そう、あれは土方さんが足の怪我の治癒のために逗留していた会津の宿の縁側でのことだ。
時を追体験するかのように、光景が臨場感をもって五感の全てに押し寄せる。
板張りに腰を下ろす彼の隣にあった数冊の本。空を飛んでいる鳥の長閑(のどか)な声。半身に感じる夏の陽射し。草木の匂い。背後に置かれていた、よく手入れされた土方さんの刀。
──土方さんの。

長い指と、静脈の青い血管が浮き出ている手の甲。自分でも分からない強い衝動に駆られて、それに触れた。触れてしまうと、この温もりが遠からず永遠に失われてしまうという残酷な現実に胸を抉られた。
“私、本当は未来から来たんです”
聞き届けてほしい言葉がある。告げたくてたまらない想いがある。
“…………は……”
彼の口からは、声とも吐息ともつかない微かな音が発せられた。
ほんの少し視線を上に向ければ、すぐ間近に艶やかな髪。陽光に透けて、いつもより淡い色彩をたたえている。この美しさを、二度と目にすることが出来なくなる日が確実に迫っているなんて。
“だから、私……この先のことを少し知っているんです。幕府の味方をしていた人たちは、この後の戦いで大勢が亡くなって……土方さんも、北海道に、蝦夷に行って、そこで”
「──秋斉さん。私はかつて確かに、土方さんに告げたんです」
彼(か)の地に待つのは不可避の破滅の運命なのだと。
「そうか」
細い嘆息まじりに秋斉さんは応えた。
「せやのに、あん人は……」
「はい」
それでも彼は退(ひ)くことはしなかった。北へ北へと転戦し、奔走した。戦場に立つ以上、死の覚悟はあったに違いない。けれど生への諦観は決してなかった。もしかすると、私の言ったその先の未来を本当には信じていなかったのかもしれない。彼はただ、自らが奉じて貫く道をひたすらに信じ抜いていた。
揺るぎない、弛(たゆ)むことのない、強い目の光。己の進む道を、そこに響く足音を疑うことのない瞳。私は、そうして戦い続ける彼の後ろ姿からいつしか学びとっていたのだった。この人と『生きていたい』と願うことは、『生き抜く』試練を共にすることなのだと。
──ああ、そうだ。
私はその背中に焦がれた。あの眼差しを愛した。
──探しあぐねていたものに思い当たったという感覚が、全身全霊に満ちる。それが記憶の奥底にある、何か根源的な感情を揺さぶった。

「…………あ」
──愛していた。愛している。今も。この瞬間も。
彼と初めて会ってからの思い出が次々と胸の裡を過ぎっては消えていく。消えてはいくけれど、私はそれらを全て覚えている。
──私はすべて、憶えて、いる。
土方さんの側で過ごした春。夏。秋。冬。
土方さんの笑った顔。何かを考え込んでいる横顔。見下ろした寝顔。
土方さんが歩く。振り返る。頷く。指差す。
そんな何気ない表情や仕草のひとつひとつさえ、忘れるに忘れられない熱い想いを伴って私の中で脈打ち始めていた。
「何でだろう……」
繋いだ手のぬくもり。互いに交わした、他愛のない言葉の数々と、そこに込められた想い。つまらない理由で喧嘩してしまった日のこと。仲直りの為の言葉をいくつも思い浮かべては、独り溜め息を吐いた時のもどかしさ。もう一度二人で微笑み合えた時の喜び。自分にとってそうである様に、彼にとっても私が特別な存在になれたら。そんなささやかな願いを抱いて過ごして来た日々の記憶。
「どうして忘れてたんだろう……」
──たったひとつの未来を、信じた。永遠を、祈った。運命を覆す奇跡を、希(ねが)った。
縋るように腕に掴まって二人で歩いた五稜郭の夜。
彼の服の袖に擦り寄せた頬や肩が歩く振動で微かに揺れる毎に、それらの部分が痛いほど熱く意識された。箱館の夜はまだまだ肌寒かったけれど、そんなことは気にならなかった。普段よりずっと近くに聴こえる、他愛ないことを話す穏やかな声が、衣類越しに伝わってくる彼の確かな温もりが 、たまらなく愛おしかった。
だからこの人と、ずっと一緒にいたいと思った。隣あって笑みを交わして、ふたり一緒に時を重ねて。ずっとずっと、一緒に生きていきたいと。歴史通りにこの地で死んでほしくなんてないと。
「秋斉さん、わたし……私、」
あの想いが、あの涙が、あの痛みが、あの温もりが。
繋がって。連なって──。

「艶花はん……?」
顔を上げた拍子に、両の目から流れ落ちた滴が顎先を伝って座卓の表面にぱたぱたと落ちた。
「あの、ですね……」
喉の奥から込み上げてくる熱いものを言葉にしようとするのに、いざそうしようとすると何と口にすればいいのか迷う。
「あの……あの時、外出許可をいただいて私が買ったものは、土方さんにプレゼントするための懐中時計だったんです」
言いたいことは、言うべきことは他に沢山あるのに、口を開いて一番に出たのはそんなことだった。後は、ただただ涙だけが零れて止まない。
けれどそれだけで、既に彼は察してくれていた。私が全てを思い出したということを。
ほんの一刹那、目を見開いて……そして、破顔する。
「何や、そっか……そやったんか。ほんなら、あの、今も残っとる土方歳三の写真の胸んとこに見えとる鎖が──」
溢れ出る涙を拭いながら、私は微笑んで深く頷く。
「そうやったんか……」
眩しげに目を細めて、それから彼は一人言のように呟いた。
「……ああ、お陰でわてが生まれ変わってまでも気になっとったことの答えが、ようよう判明してすっきりしたわ」
「え? そんなに気にされてたんですか?」
秋斉さんは、ふうっと息を吐きながら彼にしては少しだらしなく食卓に頬杖をついた。その力の抜け具合に、この人が私のことをどれだけ案じてくれていたのかが分かって、申し訳なさと感謝の念が湧き起こる。
「まぁ……なあ。そら、普段あんまし物欲のなさそうな艶花はんが、アルバイトいうかダブルワークみたいなことまでしてたんやから。ま、当時も調べよう思うたら知ることはできたんやけど、あんさんのことはそれなりに信じとったからな……そんでも、何となく心に引っ掛かってはおったんやで」
「その節は、黙っててすみませんでした……」
鼻を啜りながら、照れ笑いと共に軽く頭を下げた。
「でも、私は別に物欲がないわけじゃないですよ。あの頃だって、可愛い簪とか、綺麗な着物だとか、見れば欲しいなって思ってましたし。まあ、今みたいに物が豊かな時代ではありませんでしたけど……」
今なんて特に、いろいろと目移りしたり、すぐに飽きてしまいがちでと白状するけれど、返ってきたのは微苦笑だけだった。
「ほんでも、とにかく──記憶が全部戻って、ようおした。ほんまに……」
真顔になった秋斉さんが、改めてこちらを見やる。
「しかし、なくなっとった記憶を取り戻す瞬間いうんは、もっと劇的なもんやと思うとったんやけどね。戻る時というか、きっかけいうんは、実際のところは案外と……」
そうですねえ、と私も同意した。
「惚れた男に再会した瞬間に、記憶がぶわぁっと一気に甦って……みたいに想像してたんやけどな。何でわてなんかとおる時に……いや、まあ、ほんまに良かったけど」
惚れた男、というキーワードに、何の違和感もなく土方さんの顔が浮かんで胸が疼いた。そんな単純すぎる自分に、今は恥ずかしさや呆れよりも安心をおぼえる。
「だって……秋斉さんは、幕末ではやっぱり私の一番近くにいてくれた人ですから。土方さんについて行ってからの時間より、秋斉さんの置屋にいた頃の方が長かったんですし」
私がそう言うと、彼も懐かしそうに小さく頷いた。
「それに、こうして今日一日、一緒にいてもらったから。やっぱり京都に来て──秋斉さんに会えて、よかったです」
そう言った私と秋斉さんが笑いながら顔を見合わせた時、不意に襖の向こうから声がかかる。その声には聞き覚えがあった。
「今晩は。ようこそ、おこしやす」
落ち着いた、柔らかな声音と共に顔を覗かせた人の姿に少し驚きはしたものの、特に意識することなしに私はするりとその名を口にしていた。
「──“枡屋さん”」
「え……?」
名前を呼ばれた筈の相手は、なぜだかひどく驚いていた。
「あ、あの……」
他の人の名前を呼んだわけではない筈なのに、何がそんなに彼をびっくりさせてしまったのだろうか。理由の見当がつかず、私は当惑してほんの少し体を後ろに引いて、入り口に膝をついたままの相手を見つめる。
「ああ……あんさんに、その名前で呼ばれたんがあんまりにも久し振りやったもんで……すんまへん」
そうして秋斉さんと目を見交わして、秋斉さんが頷いてみせると彼は一瞬の後に顔を綻ばせた。その顔のまま、安堵の溜め息と共にこう言った。
「わてを、あの頃の呼び名で呼んでくれはったいうことは……記憶が戻らはったんやね……」
「あ」
そうだ。『かつての』この人の本当の名前、そして今の名前は古高俊太郎さん。でも、あの頃の表向きの名は……そして私は、ずっとそちらの名前しか知らなくて、“枡屋さん”と呼んでいたのだった。
さっきの、ように。
「そうか。やっぱり京都に来て思い出しはったんやね……」
はい、といらえた私に向けて微笑んだ顔に、たまらないくらいの懐かしさをおぼえた。いつかの電話で感じた気まずさなんて吹き飛ぶほどに。
「あ。そういえば、あの……先日はお電話で失礼な態度を……」
秋斉さんに促されて入室し、慎ましく下座に腰を下ろした古高さんに勢い良く頭を下げる。
「そんな、滅相もない。不安でたまらんかったあんさんに、わざわざ突き放すようなことを言うてしもて、謝るんはわての方どす」
整った眉を寄せて、本当にすまなさそうにする彼に私は急いでかぶりを振った。
「いいえ。だって、あの時に言われた通りでしたから。私……私はちゃんと、“私の”記憶を取り戻せたので」
それを聞いて、ようやく古高さんは心からの笑みを見せてくれた。
「せやで、わては“わての思い出”を少うし聞いてもろただけやしね」
秋斉さんも、残っていた鰭酒を飲み干してこちらに微笑みかけた。
「どころか、寧ろあの頃のこととは直接関係のない話ばっか一方的にしてしもうて」
古高さんは、「はは」と笑ったけれど、私の心には再び仄暗い翳(かげ)が射した。
因果律。歴史の収束。バタフライ効果。世界の意思。覚えたての言葉が浮かんでくる。
「料理もお酒もほんまに美味しゅうて、つい喋りすぎてしもたかも分かりまへん」
「そら良うおした。艶花はんも、お口に合うたんならええのやけど」
自分の名前と、向けられた視線に反応してはっと意識がこちらに戻った。
「はい……私も、とっても美味しくいただきました。こんな美味しいふぐを食べたの、初めてです。本当言うと最初はちょっと雰囲気に緊張したんですけど、食べ始めたらとにかく美味しくて夢中になっちゃいました」
「こら光栄やわ。過分なお褒めの言葉のお礼に、こちらのお食事代はちょこっとおまけさせていただきまひょ」
「え、え……」
思わず秋斉さんの方を見るけれど、彼は「商売上手なことやなぁ、ほなおおきに」とにこにこしている。
「ええんよ艶花はん、これが古高はんからの誕生日祝いやねんから」
「へえ。もうじきですやろ、二十歳のお誕生日。ささやかどすが、藍屋はんとわてと半々いうことで、遠慮のう。消えもんの方が、艶花はんも気兼ねしはらへんやろ?」
二人から優しい眼差しを向けられる。確かに誕生日は近いけれど、こんなことは予想外だった。
「今年は事故にあって、えらい目に遭うてしもたけど、新しい一年はええことが仰山あるようにな」
いたわりに満ちた秋斉さんの言葉に、私は深く頭を垂れて二人にお礼を述べた。
「……一番に祝うてほしい人に、お誕生日までに会えるんが何よりなんやろうけど。ほんでも、間に合わんかっても……きっと、会えます」
頭の上に、穏やかだけれど力強い古高さんの声が落ちる。
「間に合わへんかったら、会えた時に遅れた分も併せてプレゼントをねだりはったらええ」
「そうやね。そん時は、わてにもこの店の一番高いコースを奢ってもらおか」
「はは。その際は勿論おまけは無し、欠勤分も含めて労働で払うてもらいまひょ」
そこでようやく私は体を起こした。いま聞いたことの内容を確かめようと、古高さんの方へ身を乗り出す。
「あのっ、欠勤って」
彼は、おそらくは家を出た直後に退職願を郵送していたと──
「ああ。辞表やったら、保留しとります。戻ってきて本人と顔を合わせて、他に働く当てがあって艶花はんをちゃんと養えると言うたら受理しますけど。……これはあん人に情けをかけとるんと違って、ただ、わてと浅からぬ縁のある艶花はんの幸せを思ってのことどす。それに、今のわての嫁……菖蒲からも、たってのことやからと頼まれとりますさかい」
いま上げた頭を、私は即座にまた深々と下げた。
「艶花はん、顔を上げて。菖蒲も、今日は店には出てへんのどすけど、女将として元気にやっとります。また、会いに来たって。子どもらも喜ぶさかいに」
声を出そうとすると涙が先に出てしまいそうで、私はただこくこくと頷いた。
「……あんさんも、存外あん人に情が移ってはるんどすなぁ」
そうしみじみと言う秋斉さんに、古高さんは思いの外さらりと屈託なく応える。
「はは……そらまあ。佐幕やら尊皇やらの主義思想という柵(しがらみ)無しに付き合うてみれば、土方はんは悪い奴やない……どころか、好(え)え男や。“かつての”わてとも、もしかしたら気は合うたんやないかなと思うくらいに」
「ふふ……あの頃も、鬼やと言われても何やかや大勢の人間がついて来とったんや。ぱっと見は今でもちいっと厳ついけど、その実、情は濃(こま)やかやし…………な、艶花はん」
二人のやりとりにじんわりと胸を熱くしていたところに、突然水を向けられて「は、あの、ええ……?」と答になっているのかいないのか分からないような間の抜けた返事しかできない。そんな私を、二人はまた目を見交わして笑い合っていた。
(つづく)
ようやっと、艶花さんの記憶が戻りましたー!\(^o^)/
……あ、戻ってるんです(汗) あっさり書いてしまってますが。
いや、これで一件落着というわけではないし!
肝心の土方さんが不在のままだし‼
というわけで、そろそろ土方さんとの再会に向けて動き始めなければいけませんよね……
ひたすら重たく堅苦しい雰囲気が続いていたので、今回はちょこっと明るく☆
本家艶が~るで主人公さんのお誕生日イベントが12月に開催されたので(皆さん覚えておいででしょうかw)、艶花さんも12月生まれに設定しました。
12月が誕生日だと、クリスマスと一緒くたにされたりヘタすると誕生日プレゼントがお年玉と合算されたりもしてちょっと損な気がする作者(=12月生まれ)です。
え? それって我が家だけ……?