こちらのブログに、何度かコメントを頂いている☆Rumiさんのブログ☆ にボランティアに関わる記事がありました。
コメント書き込ませて頂こうかと思ったんですが、ちょっと中身がもやもやとしているし、後ろ向きな意見かな、と思ったので、直接はヤメ。
日本には大規模なボランティアはない、といった印象があります。
特に他国に対しては。
国家規模でのODAでは多額の支出をしているのに、的外れであったり、
(川から流れ込む砂ですぐ埋まってしまうような所に港作ったり…)
「本当に困っている」「現地民の人に」必要とされている所に回らなかったり。
(だから国から国へ、ではなく民から民へ、のボランティアの必要性が問われるんでしょうけれど)
ただ、ボランティア意識が低いか、といと、どうでしょう?
ただの身近な印象ですが、募金箱や托鉢僧の鉢にお金を入れるのは回りの人間も日常的にしていましたし、
小学校時分、年1回だか2回だか、売上額は総て寄付に回る「愛のひとしずく」という鉛筆販売がありましたし、
クラスメイトのほとんどがこれを買っていました。
いじめっ子や性格が悪い、と感じていた子も含め。
(スネちゃまのような性格のその子は、やっぱりちょっとお金持ちで、2ダースほど買うのを自慢してました^^:)
嫌いな隣人に対してより、しらない第三者に対しての方が善意が発揮やすい、といのが人かな、と思っていた小学生時分。
それは今も変わりません。
そのころ、壁貼新聞で読んだ記事が、私をとても不愉快にしました。
アメリカで、クリスマスの寄付を難民に対して行った、という記事が、
「クリスマスのお祝いも出来ないような子達に私たちからの贈りものを」
と言う文章で書かれていたそれ。
写真に映っている人たちは、私の印象ではいい歳したお姉さん、お兄さん達。
私だって、その地区がキリスト教徒でない事は知っている。
私はその時からしばらく、アメリカ人の行う寄付とは=布教活動、他を信心することなんて考えもしない独善的な人たち…
そう思ってきました。
(若草物語を読んだ時には、そう感じませんでした。
同国人で、きっと同じクリスチャンだろう、という意識を持って読んでた所為なんでしょう。
自分たちもそう豊かではないのに、隣人を思う心は私の気持も豊かにしてくれた気がします。
それが原因で、ベスが病気になってしまったにしても。)
記事が、或いはそのニュアンスが、実態とイコールではありえない、と言うことは私は今は知っています。
でも、この記事から感じてしまったことはまったくの嘘だろうか?
『自分が』他人の境遇を思いやるきっかけになる時期に行うのがボランティアだと、
漠然と思っていたのを、
『お祝いを出来ない他人の為に』と時期を勝手に決めつける独善さ。
…以来、私は「あなたの為」と押してくる存在全般が苦手です。
「貴方の自己満足の為」、の間違いでしょう、
そして私は貴方の自己満足でもいいから縋りたい、なんてこれっぽっちも思っていません、と。
もちろん、ボランティアをしている人がみな高圧的で優越意識を持って接してくる人ばかりだと思っていないし、そうでない人にもあったことはあります。
結局の所、私にとってのボランティアとは
『良心の安寧』
『自己肯定の為の行為』
であって、『快く受け取ってもらえるもの』以外を差し出せない、
恥の文化ニッポン、以外の何ものでもないのかな、とも思います。残念ながら。意識低いですね。
あぁ、もう一つ思うのは。
電動でない車椅子、それも女性、は、軽いです。女3~4人で十分持ちあげられます。
最近車椅子用のレールやエレベーターも増えましたけど、
まだ総てのホームに、といっていない所もあります。
『登りますか?』
『降りますか?』
の一声かけて上げてください。
時間でほんの数秒の負担です。
持ち上げた事がなくって不安な気もあるでしょうけど、どうすればいいかは持ち上げられる側の人がよく知っています。
「迷惑をかけたくない」と立ち止まってる人に「迷惑と感じない」ひとが声をかけるだけのことです。
よろしくね。