付言
本章中には今日の人権擁護の見地に照らして、不当または不適切と思われる語句や表現がありますが、作中の時代背景文学性を考え、あえて使用しています。
有待(うだい):(衣食などの助けによって保たれる)人間の身体のこと
年の瀬も近づいてきた、師走の半ばのことだった。
その日は朝から雪がちらついていて、「こないな日に堪忍なあ」と秋斉さんから言われつつ、革を張り替えた鼓を引き取りに出た帰りだった。
道の向こうから聞き覚えのある声がして、私はおや?と耳を澄ませた。
「艶花はぁん! 今日はなんや、ニヤニヤしてどないしたん?」
見れば、私と同じ新造の花里はんが楽しげに艶花はんを顎の下から上目遣いで見ている。
彼女たちはどうやら三味線の稽古の帰りらしく、二人とも私に気づいてはいないようだった。こちらから声を掛けるのも何となしに憚られて、私は目を伏せた。
「に、ニヤニヤじゃなくて、にこにこっていってほしいんだけどな……」
「えー? そやかて、鏡見とおみ? ニヤニヤとしか言いようがない顔してはるもん。さては、土方はんから雪見にでも誘われたんかなぁ?」
「えっ、なんでわかっ、……ちが、違わないけど、その……ええと……あの、あんまり他の人には言わないでね?」
「言わへん言わへんて。あー艶花はんって、ほんまおもろいよな」
「……花里ちゃんって、ほんと鋭いよね」
「艶花はんがわかりやすいだけや」
「うう……くやしい……」
あの子はきっと、自らの身体を男の好きにされたことなどあるまい。ひもじい腹を抱えて氷雨(ひさめ)に打たれたことも、他人から悪し様に罵られたことすらないに決まっている。
「土方はんから逢状が届いたん?」
聞きたくないのに、帰る方向が同じなものだから聞こえてこざるを得ない。無意識に、傘で顔を隠すようにしてしまう。
「え、と……うん。少しだけだけど、揚がれるって……」
寒さだけでない桃色に頬を染めて、彼女は幸せそうに微笑んでいた。
男の人は、あんなふうにコロコロと表情を変える女が好きなのだろうか。私はあんなに情が豊かではない。藍屋では言われたことはないけれど、以前の見世では愛想のひとつも振りまけない、可愛げのない娘だと言われ続けてきた。それは自分の性分で、仕方のないことだと思っていた。
やがて新しい年が明けて、私は彼女が土方さんといつ雪見に行ったのだろうと気になっていた。それがいつのことかはわからないけれど、二人が並んで静かに降る雪を眺めている光景を想像すると、なぜだか胸が苦しくて切なくて仕方なかった。
土方さんがあれ以来島原に訪れていないのが、それに拍車をかけた。
物事は自分の都合の良いように運ぶことなどないと思ってはいても、心のどこかで期待せずにはいられなかった。
けれど今日も、新選組の隊士は揚がってはいないようだった。今夜のお座敷は、菊月ねえさんの一番の馴染みである薬種屋のご主人だ。だが彼にしては珍しく、初めて見る顔のお客と一緒だった。
「まあ志水屋はん、今年初めての逢瀬どすなあ。新しい年になって、お見限りかと思うとりました」
「そないなことあるわけない、ちぃと忙しいて、顔を見るんが遅なっただけや」
「忙しいて、そちらのお方とのお仕事どすか」
「へえ、天神の佳(い)い人を独り占めさしてもらっとりました、最上屋仁兵衛(もがみや じんべえ)でおます」
「こちらはな、大坂の船場(せんば)にある薬種問屋の旦那はんや。清国(しんこく)から長崎を通して買い付けた唐薬を商うてはる、うちがえろう世話になっとる店でな。久方ぶりに京に来はったんや。それであんさんの見目麗しさで労ってもらおかと思てな」
歳の頃は四十路を二つ三つ過ぎたところだろうか。渋みのある、男前と言える面立ちをしている。だがその容貌を損なって余りある特徴が、彼にはあった。
不自然に曲がった脚。私とそう変わらなそうな小さな背丈。せむし──佝僂病(くるびょう)だ。
そのせいか、こちらを見遣る視線には卑屈めいたものがあった。そしてその眼は、姐さんを通り越して私をねぶるように見ていた。
「最上屋様どすか、あては菊月申します。こちらは新造の君影。まだまだ未熟者どすけど、二人でいっしょけんめ、やらしてもらいます」
さすが島原の天神、菊月姐さんは一見さんのお客様にいつもそうするように、極上の微笑を浮かべて会釈した。私も慌ててそれに倣う。
「君影どす。よろしゅうお頼申します」
下げていた頭を上げると、最上屋様と目が合った。
「こらまた、えろう別嬪さんでんなぁ。まだ季節には早よおすが、お雛様みたいや」
「へ、へぇ、おおきに」
世辞であろうが褒められたのに、彼の眼はゾッとするような光を放っていた。
思えば私は、道端の石ころみたいなものかもしれない。自分の意志で動くことはできず、どこに置かれるかは周りの人次第。火の中だろうと水の中だろうと、置かれた場所でじっと耐えなくてはならない。
もしも珠(たま)だったならば大事にしてもらえたかもしれないけれど、自分は何の変哲もない石ころにすぎなかった。どうして私は、石ころに生まれてしまったんだろう。
だけど艶花ちゃんは違う。少なくとも土方はんにとっては珠なんや。大事な大事な、まさに掌中の珠。
「……そういうわけでな、あんさんを是非とも身請けしたい言わはるんや」
私をここに置いた主人である秋斉さんは、手にしていた湯呑みをことりと置いた。
「たった一度、お座敷に揚がっただけやのにどすか」
「そうや。まぁそういう出会いもあるわなぁ。勿論、あんさんの気が進まんかったなら断ってくれて構へん。わてが上手く言うとくさかいに。最上屋はんはええ男ぶりやし、お店も繁盛してはるけど、お気の毒な病を抱えてはる。あんさんを大店の正妻に、いうんはありがたいお話やけども」
立った一度の出会い。なのに、花街の芸子でもまだない新造を、正妻に迎えたいと言う。たった一度、座敷に招(よ)ばれて、姐さんと一差し舞った。その舞も、とちりはしなかったけれど大した出来でないことはわかっただろうに。
それなのに、私を身請けしたいと言う。たった、あれだけの時間を過ごしたに過ぎないなのに。
──たった、それだけのことで。
私と土方はんとの邂逅も、菊月ねえさんだろうにせよ、他の人にせよ、話したところで「それくらいのこと」と思われる出来事なんだろう。『それくらいのことで好きになったのか』と鼻で笑われるような。
きっと、他の人に同じことをされてもこんなに好きになんてならなかっただろう。あるいは彼が別の日に別の場所で同じ行動をとったとしたならば、感謝以外の気持ちを抱くことはなかったかもしれない。
でもあの日あの時に、私は──恋に落ちたのだ。それはたとえば落とし穴に文字通り落ちるように突然のことで、踏みとどまることも抗うこともできない。
だけど彼には艶花はんがいる。その仲は、隊内でも島原でも京雀たちの間でも知らない者はなかった。 そのせいで、艶花はんは危ない目に遭ったこともあるという。
初めて会ったときは、奇妙な娘(こ)だと思った。何がそんなに思わせたのかは言葉にならない。相対すると、そのいかにも健やかそうな笑顔に気圧された。それがまるで自分とはまるで別世界の人だと感じて、わずかな居心地の悪さもやって来た。
飾らない親しさが、逆に胸苦しかった。臍(ほぞ)噛むような狂おしさと焦燥に見舞われた。
けれど、彼女は花開いたときの艶やかさを予感させる可憐な蕾に変貌した。この百花が妍(けん)を競う島原で、彼女は正直そんなに目立ちはしない。牡丹や芍薬の傍で咲く、名もなき花のようなもの。
けれど可憐な花が花弁をひるがえし咲き誇ろうとするその過程が、私の眼前にあった。
もう、誤魔化せない。認めるのが怖くて、ぎりぎりのところで否定したくて、でも気づいてしまったから引き返せない。甘美な諦念が胸に満ちる。
「あの人が、好き──……」
単純な好感や憧憬から逸脱して、心はとうに、恋という領分へ踏み込んでいたのだ。
そばにいたい。見つめていたい。ふれたい。願いは尽きない泉のように。恋心とは、こんな風に溢れてくるものなんや。初めて知った。叶わぬとわかっているからこそ募る切なさ、慕わしさ、その止めどのなさを。
「阿呆やな、うち……。どないもならへんって、わかりきっとんのに……」
どうすることも出来ないくせに。もう今更、どうしようもないのに。理屈では、その虚しさは分かる。それでも追い払えない想いがある。これが、それだ。
その想いが去らない真実の理由を悟るのに、時間はかからなかった。それはごく単純なものだった。私がこれまで出会った人々の中で、あの人は特別な人だから。一番、大好きな人だから。
恋といっても、淡い好意が親しみに変わったのか、それとも激しい情がどこまでも深まった結果なのか、あるいは人恋しさが募らせた夢だったのか。
私はあの子がどんな恋をしたのかと自分のことのように胸を騒がせ、具体的にどんな逢瀬の日々だったのかと想像が追いつかないままに虚しく臓腑を絞らせた。そのとき私が手にしていたのは、精々が引き延ばされた袋小路のようなものでしかなかった。