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少林寺の僧侶が少林寺の秘技心意把について語っている。
「心意把は日常の労働・生活の中から生まれた。日常生活が武術・修禅なのである。」
「心意把は二十年とかの基本的修行をして基礎を身につけてからでないと練習できない。外見だけをまねてもそれは空の型である。心身共にできていない者が練習すれば,相手を倒す前に、自らを傷つけることになり、仏の教えに反することになる。」
「心は仏であり、意は禅であり、把は功である。」
彼の言っていることは、自分には誇張でなくなんとなくしっくりくる。彼の言っていることは「敵を倒す前に、自分を倒してはならない。」等私が普段言っていることに近い。また、現実、心身共にできていないものが、あのような断崖絶壁で形を練習をしたら、自らを傷つけることになるのは自明であろう。
だが、この薄汚れた俗世間に活きている限り、私の日常生活が武術・修禅になることはないであろう。だから、彼の言う心意把は私が仮に練習したところで身につかないだろう。
私は秘技はこの世に存在しないと言う立場だ,絶技が存在するのだと思う。たまたまかもしれないが、私の師もそういう考えの人が多かった。
それが絶招と言うものなのだと私は考えている。