土御門ミステリー 10の謎 (その6) | 阿波 発 京都 行 @どなり古事記研究会

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この国の起源と歴史を阿波から見つめなおして。

徳島~大阪~京都を往還しながら、全国各地へ出張取材。
折々にタイムカプセルをのぞく “行き当たりバッチリ” 訪問記です。

土御門ミステリー
土御門上皇をめぐる10の謎
ミステリー・6 法然の高弟:証空の謎

上皇さまの“ご親族”で、鎌倉仏教を牽引したひとりのお坊さんをご紹介します。

証空
(しょうくう; 證空
治承元(1177)年-宝治元(1247)年
念仏を弘めた法然の高弟で、西山浄土宗の祖。
独自に念仏宗を発展させていく親鸞とは違い、師の教えを忠実に守った人です。
上皇さまより19才年上ですね。

ミステリー・4の主人公だった “もう一人の蓮生” こと宇都宮頼綱が“常随40年”といわれるほど長く深く師事した高僧。
なにやら、とっても “匂う” のです。
どう匂うか、Wikipedia のプロフィールから見てみましょう:

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村上源氏の流れを引く加賀権守・源 親季の長男として生まれ、9歳の春、一門の長である久我通親 の養子となる。
14歳で元服にあたり発心して出家、法然の弟子となった。
以来法然臨終までの21年間、その許で修学することとなる。

久我 (こが) 通親*1 とは七代の天皇に仕え、村上源氏の全盛期を築いた公卿。
鴨川が桂川に合流するあたりの西岸の久我と呼ばれた辺りを所領としていたことから。
彼のまたの名は 源 通親、邸宅の場所から 土御門(つちみかど)通親 とも呼ばれます。

彼は二番目の妻の連れ子・在子 を融子*2 にします。
その在子は後鳥羽帝の妃となり、第一子が為仁~土御門帝の母となるのです。

つまり、血のつながりはありませんが、証空はこの通親を通じて上皇さまの母とは義兄妹、上皇さまは甥 にあたるわけです。

さらには、通親の嫡男・通宗の娘・通子が土御門帝の典侍 (ないしのすけ;秘書 兼 妻) となり、のちの 後嵯峨帝 を産みます。

通親は政略結婚や贈賄などでのし上がったダークな政治家のように評されることが多いようですが、その評価の根拠は対立関係にあった九条兼実の 『玉葉』 や九条家に仕えた藤原定家の 『明月記』 の記述によるもの。

結果としては、頼実を太政大臣に棚上げし、若い摂家の嫡男を左、右大臣に配したうえで、主導権は通親が握る体制が確立したわけで、通親の計画は順調に進んだ。
通親は任大臣を前にして急遽土御門邸に寝殿を造作し、四足門を立てて威福を誇り、爾後 「土御門内府」 と称されて、名実共に 「天下独歩の体」 を築きあげたのである。
『源 通親』 橋本義彦・著 吉川弘文館 p.141

シロではなくても、むしろ謀略と暴力の時代にあって、先見性とバランス感覚で京と鎌倉を誘導し、抜群の智力と肝力を発揮して生き延びた一流の政治家だということもできるでしょう。

上皇さまの“土御門”という諡号も、通親が整えた土御門邸に依るもの。
通親自身は上皇さま6歳のときに死去していますが、ミステリー・5 の定家が仕えた九条兼実とともに承久の乱に至る時代の重要人物なので、下の注で少し詳しくみてください。


さて、証空に戻りましょう。

一度見聞すればすべてを理解してしまった、という秀才ぶりを発揮。
法然の活動の集大成として編んだ 『選択本願念仏集』 の撰述にあたり、引用文との照合という重要な役にあたり、翌年には師・法然に代わって 九条兼実 邸 で 『選択集』 を講ずる。


師の推薦によって天台宗を学ぶ。
建暦2(1212)年の法然の死去により天台座主・慈円から譲られて東山小坂から西山善峰寺北尾往生院(三鈷寺)に移り住む。
以降12年間、京洛内外で連日講説に明け暮れる。

この慈円という僧も、なかなかの経歴です。

摂政関白・藤原忠通の子で、九条兼実の弟。
エリート天台宗徒で38才で座主になっています。
歴史書 『愚管抄』 の作者、というより、次の百人一首のうたで知られているでしょう:
 おほけなく うきよのたみに おもふかな
             わがたつそまに すみぞめのそで


証空の九条家とのつながりは比叡山との関係に及んでいたとみるべきでしょう。

嘉禄3(1227)年の 「嘉禄の法難」 に際して信空とともに流罪を免がれている。

嘉禄の法難(かろくのほうなん)は、法然の死後も人々の人気を集めていた念仏宗に対して延暦寺が攻撃したことによって、多くの関係者が流罪にされた事件。
蓮生が騎馬で“数百騎の兵力”を動員したときですね。

きっかけは文書での非難合戦で、延暦寺衆徒が念仏者の黒衣を破くといった行動にエスカレート。
天台座主が朝廷に浄土宗の僧を流罪に処し、東山の法然の墓を破壊して遺骸を鴨川に流すように訴えます。

ここで証空弁明書を朝廷に提出、おとがめなし。
他の高弟3人は流罪に処されました。

その後も延暦寺の僧兵が法然廟所を破壊したので、法然の遺骸を太秦・広隆寺境内にある来迎院(現、西光寺)に改葬。のちに火葬します。

証空が流罪を免れた理由に、慈円や九条家とのつながりがあったと考えるのが自然ではないでしょうか。
九条家は通親存命中はとは政治的ライバルでしたが、証空はその関係を超えていますね。

嘉禄の法難の2年後、寛喜元(1229)年に証空は蓮生ら数人の弟子と共に東へ旅(巡錫)に出ています。
中仙道で阿弥陀信仰で知られる信濃・善光寺~蓮生の郷里・下野の宇都宮~白河の関を越えて陸奥にまで足を伸ばしてから、鎌倉へ!
執権・北条家と御家人の蓮生は親戚ですから、そのなかだちで当時の執権・北条泰時 (在職:1224-1242年)と会わなかった、というほうが不自然。

ちなみに、そのとき上皇さまは貞応2(1223)年に移られた阿波・土成御所 におられます。
証空・泰時会談があったなら、上皇さまが幕府方に攻められて亡くなられた(ことになっている)1~2年前のことですね。
1229年には蓮生が57才、証空52才。北条泰時は46才で、みんな働きざかり。
上皇さまは33才です。

鎌倉から上田~高田~能登~小浜とまわられ、約2年に及ぶ旅を終えられました。

鎌倉・鶴が丘八幡宮に参詣されたときに詠まれたという歌が伝わっています。

 たたら踏む いもじがいがた 土なれど
           中にこがねの 仏こそあれ

“いもじ”は鋳物師で、“いがた”は鋳型です。鋳物師の鋳型は土であるが、その中に尊い黄金の仏像が納まっている。わたしたちは凡夫であって、その肉体は土のようなものだけれど、その肉体の中には尊い仏性が宿っているのだ。そのような意味の歌です。
『法然上人とその弟子西山上人』 ひろさちや・著 春秋社・刊 p.195

とてもストレートな歌ですね。
別にこじつけなくてもいいのですが、和歌らしくあえて深読みしてみると (八幡宮で仏というのも、あれ?と思えるので) 田舎ものの坂東武者である北条泰時だが、なかなかの人物ではないか、と評した歌、なんて可能性、ないでしょうか・・・。
そうも考えたくなる理由は、またのちほど。


寛元元(1243)年、後嵯峨天皇 の勅により歓喜心院を創建。
たびたび宮中に参内して講じ、菩薩戒を授けた。
宝治元(1247)年、道覚法親王のために 『鎮勧用心』 を、また大宮院のために仮名法語 『女院御書』 を著した。


菩薩戒とは当時主流となった大乗戒で、証空は上皇さまの息子・後嵯峨帝ととても深い信頼関係をもっていたようですね。
さらに気になる道覚法親王(どうかくほっしんのう)は上皇さまの異母弟

元久元(1204)年 - 建長2(1250)年 
鎌倉時代前期から中期にかけての天台宗の僧。父は後鳥羽天皇。母は尾張局。 
親王宣下後の入道のため、道覚入道親王(どうかくにゅうどうしんのう)とも。
出家して慈円・慈賢・真性などに天台教学を学んだ。
宝治元(1247)年に 天台座主 となり、翌年、青蓮院門跡を引き継いでいる。

承久の乱のとき、証空を頼って出家し、その弟子として27年間、つき従ったともいわれています。

ともあれ、証空は朝廷と幕府の中枢部、さらには上皇さまの縁者に深いつながりを持って活動したのです。


白河遣迎院において71歳で死去
門弟は西山三鈷寺 に葬り、塔を建てて華台廟と称した。
寛政8 (1796) 年には鑑知国師の諡号が光格天皇より贈られた。

ちなみに証空が亡くなったのは兼実の孫・九条道家(四条帝の外祖父)が提供したお寺の一堂、遣迎院(けんこういん)です。


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余談ながら当時の“出家”は、俗世との関わりを断つというものではありませんんでした。
道鏡や空海はともかく、後白河帝の時代に政策ブレーンとして活躍した信西西光のように、僧籍ゆえに自由に政治のど真ん中にいた政僧がすくなくありません。
そもそも譲位した天皇が“法皇”として大活躍した例から、むしろ加持力でパワーアップすると考えられたのでしょう。

この証空はむしろ宗教者、研究者としての業績が伝えられているので、当時の激しい政争に関わったわけではないようです。
それでも無関係だったとはいえません。
その傍証のひとつが、現在も使われている西山浄土宗の宗紋。
竜胆車(りんどうぐるま)、別名 「久我(こが)竜胆」というように、源 通親 の久我家の紋所なんです。
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久我竜胆とともに西山で今も用いられるのが法然上人の生家、漆間(うるま)家の家紋・「杏葉(ぎょうよう)」。
法然上人の父は美作(岡山)の豪族出身の押領使という警察権をもった官吏。
この紋は北部九州で繁栄した大友一族に伝わるものだそうです。
その家紋が使われていることからも、“出家”の意味が推測されようかというものです。





証空の拠点・西山三鈷寺は洛西、現在の長岡京市・・・
都市内からは離れますが、淀川を下るにも山陰道を上るにも不自由のない立地です。

そして土御門帝の御陵 「金原陵」 がその南方にあります。

さらにその南には後鳥羽帝の愛した 水無瀬離宮 がありました。

この立地も、なにか匂いませんか・・・。

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前に訪れた 土御門帝の御陵 *3 のレポートは前の記事をご覧ください:
長岡京の 『金原陵』 (1)  http://blogs.yahoo.co.jp/senkoin2002/30804435.html


私の仮説では上皇さまは 阿波 から蓮生の導きで一旦 伊予 に移られます。
ただ、その後、後嵯峨帝をはじめとする上皇さまの子女と鎌倉幕府との連携ぶりからすると、さらに密かに京都近くに移られた可能性が高いとにらんでいます。

上皇さまの叔父にして、宇都宮蓮生の師・証空。
その出自と学僧としての実力をもって、朝廷内で敵対する勢力どうし、そして鎌倉幕府にも太いつながりをもっていた人物の拠点近くに、上皇さまの御陵…。

この謎、どう思われますか?

***

*1
源 通親(みなもと の みちちか)
以下、Wikipedia から抜粋します。
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。七朝にわたり奉仕し、村上源氏の全盛期を築いた。
土御門
(つちみかど)通親 と呼ばれるのが一般的で、曹洞宗などでは久我(こが)通親と呼ばれている。
久安5(1149)年に村上源氏の嫡流に生まれ、10歳で従五位下。
村上源氏は堀河天皇の治世では外戚として隆盛を極めたが、その後は勢力を後退させていた。
父・雅通は鳥羽院政期は美福門院に近侍していたが、後白河院政では立場を転換し、仁安3(1168)年、後白河上皇の妃・平 滋子の立后に際して皇太后宮大夫となった。
通親も 高倉天皇 の践祚と同時に昇殿を許され、側近として奉仕。

通親の最初の妻は花山院忠雅の娘だったが、やがて平 教盛の娘(または通盛の娘)を二人目の妻とし、天皇の背後にいる平氏との関係を深める。
治承3(1179)年に蔵人頭、治承4(1180)年に参議・左近衛権中将となって公卿に列した。
高倉天皇は2月に譲位・上皇として院政を開始するが、通親は院庁別当として政務に未熟な上皇を補佐した。
通親は3月の厳島御幸、6月の福原遷都にも従う。

5月の以仁王の挙兵を機に全国は動乱状態となり、11月には平安京還都となった。
高倉上皇は
治承5(1181)年、崩御。
やがて平清盛が死去して 後白河院 が院政を再開するが、通親は特定の勢力の庇護に頼らず、院御所議定の場で積極的に発言し、精励することで存在感を高めていった。
寿永2(1183)年7月の平家都落ちでは後白河院の下へ参入して平氏と決別し、8月の 後鳥羽天皇 の践祚では神器がないことについて、中国の例を挙げてその実現に尽力した。
元暦2(1185)年に権中納言に昇進、源頼朝による改革要求において議奏公卿10名の中に選ばれた。
この頃に 後鳥羽天皇の乳母・藤原範子を妻に迎え、範子の連れ子 在子 を養女とする。
実力者・九条兼実との関係は悪くなかったが、保守的な兼実の執政下で昇進は抑えられた。
文治4(1188)年、通親は若輩の兼実の嫡男・良経の昇進に抗議、これを機に両者の関係は悪化。
翌年、通親は後白河院を久我邸に招いて種々の進物を献上。12月、後白河院の末の皇女(覲子内親王)の後見人となり、生母である 丹後局 との結びつきを強めた。
建久2(1191)年、覲子内親王が宣陽門院となると、通親は宣陽門院執事別当としてその家政を掌握し、院司に子息の通宗・通具を登用する。
宣陽門院は翌年の後白河院崩御に伴い、院領の中で最大規模の長講堂領 を伝領したが、これを実質的に管理した通親は大きな政治的足場を築く。

建久元(1190)年の頼朝上洛において、頼朝の右近衛大将任官の上卿を務める。
また頼朝の腹心・大江広元との関係強化を図り、建久2(1191)年、慣例を破って広元を明法博士・左衛門大尉に任じている。
通親は兼実に冷遇されている貴族を味方に、丹後局を通して大姫入内を望む頼朝に働きかけて中宮・任子を入内させている兼実との離間を図った。
建久6(1195)年、権大納言に昇進、さらに自らの養女・在子が皇子(為仁;後の土御門天皇)を産んだことで一気に地歩を固めた通親は、建久7(1196)年、任子を内裏から退去させ、近衛基通を関白に任じて兼実を失脚させた (建久七年の政変)

建久9(1198)年正月、通親は反対を押し切り、親王宣下のないまま土御門天皇の践祚を強行。
翌年、通親は自らの右近衛大将就任にあたり、頼朝の嫡子・源 頼家 を左近衛中将に昇進させることで幕府の反発を和らげようとし、自らの右大将就任と頼家の昇進の手続きを取った。頼朝が死ぬと政局は不安定になって通親襲撃の企ても起こるが、大江広元を中心とする幕府は通親支持を決定、通親排斥の動きは抑えられて内大臣に任じられる。
正治2(1200)年4月、後鳥羽上皇の第三皇子(後の 順徳天皇)が立太子すると東宮傅となり、義弟の藤原範光、嫡子の源通光ら、村上源氏と高倉家で春宮坊を固めた。
建仁2(1202)年に養女・在子の院号宣下(承明門院)の上卿を務めるなど精力的に活動していたが、10月21日に54歳で急死。

この大物の死は土御門帝がまだ6才のときです。

通親の死後、後鳥羽上皇を諫止できる者はいなくなり、後鳥羽院政が本格的に始まることになる。
通親は和歌の才能にも優れ、和歌所寄人にも任じられて後の 『新古今和歌集』 編纂に通じる新しい勅撰和歌集の計画を主導。
多くの和歌集に通親の和歌が採用されている。

上皇さまとは直接関係しませんが、曹洞宗の道元禅師 と上皇さまが親戚だというのもおもしろいものです。

最も歴史に名を残したのは、通親と藤原伊子との間に生まれた六男である。幼くして両親の死に遭遇したその少年は出家して道元と名乗る。彼が南宋から帰国して「曹洞宗」を開くのは通親の死から24年後の事である。

「通親という“節操なき腐敗政治家”」の子であることが道元の超潔癖な態度になったのだという見方もあるようです。

ただし、道元の両親が誰であるかについては諸説あり、通親と伊子を両親とする面山瑞方による訂補本『建撕記』の記載の信用性には疑義が呈されている。


*2 猶子(ゆうし)
兄弟・親類や他人の子と親子関係を結ぶ制度。漢文訓読では「なほ子のごとし」(訳:あたかも実子のようである)という意味。
中国における本義は兄弟の子の意味。養子との違いは、家督や財産などの相続を必ずしも目的の第一義とはせず、実力や「徳」に優れた仮親の権勢を借りたり、一家・同族内の結束を強化するために行われた。
具体的には、官位などの昇進上の便宜、婚姻上の便宜、他の氏族との関係強化が図られる場合に組まれるようである。そのため、子どもの姓は変わらない場合があったり、単なる後見人としての関係であるなど、養子縁組と比べて緩やかで擬制的な側面が大きい。
ただし、相続に関しての実際は明確な区別はなく、猶子であっても相続がなされる場合も多い。ときに両者をまったく同義で使用している場合がある。


*3
土御門天皇陵
「京都旅屋 ~気象予報士の観光ガイド・京都散策~」 による紹介記事を転載させていただきます:
金原の陵は後嵯峨天皇の即位以後、天皇の即位を報告する山陵使の派遣先の一つであり、鎌倉時代には重要な陵墓とされていたようです。
鎌倉幕府の滅亡などとともに陵墓は荒れ、江戸時代末の文久3(1863)年に修造されて、現在に至っています。
なお、嵯峨野の 二尊院 の中に、三帝陵 として、土御門、後嵯峨、亀山の各天皇の遺骨 が分骨されたという石塔があります。
二尊院を再興した、法然上人の弟子・湛空は、土御門天皇と後嵯峨天皇に戒律を授けており、後嵯峨天皇の子どもである亀山天皇の遺勅により、二尊院に分骨されたとのこと。
明治維新までは勅旨の参拝もあったそうです。

法然上人の同じ弟子から三代にわたって受戒されていたのですか。
この二尊院には定家の 時雨亭 跡というわれる場所もあるとか。
気になるお寺がまたひとつ、増えました…。
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