昨日から、Mixiを始めました。
懐かしの小学校、中学、高校。幼稚園まで!
☆Rumiさんのブログ☆ で今、チャリティの記事がアップされてますが、なんとなく、あぁ、私がチャリティとか、ボランティアとか、名前を冠してやるものになんとなく(?)隔意を感じるのは、この辺りにあるのかな?と思いました。
幼稚園は、キリスト教系で、小学校に上がった時に他所の子と一緒になって、びっくりするぐらいおっとりした所で。
誰かが怪我して泣き出せば、○○ちゃん可愛そう、とみんなで泣き出してしまうような子が多くて、
そんな子を宥めたり、慰める男の子がいたり。
男の子が乱暴なものなんて、本当に思ったのは小学校に上がったあとぐらい。
バザーが寄付に回るのは当たり前で、手編みのセーターやレース編み、年期の入った洒落たコーヒーカップ、園児が作ったり、手入れしたりを手伝ったようなものがいっぱい出ていて、それを密かに自慢しあっていたような所があって。
小学校ではバザーはありませんでしたが、いわゆる養護学級が存在する小学校で、運動会や学芸会では同じ学年のその子達と一緒に参加するのが当たり前。
その時だけ給食を一緒にする養護学級の子はヒーローのようなもので、
○○君はこんなにすごいんだぞ!
XXくんはこんな所がすごいんだから!
と自慢しあう始末。
もちろん、みんなと歩調の合わない部分もあるから養護学級に行ったのだけれど、
泣きもすれば笑いもする。
ちがうよ~、あっち!
なんて手を引っ張られれば一緒に行動する。
愛のひとしずく、と銘打たれた鉛筆販売は、ダースで買った子は自慢げに、筆箱の中の鉛筆を総入替。
高校では、車椅子の子がいましたが、階段の上り下りは傍にいた子が
「上~?」
「下~?」
「あ、ちょっと手伝ってよ~」
なんて声をかけあいながら当たり前に車椅子を抱えて行き来していたし、その子も卑屈になることなく、
「ありがと~」
と自然に返していた。
出来る範囲で、当たり前に。
そういう意味で、それはな~んの言葉も冠される事のない日常だった。
そんな日常に、違和感が紛れ込んできたのが社会人になってから。
ある地下鉄で、女の子の二人連れ、ひとりは車椅子の子達と行きあった。
「上ですか?手伝いましょうか?」
お願いします、と言われて、
「すみませ~ん、手伝ってくださ~い」
と適当に声を上げて、居合わせた人たちと一緒に、車椅子に手をかけた。
上に上がって、そのまま先に行ったら、後ろから大きな声で、
「ありがとうございます!」
と声が飛んで来た。彼女の周りには、手伝ってくれた人たちと、その連れが取り巻いていた。
登っている時も恐縮された。
十二分すぎるほどの感謝だ。
手動の普通の車椅子で、女の子なら、女3人で十分持ち上がることを知っていた。
丁度同じ方向だった。
走らなければいけないほどの急ぎでもなく、だから声をかけただけだ。
落とし物を拾う手伝いと、なにも変わらない。
なんで、大声でありがとうと、叫ばなければならないことがあるんだろう。
なんで、行きずりに彼女を取り囲んで話しこまなければならないんだろう?
私より背が高い人が隣にいたら、高い棚のものをとってもらう。
私より小さい子が隣にいたら。
それと同じ感覚じゃいけないんだろうか。
…そうつらつら考えている内に、当たり前に感じる機会がない人も多いのだ、と言うことに気が付いた。
どうすればいいんだろうね?
個性が違うだけの他人。
理解しやすかったり、理解しずらかったり。
出来る範囲で、無理のないこと。
それをするだけだって、思えることを増やして生きたい。
そんな中の一つに過ぎないと思うのに。