教育は、そしてその教育の産物である我々若い世代は『船頭多くして船山に登る』状態に陥るのではないか、と危惧しています。日本の教育がロボット生産のようだ、という人もいます。勿論一元的な詰め込み、暗記などはあまり効果はないかもしれないし、改革はしたほうが良いかもしれません。しかしだからといって全員がクリエイティブになってしまうと、それはそれで問題があるように私は思います。

 

よく就活での質問の『あなたをものに例えるとしたら』と聞かれたときに『潤滑油』と応える学生は少なくないと言われています。非常にまとまりよい答えと言っていいでしょう。しかし潤滑油というのは『歯車』あっての潤滑油です。こすれ合う金属がなければ潤滑油は飲めもしない、環境にも悪い液体に過ぎません。堆肥になる生活排水の方がまだ有用な液体ではないでしょうか。

 

ものにたとえてと言われたときに堂々と『歯車』と答えられるように、私も私自身を金属のように鍛え直し、硬いが脆くない、そしてときには柔軟に、靭やかにいることができるように精進していきたいと思います。

 

カミゴリ