ホロコースト否認

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%AD%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88%E5%90%A6%E8%AA%8D


ホロコーストと見直し論


アウシュヴィッツ: 神話と事実


  http://www7.plala.or.jp/nsjap/v_b/07.html


http://www7.plala.or.jp/nsjap/v_b/revision.html


42847-315 「西岡論文・ナチ『ガス室』はなかった」考


http://www.marino.ne.jp/~rendaico/daitoasenso/taigaishinryaku_horocoosto_nishiokaronbunco.htm


Subject:38
ナチスの「ガス室」神話の起源

(抜粋)

「ブンド報告は1942年5月の第三週にロンドンの亡命ポーランド政府にこっそりと持ち込まれた文書だ。

報告は二つのガス処刑の噂を載せている。

 

一つは、一度に90名をガス処刑する特別自動車(ガス室)が使われているというもの。

 

犠牲者はガス処刑される前に自分たちの墓を掘らされたというから、これは、ガス・トラック(犠牲者を埋葬地に運び、その途中で彼らはガスを吸入して死んだと考えられていた)というよりも移動可能なガス室であったのであろう。

 

第二の噂はワルシャワでの活動に関するものであった。

 

ユダヤ人が毒ガス実験を受けたという。

 

ブンド報告の方も、1942年春にワルシャワから発せられた少なくとも二つの文書から成り立っている。

 

第一の文書は1942年3月16日付のワルシャワのユダヤ人労働者ブンドからの地下通信であり、西ポーランドでのドイツの活動を次のように描いている」


 
 

「多くの村で、ユダヤ人は毒ガスによって死に追いやられた。彼らはおそらしい方法で、ガス室に改造された密閉のトラックに集められた、50人ぐらいの家族集団で、まったく裸にされたままで・・・」



「そして、「毒ガス処刑」はポーランド中央部の都市「ウッジ」で実行されていると主張している。

ブンド報告の元となった第二の文書は、ワルシャワ・ゲットーでユダヤ人抵抗派と協力派が内部抗争をしていた時期の1942年4月30日付けのDerVekerの巻頭記事だ。

 

この記事はブンド報告の犠牲者数のもととなっている。

 

5月にロンドンに届いたブンド報告はユダヤ人犠牲者70万という数字を具体的に述べた報告で、6月にはイギリスBBCやアメリカのボストン・グローブやニューヨークタイムズで伝えられた」

 
 

 参考資料:June 2: BBC: 700,000 Jews killed in Poland
(アドレス:http://www1.yadvashem.org/about_holocaust/chronology/1942-1945/1942/chronology_1942_17.html#top)
In May 1942, a Bund underground activist in Warsaw, Leon Feiner, sent a preliminary report to London containing information on the murder of Jews in various parts of Poland. The report traced the path of the murder actions: town after town, district after district, month by month. It described the extermination center at Chelmno, including the gas vans, and estimated the number of Jews whom the Germans had murdered in Poland by May at 700,000 (the figure was much higher). Feiner stated that, in the absence of substantive actions to halt the murders, no Jews would survive in Europe by the end of the war. The report also urged the Allies to adopt a policy of retaliation against German citizens residing in Allied countries.
Feiner’s report was forwarded to the media and to the political echelon, including the Polish government-in-exile in London, and became the decisive factor in the eruption of reports on the mass murder and their assimilation in public opinion.
On June 2, the BBC broadcast the main contents of the report, including the estimate of the 700,000 murdered Jews. However, it did not stress the conclusion of the report: that the program to murder all the Jews was already being carried out. A week later, the Polish government-in-exile presented the findings of the report to the Allied governments in an official missive. On June 25, Samuel Zygelbojm, one of two Jewish representatives in the Polish government, released the entire document to the press. The Allied governments did not respond to these efforts, but newspapers began to carry the information with greater frequency. The Boston Globe and The New York Times presented prominent reports, including the assessment that the Jewish population was being systematically annihilated.
Shortly after this, two authoritative voices in Britain reinforced the Bund’s announcement. At a press conference, the Minister of Information, Brendan Bracken, stated that 700,000 people, all of them Jewish, had been murdered in Poland. He also proclaimed that, once the war ended, the "United Nations" would ensure the rapid and severe punishment of the persons responsible for the grievous war crimes that had been perpetrated in Poland against Jews and Poles alike. He fiercely criticized those who regarded the murder reports as propagandistic hyperbole. The truth is solid, he said vehemently, and the murder will eventually come to light.

 

(エキサイト翻訳)
1942年5月に、ワルシャワのBundの地下活動家(レオンFeiner)は仮報告書をポーランドの様々な地域でのユダヤ人の殺人に関する情報を含むロンドンに送りました。 レポートは殺人動作の経路をたどりました: 次々と町、次々と地区、月月。 それは、ガスバンを含むヘルムノの撲滅センターについて説明して、ドイツ人が5月までにポーランドで70万で殺害したユダヤ人の数を見積もりました(数字ははるかに高かったです)。 Feinerは、どんなユダヤ人も殺人を止める実質的な動作がないとき終戦までにヨーロッパで生き残らないと述べました。 また、レポートは、ドイツ人の市民に対する報復がAllied国にある方針を採るようにAlliesに促しました。
Feinerのレポートは、メディアと、そして、ロンドンにポーランドの亡命政権を含む政治上の段階に転送して、世論における大量殺人と彼らの同化でのレポートの爆発で決め手になりました。
6月2日に、BBCは70万人の殺害しているユダヤ人の見積りを含むレポートの主なコンテンツを放送しました。 しかしながら、レポートの結末を強調しませんでした: すべてのユダヤ人を殺害するプログラムは既に実行されていました。 1週間後に、ポーランドの亡命政権は公式の信書の連合国政府にレポートの調査結果を提示しました。 6月25日に、サミュエルZygelbojm(ポーランドの政府の2人のユダヤ人の代表のひとり)は全体のドキュメントをプレスに発表しました。 連合国政府はこれらの努力に応じませんでしたが、新聞は、より大きい頻度で情報を運び始めました。 ボストングローブとニューヨークタイムズは際立ったレポートを提示しました、ユダヤ人の人口が系統的に全滅させられていたという査定を含んでいて。
まもなくこの後、イギリスの2回の正式の声がBundの発表を補強しました。 記者会見では、情報相(ブレンダンBracken)は、ユダヤ人であることでその70万民族、それらを皆、述べて、ポーランドで殺害されました。 また、彼は、戦争がいったん終わると「国連」がポーランドで同じくユダヤ人とポーランド人に対して犯された悲しい戦争犯罪に責任がある人々の急速で厳しい罰を確実にすると宣言しました。 彼は猛然と殺人レポートをプロパガンダの誇張と見なした人々を批判しました。 真実は固体です、そして、彼は熱烈に言いました、そして、殺人は結局、明るみに出るでしょう。

「しかし、ブンド報告のソースになっている文書は死者の総数が70万とは述べていない。つまり、BBCと欧米メディアが流したブンド報告の70万の数字に根拠はないのだ。1942年4月30日付の「Der Veker」は詳細を述べることなく、毒ガス処刑の場所をウッジの北東にあるチェルムノ収容所と特定している。注目すべきことに、3月16日の通信では、入浴(裸体の強制)とガス処刑が結びつけられている。この2つは後にセットでたびたび登場することとなる。亡命ポーランド国民会議のメンバーの二人はジギエルボイムとシュヴァルツバルトというユダヤ人だった。彼らは、数100マイル離れたドイツの軍事占領下にあるユダヤ人に何が起こっているのか、当然関心を抱いていた。そして民衆の支持を集めるためにこのような風説を広めることにも関心を持っていた。占領軍であるドイツが悪者であればあるほど亡命ポーランド政府の存在価値は高まる。万が一、曲がり間違ってバルト三国のように「ドイツ軍はソヴィエト共産軍を追い出した解放軍だ」とされてしまったら亡命ポーランド政府の立場がなくなってしまう。このために、ブンド報告はメディアを通じて広く普及した。すでに、1942年6月24日、BBCがブンド報告を放送している。先ほどのソースだともっと前の6月2日には放送しているとあるから、たぶんこっちが先なのだろう。とにかくブンド報告が5月に届けられ、ロクに検証もされず、短期間でラジオ放送されたのだ。当時イギリスはドイツと戦争中だったから、反独プロパガンダはなんでも構わなかったのだろう。6月25日、英国新聞『デイリー・テレグラフ』は報告に関する大きな記事を載せているが、その見出しは「ドイツによるポーランドでの70万人の殺害」、「移動ガス室」というものであった。6月26日、ジギエルボイムはBBC放送でブンド報告の内容を伝えた。これはイェディッシュ語(アッシュナーケ系ユダヤ人の言語)であったから、明らかにポーランドのユダヤ人向けであった。1週間のあいだに、BBCはポーランド国民会議と話をつけ、国民会議は、これ以後の虐殺物語を報道する優先権をBBCに与えた。1942年7月1日、亡命ポーランド政府の英字新聞「Polish Fortnightly Review」がブンド報告の風説にもとづく報告を発表し、ここで、特定の収容所すなわちソビボルとルブリン近郊のマイダネクの名をあげた。さらに、アウシュヴィッツ労働収容所での虐殺をとりあげ、ここでは、約1000名のソ連軍とポーランド軍の捕虜が1941年9月にガス処刑されたと述べている。これがアウシュヴィッツ最初のガス殺処刑の報道だった。またこの新聞は、「パラディサルParadisal」という名のもう一つの収容所にも言及している。報告によると、その名前は「ここに、パラダイスに通じる唯一の道がある」ということにちなんでいるという。また、この報告は、パラディサル収容所の焼却棟はアウシュヴィッツの焼却棟の5倍も大きく、毒ガス実験がおこなわれていると論じている。このパラディサル収容所とは一体どこのことだろうか?そんな名前の絶滅収容所は存在しない。ホロコースト肯定派の学者ペルトによると、これはビルケナウのことだそうだ。だがビルケナウの焼却棟が登場するのは1943年のことで、1942年7月の時点ではまだ建設予定もなされてない時期だ。アウシュヴィッツに関する「Polish Fortnightly Review」の記事はブンド報告にはなかった。つまり、「Polish Fortnightly Review」の記事を書いた人間はビルケナウのガス殺を見たことがないどころか、焼却棟の存在すらロクに確かめずにガス殺を報道したということになる。この「パラダイスへの道」というパラディサルという単語は、のちにソビボルとトレブリンカの伝承の中に登場する「天国への道(Himmelfahrt)」 のもとになっているが、ビルケナウの歴史にはまったく存在しない。1942年7月にはあった噂が戦後には消えてしまったということだ。このような初期の説を眺めてみると、ガス処刑説が当時出されていた多くの絶滅説の中の一つにすぎないことは明らかである。この時点ではアウシュヴィッツは絶滅計画の主役ではなく、ただの一収容所に過ぎなかった。さらに、ガス処刑説が組織的な絶滅手段というよりも、実験的な措置と思われていることも真実である。指摘しておかなくてはならないもう一つの重要なことは、ガス室の初期の物語が数多く登場するにあたって、BBCが、ポーランドに起源をもつ噂を流すのに大きな役割を果たし始めたことだ。ラジオ放送はフィードバック効果を持ち、ポーランド起源の噂を繰り返すことによってそれに権威を与え、それがポーランドにふたたび持ち込まれて、ポーランドで様々な話を生み出していった。これらの放送はその場限りのものであるかもしれないが、大量ガス処刑の噂を広め、普及させていった点でのラジオの役割は、十分な考慮に値する。1942年7月16日までに、ガス処刑の風説が合衆国の新聞『ニューズ・レビュー』で繰り返され、ドイツはポーランド系ユダヤ人を殺害する「大規模なガス・ステーション」を用意しているとされた。報告は、ユダヤ人が「非睡眠薬」を投与され、「縛られたまま死んでいった」と述べている。この報告は、今日われわれが理解している説に近い。だが薬や犠牲者の縛り付けに言及しているように、ガス処刑は大量絶滅としてではなく、処刑の一つのかたちとされている。言い換えると、報告者はポーランドでのいわゆるガス処刑の手順をアメリカ合衆国での処刑手順になぞらえようとしているようにみえる」 

抜粋終了)

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Subject:39
ナチスの「ガス室」神話の起源 後編

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