世界最大の薬害は、何故糾弾されないのか?
国や厚生労働省は認めたケースには賠償しているが、コロナワクチン事業は相変わらず継続している


分かっているだけで、900人を越す方々がなくなっているわけだが、これも厚労省に届けがあったケースで、審査をして認められたものだけである。
未届けなど併せると死亡者のすそのはかなり広範囲に及ぶと推定されます。
私の同世代も食道癌、脳溢血、敗血症でこの世を去りました。友人知人に至っては、食道癌、甲状腺の病気
など枚挙に暇がありません。
こんなに集中してなくなったり病気なることは、確率的にはないと思いますし、出くわしたこともありません。日本人はもっと態度で示し、どんどん要求する必要があります。黙っている場合ではありません。







 

 

2020年3月16日 ヒドロキシクロロキンは問題なし。医師は使用に前向きだった。

2020年3月17日 トランプ大統領が言及。一夜にして "危険 "で "恐ろしい "となった。新しい研究もデータもなく、メディアがヒステリーを起こしただけだった。

多くの医師は好奇心がない。ただ命令に従うだけなのだ。






危機を作り出す計画があるから、それに対して準備をしろと言う誠に間抜けな奴らの企てにもろに引っ掛かってしまっている国民たち。


 

 

これまで裏権力を自分なりに観察して気付いたのはどうやら彼らは我々一般人とは「逆」の発想をするらしいという事である。例えば、一般人が「危機に備える」のに対し彼らは「危機の為に備える」。前者は危機に備える為に各種施策や制度作りを行うと考えるが、後者は危機を起こす準備としてそれを行う。


先日、「食料供給困難事態対策法」という法律が出来たが、これは普通の人なら「食糧危機に備える為だ」と考えるかもしれないが、裏権力側は「これから食糧危機を起こす予定があるから、その為の準備として(日本の政治家に)作らせる」と考えているかもしれないのである。こういう思考があり得ると想定


していないと、権力者の説明をそのまま鵜呑みにしてしまい、全て無批判に受け入れるという事になりかねない。裏権力の思惑に乗せられたまま踊らされる事になると思う。絶対にそうだと決めつけるのではないが、「そういう思考があり得る」と想定する事で、自分の思考が柔軟になり簡単に騙されなくなる。


ネオコンのシンクタンク・アメリカ新世紀プロジェクト(PNAC)は「アメリカ防衛再建計画」なる文書の中で「米国の軍事改革の為には真珠湾攻撃並の破滅的出来事抜きには長期を要するだろう」という趣旨の事を述べたとされる。危機に備えて改革が必要なのではなく改革の為に危機が必要という発想である。


「パンデミックに備える為に惑沈を打つ」のではなく「惑沈を打つためにパンデミックを備える」というのが裏権力の発想だと見る。コロナ騒動の2か月程前にイベント201というシミュレーションが行われた。裏権力の思惑通りに踊らされない為には、我々が当たり前とする思考方法を相対化する必要があり。


「アジア版NATO」についても裏権力の発想では凡百の保守派の発想と異なり、「日本を中国の脅威から守る為」ではなく「日本を中国との戦争に投入する為」ではないかと疑う事が肝要である。欧州の権力支配層と中国支配層は繋がっているので、日本を東亜の両建紛争に巻き込む魂胆と見るのが妥当と考える。


とにかく裏権力は「逆」の発想をすると思われるので、彼らを分析する際には我々一般人の思考枠組みを一旦カッコに入れて相対化する事が重要であると考える。彼らの思想では歴史とは事象の積み重なりの結果として形成されるのではなく、設定されるゴールから逆算して事象を引き起こす事だと思われる。


裏権力の企みに言及すると、「何のメリットが?」と言われる事があるが、我々一般人がメリットと思わない事でも彼らはメリットと思うかもしれない。自分の思考枠組みを絶対視していては「他者」を分析出来ない。相手の立場になって考えるというのは、優しい場面だけでなく巨悪を暴く際にも必要である。


犯罪者の思考や心理を推測する事が犯罪捜査に有効なのと似ている。「私は善良な人間だから犯罪者の思考など分からない」と言っていたのでは犯罪の捜査は出来ない。それと同じで、我々一般人とは異なる裏権力の思考・発想を推測し想像する事が、彼らの企みを暴く事に繋がるし必要な事であると考える。


一般人の思考法と裏権力の思考法の違いの考察の続き。仮に一般人の思考法を思考法A、裏権力の思考法を思考法Bとする。思考法Aと思考法Bは非対称な関係である。つまり、Bの領域からはAが見えるが、Aの領域からはBが見えない構造になっている。ここに後者の前者に対する支配・被支配の関係が成立する。


この支配・被支配の関係を打破するには非対称な関係を破る必要がある。その為にはAがBの領域を知らなければならない。一般人の思考領域から裏権力の思考領域を認識し分析するには自明としている思考法Aを相対化する必要がある。Aを飛び越えてBを認識しようとするとそれは「陰謀論」と呼ばれる。


一般人が裏権力支配を打破するには一般人の思考領域を飛び越えて裏権力の思考領域を知る必要がある。兵法で言う「敵を知る」重要性である。だが、裏権力側はそれが裏権力支配を動揺させると理解している故に、そこに様々な罠を仕掛けていると思われる。「陰謀論」というレッテル貼りもその一つである。


一般人の思考領域Aから裏権力の思考領域Bを認識させないための罠。・裏権力の思考法Bを認識分析しようとする思考法を「陰謀論」と決め付けて信用を貶める。・メディアの情報操作で一般人の思考をBから逸らす。・インフルエンサーなど著名人に誘導言説をばら撒かせて真相に辿り着けないようにする。


・各種思想ツールで一般人の追及者を洗脳して逆に裏権力の援兵化する。追及者が裏権力の思考領域を認識しようとする過程で向こう側に取り込まれて、裏権力の思考に同調させられてしまう危険がある。裏権力の思考を認識するとはあくまで客観的に認識理する事であり、その思考を受け入れる事ではない。


我々一般人の追及者が裏権力の思考を認識するとは。裏権力の思考を客観的な「事実」として「認識」「分析」し、「道理」に基づいて「批判」する事であると考える。彼らの思考を「認識」する過程で十分な「批判」が伴わないと、向こう側に思考が同調し取り込まれてミイラ取りがミイラになる危険がある。


例えば、ある思想を客観的に認識・理解する事と、その思想を価値判断して自分のものとして受け入れる事は全く異なる。異なるのではあるが、区別が曖昧になりがちで、いつの間にか思考が同調し対象に取り込まれてしまう人は多いと思われる。対象との間合いを取り批判を忘れない事が重要であると思う。


先述の「罠」には勿論、今政府が巨大IT企業と組んでやろうとしている言論統制も含まれる。一般人が自分で考えて裏権力の思考を分析・批判するには、多種多様な情報や言説を参照する必要がある。その為には言論の自由がある事が大前提となる。だから裏権力及びその走狗は言論の自由を破壊しようとする。


確かにネットの情報は玉石混交だが、だからこそ自分で考えて正しい情報を得る努力をする必要がある。その中で分析力や批判的思考が鍛えられる。権力者が「正しい」と決めた情報だけが世の中に流通するようになると、人々は自分で考えなくなり、権威権力が認めた情報や言説だけを受け入れるようになる。


言論の自由が大事なのは「言論の自由」なる観念の有無とは関係なく話す事・言語活動が文化文明の基礎であるからだと考える。人が高度な思考を出来るのは他者との言語的交通によって言葉を習得しているからだとすると、言語活動を制限されると「内語」で行われる思考もその範囲内に制限される事になる。


裏権力及びその走狗が言論の自由を制限したがるのは、人々が発する言葉を制限する事で思考までをもその範囲内に制限し従順な状態にする為だと思われる。「偽情報対策」は単なる口実。間違った情報を正すのは権力的取り締まりではなく人々が発する正しい情報のみである。その為には言論の自由が不可欠。


「道義」「道理」という言葉に使われる「道」という字には「言う」という意味があるようだが、世の不正は言葉によって正される。間違った情報や道理に合わない言は権力による取り締まりではなく公の議論によって正されるのが筋。そうした公論を避けている連中程「偽情報対策」を声高に叫ぶ傾向がある。


公の議論を避ける者ほど権力的に異論を潰そうとする。権力者の命令ではなく話し合いによって事を決するのは「民主主義」を持ち出すまでもなく元々の日本の「伝統」と言える。「和」というものがあるとすれば、権力者の命令で口をつぐむ所にではなく、忌憚なく議論し話し合う所にあるものだと考える。


最近のSNS規制の主張には「政府やメディアは正しい」という暗黙の前提がある。彼らが間違っていたら国民が追及する必要がある。SNSはその為の有力な媒体になる。SNSには誘導も多いが、それを正すのも国民の情報発信である。微力ながらその為に自分なりに情報発信し工作員とも戦ってきたつもりである。