【8月企画】 艶が怪談百物語 ~目次~
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参加させていただいております☆
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また、あの人の夢を見た。
何て奇妙な夢。
「…起きたばっかなのに、なんかすごく疲れた……」
追いかけられる夢というのは、目が覚めた後もなかなかあの独特の緊迫感が消えないような気がする。
この夢を見たのは二度目だ。
最初に見たのがいつだったのかは覚えていない。
でも、さっき目覚めた瞬間私は『また、同じ夢を見てしまった』と思ったのだ。
───夢で、私は秋斉さんと手に手をとって駆けている。
場所はどこだか分からない。
島原ではないのは確かだし、大門の外のどこかにしても、見覚えのある道ではない。
なぜか周囲は真っ赤。
夕焼けの赤でもなければ、たとえば炎の色とも違う赤。
少し暗くて…強いていえば、血のような赤に周囲が染まっている。
空も、道も、街も。
その景色の中を、私と秋斉さんは追いかけられている。
追ってくるのは、女。
身に纏っている色鮮やかな友禅をなりふり構わず乱しながら、女のひとが追いかけてくる。
その友禅も真っ赤。走りながら振り向いて、なぜか私はそれに描かれた模様を凝視しようとする。
だけど、走っているせいで視点が上手く定まらない。
『走り!』
少し前を走る秋斉さんに叱咤された。
私の手を引く彼の力は、その見た目や普段の様子からは想像できないくらいに強すぎて、私は肩から腕が抜けてしまうんじゃないかと別の意味で怖くなってしまう。
そうやって必死で走っているのに、ちっとも進めない気がするというのは、このての夢ではよくあることなのか。
やがて私たちは、追ってきた女のひとに追いつかれてしまう。
『つかまえた。』
そこで初めて、私は自分たちを追いかけていた相手の顔を見た。
ざんばらの、長い黒髪。
白粉を塗った白い顔。
紅をひいた唇から漏れる息は、不思議と全く乱れていなかった。
『あと、二回やね。』
そう告げる声は、心底愉しげで。
ちらりと、片側に小さな八重歯が生えているのが見えたのをよく覚えている。
それが最初に見た夢だった。
そして今朝見た夢も、全く同じ内容だった。
やっぱり私は、秋斉さんに手を取られ死に物狂いで走っていた。
赤い、赤い世界。
私と秋斉さん、それから私たちを追いかけてくる女のひと以外に誰かがいる感じはしない。
もうどれだけ走っているのか分からなかった。
秋斉さんも、いつもの優美ささえ感じる姿はどこへやら、羽織をはためかせ、濃藍紫の着物の裾がはだけるのもいとうことなく、ひたすら足を交わしている。
私の息はとっくに上がっていて、呼吸そのものが既にまともにできなかった。
足が縺れて転びそうになるけれど、止まることも、スピードを緩めることすらもできない。
ここで足を止めてしまったら、もっと恐ろしいことになると夢の中の私は知っている。おそらく、秋斉さんも。
『───走り!』
やっぱりまた、私は秋斉さんにそう言われる。
私の手を握る秋斉さんの力はもの凄くて、指が握り潰されるのではないかと思うほどだった。
転ばないように、転ばないように……
そう念じながらひたすら前へ進むけれど、今度もまたあの女のひとに追いつかれてしまった。
『───つかまえた。』
秋斉さんに掴まれていた手がすべり落ち、私は赤い地面に膝をつき、肩で息をする。
女のひとは、私に背中を見せて秋斉さんに声をかけた。
『つかまえたで。』
友禅の袖に描かれている柄は、今や私の霞んだ目にも判別できた。
真っ赤な友禅…そこに乱舞する、暗赤色の蝶。
膝まづいたまま、私は首を上に向けて女のひとの顔を確かめようと試みた。
腰まである、乱れた黒髪。
その隙間から、白粉をはたいた、白くて小さな頤(おとがい)が目に入った。
『あと一回やね。』
そう告げる唇は前に見たのと同じく紅で赤く染まっていて、そしてその端からちらりと八重歯がのぞいていた。
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『あと一回やね。』
何があと一回なのか、それは分かっている。あと一回捕まえたら、という意味だろう。
分からないのは、あと一回捕まえられたらどうなるのかということ。
夢の中では、あの女のひとに捕まるのがとにかく恐ろしかった。
捕まると、何かとんでもないことが起きてしまうような、そんな確信があった。
でもその『とんでもないこと』が何なのか、起きている今となっては全く分からない。
「───今日も、蒸し暑うてかなんなぁ。」
西日が照りつける中、菖蒲さんに付いて揚屋に向かう。
隣にいる花里ちゃんは、もう一度「暑ぅ…」と呟いた。
「ほんに、暑おすなぁ。」
不意に背後から声が聞こえて、私は我知らずびくっと体を揺らしてしまう。
驚きながら振り返ると、赤い友禅が視界に入った。
赤い友禅の───遊女。
その着物の胸元から徐々に視線を上げていくと、細められた相手の目と私の目が合う。
彼女の髪は綺麗に流行りの形に結われており、白粉を丁寧にのばしている細面の顔は夕日を受けて赤く染まっていた。
彼女付きの新造か、禿か…後ろにいる少女たちは、陰になって顔がよく見えない。
「…お気張りやす。」
そう言って横を通り過ぎたその遊女の紅い唇から、八重歯が零れた。
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「どこのお店の遊女だろう…」
今しがたすれ違った彼女の姿にどうも見覚えがない気がして、私は遠ざかる後ろ姿を見ながら首を傾げた。
「…何言うてはるの。藍屋(うち)にいてはる姐さんやない。」
「………え?」
「紅蝶(べにちょう)はんやないの。前からずぅっといてはるで?」
菖蒲さんも、私を見て真面目な顔で言う。
「前から…?ずっと…?」
「せや。あんさんがここに来る前からずっと。」
二人が私をからかっているようには見えない。むしろ、『どうしたの?何をふざけたことを言ってるの?』というような視線を向けられている。
なのに───なぜだろう。
私は、『紅蝶さん』と挨拶を交わした覚えすらない。
なのに言われてみれば、その姿はどこかで見かけたことがあるような気がしてならないのだ。
「…あ」
何ですぐに気づかなかったのだろう。
『紅蝶さん』は、夢の中で私と秋斉さんを追いかけてくる女のひとに、似ている───。
「どないしたん?」
先を行っていた菖蒲さんの不審げな声に、私はすみませんと答えて慌てて後を追った。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
息が、苦しい。
また私は秋斉さんと一緒に走っている。
走っているのに、私の足音も、秋斉さんの足音も聞こえない。
追いかけてくる、『あのひと』の足音も。
必死に前へ前へと突き進みながらも、私はまた後ろを振り返ってしまう。
視界に捉えたのは、赤い友禅の袂と、なびく黒髪。
『…走りっ!』
秋斉さんが私に鋭く言い放つ。
───待って。苦しいんです。もう走れない。
そう訴えたいのに、声にはならない。そして私は…私たちは、どんなに苦しくても走り続けなくてはならない。
あのひとに、捕まらないために。
だけど、無情にも『あのひと』の気配はどんどん近づいてくる。
私も秋斉さんも全力で駆けているはずなのに、周囲の真っ赤な景色はちっとも変化していないように思われる。
背後から、笑い声が聞こえてきた。
あははは…ははは…ひゃはははは……
ひゃ───ははははははは…………
『つ、か、ま、え、た』
ああ、捕まってしまった。
『さ、ん、か、い、め』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
自分の悲鳴で目が覚めた。
そんなことは初めてだった。
「どないしたん!?」
「大丈夫か!?入るで!」
そんな声がして、部屋の襖がぱん!と開いたかと思うと、菖蒲さんと花里ちゃんが室内に飛び込んでくる。
「何なん?何があったん?」
「えらい悲鳴あげて…どないしたん!」
口々に言いながら、二人は私の肩を抱いたり部屋を見回したりする。
「ごめん……ごめんなさい、夢です…怖い夢を見たんです。」
途切れ途切れにいらえると、「え?」「夢?」と拍子抜けしたような声が返ってきて私は身を縮めた。
「ほんとにすみません!お騒がせしちゃって…」
そう、あれは夢。
「なんや、怖い夢見たん?」
菖蒲さんが私の背中を撫でてくれる、その手の温かさに私は思わず大きく息をつく。
「怖いというか、ちょっと変な夢で…。紅蝶さんに追いかけられる夢なんですけど、」
言いかけて、私は途中で言葉を飲み込んだ。
「『べにちょうさん』?て…誰?」
「追いかけられた?」
二人とも、怪訝な表情で私を見ている。
「あ、変ですよね、紅蝶さんが追いかけてくるなんて」
「ちゃうちゃう、『べにちょうさん』て、誰なんかなって。」
花里ちゃんの問いに、今度は私が眉を顰める。
「菖蒲姐さん、知ったはる?」
菖蒲さんは首を傾げている。
「うちも長いこと島原にいてるけど…『べにちょう』って廓名の遊女は知らへんなぁ…」
「ええ?だって、夕方揚屋に行く途中で私たちを追い越して行った遊女がいて、私が知らないって言ったら藍屋に以前からいる紅蝶さんって方だって、二人が…」
だがその二人は不思議そうに顔を見合わせている。
「夕方、そないなことあった?」
「いえ…そんな話はしてまへんえ。第一わても、『べにちょう』はんて、ここでもよその置屋にも、そないな名前は聞いたことあらしまへん。」
「そんな!夕方は、私が知らないって言ったら二人とも変な顔してたのに…!」
私はわけが分からずに戸惑うばかりだった。
───夕方は、私だけが知らなかった『紅蝶』さん。
───今、『紅蝶』さんを知っているのは私だけ…?
「…なあ、その夕方に云々ってとこからが、夢なんちがう?」
「そやそや、わてらと『べにちょう』はんって姐さんに会うたのも夢やってんよ!」
菖蒲さんと花里ちゃんに代わる代わるそう言われるが、夕方の出来事が夢だったとはどうしても思えない。
「夢じゃないです…花里ちゃん、覚えてない?赤い友禅を着た女のひとだよ…。あ、秋斉さんに訊いたら分かるかな…」
「───わてに、何を訊くんやて?」
「あ、秋斉さん!」
「みんなして夜中に何を騒いどるんや。」
寝着の上に、普段着ている羽織を肩からかけた秋斉さんが部屋に入ってくる。
「あぁ、旦那はん。なんやけったいなことになってますんや。」
菖蒲さんが、夕方のことからさっき話した私の見た夢の内容までを、順序だてて秋斉さんに聞かせる。
私も思いきって、夢の中で秋斉さんと一緒に追いかけられていたことを付け加えた。
「そらまたけったいな話やなあ。『べにちょう』なんて遊女はわても知らへん。」
この置屋の主人である秋斉さんが知らないというのなら、もう私の勘違いでしかないのだろう。
「ほれ、そうと分かったら菖蒲と花里も、もう寝みなはれ。」
そう言うと、秋斉さんも立ち上がる。
「すみませんでした。」
お騒がせして、と言い添えようとして、私は耳と目を疑った。
「せやから『この人が』、走り、って言うたのに。」
そう言った秋斉さんの唇は、男性なのに紅を引いたかのように紅く───
その隙間からちらりと、八重歯がのぞいていた。
「捕まったら、今度はあんたが鬼やで。」
『鬼事(おにごっこ)』 おわり