土御門ミステリー 10の謎 (その7) | 阿波 発 京都 行 @どなり古事記研究会

阿波 発 京都 行 @どなり古事記研究会

この国の起源と歴史を阿波から見つめなおして。

徳島~大阪~京都を往還しながら、全国各地へ出張取材。
折々にタイムカプセルをのぞく “行き当たりバッチリ” 訪問記です。

土御門ミステリー
土御門上皇をめぐる10の謎
ミステリー・7 土御門帝;生母の謎

平安から鎌倉時代、その行跡どころか名前すら明らかな女性は多くありません。
「**女」などとしか記録されなかったのは、いわゆる言霊(ことだま)信仰ゆえ。
人の名前には超自然的な力があって、誰かに本名を発音されるとその思い通りに操られてしまうと考えられていたようです。
で、おなじみの紫式部や清少納言なども実名ではなく、“あだ名”です。

そういえば「孫悟空」 に、名前を呼ばれて返事をすると吸い込まれてしまう魔法の瓢箪と壺が出てきました。
金角・銀角という魔王兄弟が持っていたものでしたが、名前を隠すようになった風習は中国から伝わったものかもしれませんね。

イメージ 1

イメージの参考に、井筒法衣店さんが運営されている 「風俗博物館」 のサイトから鎌倉時代の女官の正装の写真をお借りします。
この博物館は京都・堀川通りに面した井筒法衣店の5階、京都の文化や衣裳の歴史に興味がおありなら一見の価値あり!です。

平安時代の正装よりは少し簡略化されて、締めるパーツが減っています。
すぐに脱げそうですが、貞操観念の変化と連動しているのかどうかは、知りません。


ここでは、土御門上皇さまのお母様の存在が上皇さまの行動にどのような影響があったか、推理してみたいと思います。

先ほど書いたように、この時代の女性についてはあまり(というかほとんど)情報がありません。
たとえば平清盛の妻・時子や北条政子のようによく知られている“女傑”たちの言動も、後世の著作家による創作かもしれません。
上皇さまの母についてもそお姿はよく見えません。
Wikipedia でも、直接ご本人に関することはせいぜい次のような履歴だけで、お人柄などは想像もできません:

源 在子(みなもと の ありこ/ざいし)
承安元(1171)年 - 正嘉元(1257)年
第82代 後鳥羽天皇 の妃で 第83代 土御門天皇 の生母。
父は 法勝寺執行能円
*1 で 母は 藤原範兼の女 藤原範子。
源 通親の養女。
院号は承明門院。
 
父の 能円 は平 清盛の妻・時子の異父弟 であった関係から法勝寺の執行に任ぜられる。
母の 範子 は 高倉天皇 の 第四皇子・ 尊成親王
後の 後鳥羽天皇乳母 を務めた。

寿永2(1183)年、平家が西国に落ちた際に 能円は平家に同行、のちに流罪となる。
通親は後鳥羽帝の乳母である在子の母・範子と結婚、通親は新帝の乳母父の地位を得る。
養女とした在子
は後鳥羽天皇の後宮に入り、建久6(1195)年12月に 為仁親王(後の 土御門天皇 )を出産。
正治元(1199)年に従三位准三后、建仁2(1202)年には院号宣下を受け 承明門院 となる。
建暦元(1211)年、出家。
承久3(1221)年の 承久の乱 により、配流された 土御門上皇 と生別。

土御門上皇が 通親 の 孫娘・通子との間に儲けた 邦仁(くにひと) は在子の実家・土御門殿で養育されている。
承久の乱によって在子は実家が没落し 苦しい生活を強いられた。
仁治3(1242)年、四条天皇の崩御により
邦仁王が践祚 後嵯峨天皇 )。
後半生は不遇であったが、晩年には孫の皇位継承を目の当たりにすることができた。
正嘉元(1257)年、87歳で死去。

上皇さまが土佐、そして阿波でお暮しだった頃は土御門邸におられたのですね。

在子さまがお身内から 「ありこ」、 「ざいし」 のどちらで呼ばれていたのか、わかりません。
私のネーム;在神 (ざいしん) にちなんで 「ざいし」 と統一しようかと思いましたが、時子がおそらく「ときこ」だったこと(まさか「じこ」では…)や、政子を「まさこ」と読むのが一般的なので、以降 「ありこ」 と読んでください。
男子の名も (定家;ていか なんていう人もいますが) 訓読みが一般的ですし。

この記事では “実家が没落” して “不遇” だったとありますが、剛腕・源 通親の跡を継いだ息子 (在子の異父弟) は頑張りました。

土御門定通 (つちみかど さだみち)
文治4(1188)年-宝治元(1247)年
鎌倉時代前期から中期の公卿。
源 通親の四男
村上源氏 土御門家の祖
生まれた翌年には叙爵を受け、14歳で父の論功により正四位下、翌年には従三位、更に2年後には正三位という破格の出世を遂げた。
この間に異母兄・通宗の猶子となる。
姪で通宗の娘・通子は 土御門天皇の典侍となり、邦仁王 (後嵯峨天皇) を生んでいる。

異父姉である承明門院 (在子) の別当として後鳥羽院政の中枢に入り、承元3(1209)年に権中納言、建保6(1218)年に権大納言と順調に出世した。
その一方で家柄からすれば遥かに格下の北条氏から妻:竹殿
北条義時の娘; 泰時の妹) を迎えるなど、武家政権との関係を強めていった。
順風満帆だった運命が急転したのは、承久3(1221)年に発生した 承久の乱 である。
定通は 直接的には関与しなかった ものの、後鳥羽院政の関係者として失脚した上に甥の土御門上皇の流刑、更にはその妃である義妹・通子の病死など、その政治的基盤を失う。

あらら。
それでも後鳥羽帝とは距離を置いていたようで、「政治的基盤を失」ったとしても、罪には問われていません。

この当時の記録が伝わっている多くは源氏;土御門一門に対立・対抗する、藤原寄りの人たち。
たとえば:
『愚管抄』 によると、在子は母範子が死去した後、養父である通親と密通したため、後鳥羽上皇は修明門院重子を寵愛するようになったとし、美福門院の例に似ており、上皇と重子の間には皇子も多く誕生したという。
なお 「美福門院の例」 とは崇徳天皇が鳥羽天皇の実子ではなく崇徳の母・待賢門院が祖父・白河法皇との密通の子であり、それを知った鳥羽が美福門院を寵愛するようになった話である。
しかし、在子の母・範子が死去したのは正治2(1200)年で、重子が順徳天皇を生んだのはその3年前であり矛盾する。
美川 圭は 『愚管抄』 のこの記事について、後鳥羽が重子を寵愛するようになったのを在子の密通のせいにするのは著者・慈円 の曲筆 と主張している。

デマならひどい話。
範子 は平家とともに流刑になった亭主から、9才若い 源 通親 に(言い寄られたのだとしても) 乗り換えた実績はあるものの…。
天台座主として君臨していた慈円の父は摂政関白・藤原忠通で、やはり摂政関白となった九条兼実の弟。
超エリートの坊さんにしては、やっかみ?

範子のためにも言い訳しておけば、都の貴族は領地 (からの収入) を次々と失い、旱魃に地震、疫病の流行など人々の暮らしは悲惨な状況、いっぽうで天皇以下少数の貴族の豪奢な暮らしは変わらず、(祈祷のためとはいえ)寺院の建立や熊野詣などで散財を続けていました。
平安末期を舞台にした 『羅生門』 の時代と変わらず、むしろ政治権力を失った都は末法思想の厭世観に覆われていた時代です。

こうでもしなければ、ほんの少数の人々を除いてはまともに生きては行けない時世だったのである。怖るべき生活難の時代であった。
『方丈記私記』 堀田善衞・著 ちくま筑摩書房・刊 p.160

そうして在子が入った朝廷は、非常に濃~い世界でした。
なにせ天皇は、この国のすべて;土地も人々もを 建前上 100% “個人所有” している大王なのです。
まわりが放っておくはずがありません。

さかのぼれば藤原家が天皇家と姻戚関係を結ぶことに成功、その権益を独占しようとします。
藤原不比等ですね。
その不比等の死後246年後に生まれたのが、例の 「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」 と詠った藤原道長
彼の祖父から後鳥羽帝の祖父・後白河帝まではこんな調子:

イメージ 4
『院政』 美川 圭・著 中央公論新社・刊 (2006) p.33

がっちり藤原一族に固められています。
まさに藤原王朝。
途中で孤軍奮闘した 源 基子 でしたが、その二人の息子は (秀才という評判で、藤原氏の存在をうっとおしく感じていた父・後三条帝からも期待されて) ともに親王宣下を受けながらも、足を引っ張られて即位することはありませんでした。

やがてそこに平氏が入り込んできます。
後白河帝の息子・高倉帝から土御門帝~順徳帝までの主な親族を並べてみましょう *2。
源平合戦の勝者・平家一門が猛烈な勢いで勢力を (藤原氏の女子を娶り、その娘を天皇の元へ送り込むことで) 伸ばしたかが一目瞭然です。

イメージ 3

字が小さいですが、クリックしていただけば拡大してご覧いただけます。

この時代は “平氏政権” だという学説があるほどですが、もちろんその背景には財力と武力があります。
藤原氏は純粋な貴族ですから (野蛮で不吉で不浄とされた) 武力を持たないため、全国に広がる広大な荘園は徐々にガードマンとして雇っていたはずの武士に侵食されてゆきます。
さらに平氏は清盛の父・忠盛の代から日宋貿易を独占したことで莫大な利益を上げ、藤原貴族が平氏との姻戚をこぞって望むことになるわけです。

後鳥羽帝の母・殖子の父・藤原信隆は清盛の娘を妻とするなど親・平家の公家とし活躍した人です(上の図に入りませんでした)
後鳥羽帝が寵愛したという藤原重子もまた平家の血を引き、その子の順徳帝もまた自然と 親・平家 であった可能性が高いように思います。

平家の主力が安徳帝とともに滅んだとしても、宮中にはまだまだ平氏の勢力、シンパが残っていた(どころか…)のです。
ましてや全国各地から一門の “落ち武者” の噂が聞こえてくれば、「折りあらば再興を…」 と願っていたと考える方が自然でしょう。

イメージ 2

壇ノ浦の壁画に描かれているこの二人、実は身代わりの別人でした。ごめんね~、というお話。
前にこんな記事も書きました:
高知の安徳帝伝説 http://blogs.yahoo.co.jp/senkoin2002/30180254.html


土御門帝の母・在子の父である能円 (藤原顕憲の子) も、異父姉の 平 時子(清盛の妻)の養子となるなど、平家と深い関係を持っていました。
ところが範子が頼ったのは 村上源氏 通親 です。

通親自身は出世の過程でちゃんと平氏の女性(清盛の姪)も妻に加えています。
というわけで、藤原氏と、まだまだ平氏関係者が圧倒的多数を占める朝廷において、おそらくは 範子-在子 の母娘は孤立していることを感じたことでしょう。

父・後鳥羽帝は弟の 順徳帝 をひいきしたと伝わっています。
後白河法皇の崩御後は自ら親政及び院政を行ったが、治天の君として土御門天皇を退かせて寵愛する順徳天皇を立てその子孫に皇位継承させた事には 貴族社会からは勿論、他の親王達からの不満を買った。
→ Wikipedia 後鳥羽天皇

そこには親・平家 (反・源氏) の感情が影響した可能性がありますね。
承久の乱とは、鎌倉の混乱に乗じた平家の リターンマッチ だった、といってもいいのかもしれません。

鎌倉幕府からは後鳥羽帝へ “一体になって” 国を治めないかという画期的な公武一体の提案がなされたことがあります。
しかし後鳥羽帝はこの “宮将軍” の依頼を断ります:

鎌倉殿の後継であった源 実朝の他に頼朝直系の 源氏嫡流の子孫がいない ことや、実朝自身に子がないことから源氏将軍が絶え、「皇族から武家の棟梁を」 と考えた実朝の母・北条政子やその弟・北条義時らにより1218年の時点で一度朝廷側に提案された。
しかし、翌1219年に起きた実朝暗殺により 後鳥羽上皇の拒否 に遭い頓挫し、頼朝と血縁関係にあった2歳の九条頼経が鎌倉に下向することで ようやく将軍職を相続することとした。

あとになって土御門帝の孫の親王が鎌倉将軍 の座に就くのですが、この時点ではまだ朝廷と幕府の間には緊張感が漂っています。

そんな空気のなかで育った、おそらくは親・源氏の土御門帝。
自分に冷たい風が吹く御所、いえ、京の都よりも、遥か彼方の鎌倉のほうに親近の情を抱かれたとしてもおかしくないと思います。

朝廷と幕府の緊張はしだいに高まり、後鳥羽上皇は討幕の意志を固めたが、土御門上皇はこれに反対 し、摂政・近衛家実(近衛家は藤原の分家;藤原北家) やその父・基通 をはじめ多くの公卿達も反対、または消極的であった。

上皇さまが乱ののちに土佐への配流を “みずから望まれた” というのは、「こんなとこに よういてまへん」 というお気持ちだったのではないでしょうか。

雲上人たちの狭い世界での上皇さまをとり巻く状況は、鎌倉側にも知られていたはず。
このような上皇さまのお命を幕府が奪おうとするでしょうか。


さらに、乱ののちに上皇さまの妻・在子とそのを引き取った在子の異父弟・土御門(源)定通も、ただおとなしくしていたわけではありません。
先ほどの引用には続きがあります:

その後、北条氏との縁戚関係 により復権して嘉禎2(1236)年には内大臣となったものの、政治的な影響力は失われており、ただ宮廷的には忘れられた存在となった承明門院 (在子) と邦仁王の後見人としての存在でしかなかった。
ー中略ー
仁治3(1242)年に四条天皇が急死すると、定通は 密使を鎌倉に派遣 して執権に就任した北条泰時に邦仁王の擁立を働きかけた。
泰時もこの提案に乗って東使・安達義景 を派遣して、定通や 六波羅探題 の 北条重時 (竹殿の同母兄) と図って邦仁王を 後嵯峨天皇 として即位させたのである。

その後、後嵯峨天皇が親政を行ったこともあり、定通は官職には無かったものの、新天皇の後見人 として権勢を振るって九条道家や二条良実と権勢を競った。
一方、幕府とも協調 して朝廷改革や顕徳院の諡号を後鳥羽院という追号
*3 に改める (背景については諸説ある) などの政策を進め、「末世の才卿」・「高才博覧の人」 と評された。

イメージ 5

なかなかのつらがまえ。
「影響力は失われており」 とありますが、律令制で太政大臣・左大臣・右大臣に次ぐナンバー4の地位です。

鎌倉と深くつながっていた、この内大臣・定通のもとに 在子と後嵯峨帝となる子が暮らしておられます。
お母さまのご縁で皇族のなかで数少ない 源氏寄り とみえる土御門帝のお命を、幕府がほんとうに奪ったのでしょうか。

この謎、どう思われますか?


***

*1
能円 (のうえん)
保延6(1140)年-正治元(1199)年
平安時代末期の僧侶。
藤原顕憲の子。母は令子内親王に仕えた下女で、平 時子、平 時忠らは異父兄姉。
時子から目をかけられ、その養子となる。
時子の夫・平 清盛の平氏政権樹立とともに立身、法勝寺の執行に任ぜられる。
僧侶ながら藤原範兼の娘の 範子 と結婚し、在子 を儲ける。
範子が高倉天皇の第四皇子・尊成親王 (のちの 後鳥羽帝 ) の乳母になると、宮廷にも人脈を拡大した。

寿永2(1183)年の平家の都落ちに従う。
壇ノ浦 の戦いで平家が滅亡すると捕虜となり、備中への流罪となった。
都に残っていた範子は在子を連れて 土御門通親 と再婚。

能円は文治5(1189)年に赦免されて京都に戻るが、範子はすでに通親との間に2人の男子を産み、更に懐妊中だった。
在子は後鳥羽帝の寵愛を受けて、建久6(1196)年に皇子・為仁親王 (のちの 土御門帝 ) を生む。
能円は血縁上は天皇の外祖父だが厚遇を受けることはなく、通親の権勢が増していくなかを正治元(1199)年に死去。


*2
上皇さまの妻子
とても全員を簡単な家系図には描けません。なにせこの時代は子孫を残すことが最大のノルマだったわけで (と、女性読者のためにあらかじめ断っておきますが)、Wikipedia に掲載されているだけで、上皇さまには14人以上の女性から最低21人 (11男10女) のお子さまが数えられています。
この数は父・後鳥羽帝の13人以上の女性から20人 (16男4女) を上回っています。
決して虚弱体質ではなかったようですね (たぶん)。
もっとも後鳥羽帝は御所で白拍子や遊女を連れ込んでの徹夜宴会も日常だったようですし、3上皇とも配流先でのお相手とお子さまもおられるので、正確な人数を追うことはまず不可能でしょう。
12才年下の弟・順徳帝には妻6人に12人(8男4女)のお子さま。
この3人のお相手に源氏出身の女性がどれくらいの割合なのかを比べると、後鳥羽帝が15% (2人/13人)、順徳帝が16% (1人/6人) なのに対して 土御門帝は36% (5人/14人) と、上皇さまの周囲には藤原に並ぶくらいの源氏人脈があったことが推察できようかと思います。


*3
追号 (Wikipedia)
延応元(1239)年2月20日、配所にて崩御した。同年5月、「顕徳院」と諡号が贈られた。
『平戸記』 によると北条泰時が死亡した仁治3(1242)年の6月に九条道家が追号を改めることを提案し、あらためて 「後鳥羽院」 の追号を贈ることとなった。
後高倉皇統の断絶によって後嵯峨天皇(土御門院皇子)の即位となった仁治3(1242)年7月には正式に院号が 「後鳥羽院」 とされた。

天皇はご存命中には 「おかみ」 とか 「みかど」 などと呼ばれ、後鳥羽帝の場合、隠岐におられたあいだは 「隠岐院」 などと呼ばれていたはず。
はじめにつけられた 「顕徳院」 がヤバイと思われたのはあの 「崇徳院」 と徳の字が重なるので怨霊になられたのでは・・・と九条さんも土御門さんも、畏れおののいたからではないでしょうか。
承久の乱で鎌倉方総大将となり、後鳥羽院の帰京をついに許さなかった三代執権・北条泰時は、2人の息子や孫を亡くし、自らも熱病で苦しみながら死んだといわれていますから。
1240年に後鳥羽帝の水無瀬離宮のあとに御影堂 (現・水無瀬神宮) を設けて祀ったのですが、こりゃあ(やっぱり!)怨霊になられたぞ~、と。

では、なぜ曾祖父の 鳥羽帝 のあとなのでしょう。
はじめて平家を取り立てたから、でしょうか。あるいは崇徳帝の父としてのパワーに期待してかな。
ご存じ方がおられたら、ぜひご教示ください。


***

追記
2015年07月18-19日に、徳島の友人 「和ギャラリー羅美庵」 庵主のみすずさんが (不思議なご縁に導かれて) 隠岐に。
ギャラリーの仲間と毎年どこかへ旅行に行かれているそうです。

なんと隠岐まで 紙芝居 『つちみかど上皇ものがたり』 を持参、みずから上演くださったのです。
感激!

イメージ 6

夏の隠岐はとても美しい、すてきな島だったとのこと。
後鳥羽院を祀られる隠岐神社(昭和15年の紀元二千六百年の奉祝事業として島根県が創建) へもご挨拶に行かれました。

イメージ 7

そして旅の終わりにコーディネイターの方が、なんと 「来年は佐渡へ」 ・・・。
それをうかがって背中がゾクッとしたことです。
よろしくお願いします!
→ ブログ 「和ギャラリー 羅美庵」 http://ameblo.jp/rabian4/entry-12051979598.html