桓武平氏をチェックしてみた4四男は土佐へ | MERKABA~マカバ~

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高望王(平高望)が上総介として都を離れたのは898年。3人の息子を伴ったが、高望には、ほかにも息子がいた。

四男・良広(良弘)は、紀夏井(きのなつい)の娘・久米子を妻とした。

紀夏井は第55代文徳天皇の信頼を得た文官で、第56代清和天皇代には地方官として、讃岐(現:香川県)守、肥後(現:熊本県)守を勤め、善政を行い領民にも慕われていたという。

ところが、貞観8(866)年に「応天門(大内裏の内側、朝廷内での政務・重要な儀式を行う場であった朝堂院の正門)の変」が起こり、夏井の異母弟の紀豊城が共謀者として逮捕され、夏井もこれに連座、官職を解かれて土佐(現:高知県)国への流罪となった。

この紀夏井と共に、平良広も流され、都に妻子が残された。

この「応天門の変」では、大納言・伴善男(とものよしお)が首謀者とされた。伴氏は第53代淳和天皇が「大伴親王」であったため、畏れ多いと「大」の文字を外した、古来、大伴氏であった、物部氏と共に朝廷の軍部を担い、第21代雄略天皇代には大連という古い氏族。

また、紀氏も第8代孝元天皇にと木国造(きのくにのみやつこ)の祖・宇豆比古の妹、山下影日売の間に建内宿禰(武内宿禰)が生まれ、その建内宿禰の7人の息子のうちの1人・木角宿禰(きのつぬのすくね)が木臣の祖ということで、古くから木国造系の紀氏と木角宿禰系の紀氏がいるという、これもまた由緒のある氏族なのである。

夏井の家系は辿ることができなかったが、第49代光仁天皇(白壁王)の母は紀諸人の娘・橡姫(とちひめ)だった。父である施基(しき)親王は第38代天智天皇の第7皇子で光仁天皇が8歳のときに亡くなっている。

紀諸人は光仁天皇即位後に太政大臣を贈られ、紀氏はその後、第50代桓武天皇の後宮に女御、宮人が1人ずつ送ったが、女御は子供に恵まれず、宮人の生んだ明日香親王は三品・上野国太守となっている。この明日香親王の母・紀若子(きのわかこ)は『古今和歌集』の編者の1人、紀貫之に続く家系。

藤原氏の策略にはまり、朝廷内での由緒ある氏族・大伴氏と紀氏が朝廷から排斥されたのが「応天門の変」。

さて、平良広は、土佐で新たな妻・物部紗和を得て、木津賀の伊勢宮から外宮稲霊を迎えて長浜宇賀谷に宇賀神社を創建した。祭神・宇賀神は朝廷から神階を賜り、紗和との間にもうけた子供が神職として留まり、四男が宇賀氏を名乗った。良広は土佐で生涯を終えたと宇賀氏の歴史は伝えている...が...年代がマッチしないと思う(^^;

夏井は隷書が得意な人物であったというから、四男・良広は武功を立てるというより文官向きだったのかもしれない。

宇賀神は食べ物の神様↓