しばらく離れてみて分かること | 【千葉・オンライン】 はじめのいっぽのブログ

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しばらくmamaマスのメーリスから離れていました。

自分が重きを置く場所が違う、と感じたから。
たくさん気持ちを出せてきました。
たくさん素を出してきた。
出しても来たが、アドバイスや意見も
たくさんくれていた。
けれど、
何か充足感がない。
求めてみたけど、どうも「違う」らしい。

ある事象から、
ちょっとここ(安心する場)から離れよう。
と決めた。

最後は誰でもない。自分だよ。

って。

それから、夜な夜なノートに気持ちを出した。
そして、どんな自分もいいんだ。
大丈夫だ。と書いた。

たくさんたくさん、ヨシヨシ。
たくさんたくさん、いいんだ。いいんだ。
どんな🌑🌑なワタシでもマル、とした。

翌日目が覚めてから、
なんだかすごくサッパリした
清々しい感じがした。
身軽になれた気がした。

すると、求めなくなった。
今まで欲しい欲しいと求めていた気持ちが
スーッと昇華した感じ。

「真ん中(中庸)」に
戻れた気がした。

それは、甘えてきた(認めてもらうために依存していた)場から
「離れてみる」を選択しなければ
分からなかったこと。

ありがたい場だ、素を出してみる場だ、
というチャレンジする場が、
いつのまにか私の中で、
依存の場になってたことに気がついた。

いつまでも満たされなかったのは、
誰かに満たされることを委ねていたから。
自分で満たそうとしなかったから。

自分で自分をみとめていくために、
私に集中する必要があった。

その中でも気づかされたことはあって、

私が離れても大丈夫だった。
離れしまっても愛されてることにも気づけた。

「ないない、私にはない」と探していたけれど、
メーリスを振り返ると、
たくさんの「実はあった」を見つけられた。
最初も最中も、気づけなかった。
やっぱり離れて客観的に見ないと気づけなかった。

それも全て「やってみた」から分かること。
「損しても」「怖くても」
やってみることだと体感できた。

どれだけ他人軸だったんだ。

でも笑えて見つめられた。

どれだけ他人にみとめられても、
どれだけ他人に賞賛されても、
やはり「ワタシが」
ワタシをどうみて、どう扱っているか。
そこが変わらない限り、
いつまでも変化はしないらしい。

何十年も「ワタシ流」の考え方、
見方パターンが続いていたから、
急に全て切り替えることは難しい。
だけど、
今までの方法では生きづらい。から、
違う方法を採用してみる。
したら、あら?ちょっと軽くなった。
このうっすらとしたものでも
手応えが感じられたならば、
また同じパターンに思考が陥りそうでも、
「切り替え」が、できるようになる。
最初は(今)手動切り替えだけれども。

そして、実は最初のうちから、
ワタシは●●はできない。
って、「できないことはできない」と
言っていた(笑)。

なのに、意識しながら、無意識にも
ガンバってガンバってガンバっていた。

最終的に、
やっぱり、
できないことはできない。
落ち着いたわけだけど。

「できない」現実に最初のうちに感じていた
焦りとか不安は、もう全然ない。

ワタシのペースで
ワタシがやりたいように
していればよいのだ。

そうしていても、愛されてるらしい。

まだ、
ワタシは自分のことで
いっぱいいっぱい。

それでもワタシは「大丈夫」。

ここに気づけただけでも、
ワタシはmamaマスに参加できて
本当に本当に良かった。