公家についてちょっと。 | MERKABA~マカバ~

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公家(くげ)というと、朝廷に仕える貴族や上級官人の総称で、烏帽子と黒い装束で集まってるイメージがあるけれど、それは公家の中でもトップクラス。

幕末まで存続していた広い意味での公家は堂上家(どうじょうけ)と地下家(じげけ)に二分される。一般的に公家と言われるのは堂上家で幕末には137家が存続していた。ちなみに地下家は約460家が残っていた。

堂上家とは、御所で天皇の住まいとされた清涼殿にある殿上(てんじょう)の間に昇殿できる資格を世襲する家で、公卿(くぎょう)となり律令の規定により国政に関わる職位につける可能性がある。

「公家」は本来、天皇や朝廷を指す言葉で「こうけ」「おおやけ」と読んだが、鎌倉幕府が成立し、武力で天皇に奉仕する幕府が「武家」を称したことに対して、大和朝廷成立以来、朝廷で培われてきた伝統や文化、教養、法令などの文治で奉仕する貴族や上流官人を「公家(くげ)」と称した。

「公家(くげ)」という呼称が定着する前までに失脚・没落した貴族は多く、また鎌倉時代以降も断絶した公家はある。家督を継承する子孫がいない場合や継承者が出家してしまうこともあった。

近衛家、九条家、二条家、一条家、鷹司家の5家を摂関家、その下に
清華家(せいがけ)9家(うち藤原北家7家)
大臣家3家(2家)
名家(めいけ/めいか)28家(25家)
羽林家(うりんけ)66家(55家)
半家(はんけ)26家(2家)が幕末まで存続。

5摂家はもちろん、カッコ内は藤原北家なので、137家のうち約7割の96家が藤原氏。

鎌倉時代以降は5摂家が摂政・関白を独占、清華家は太政大臣までは昇任でき、娘が皇后になる資格があるのは、摂家と清華家のみ...と昇任の限界などによる家格が定められていた。

豊臣秀吉が関白となったのは、関白や左大臣を務めた近衛前久(このえ・さきひさ)の猶子(ゆうし)となったから。猶子とは漢字の意味からは「あたかも実子のようである)となる、兄弟・親類や他人の子と親子関係を結ぶ制度。養子との違い、家督や財産などの相続には重点はなく、昇進や婚姻のための便宜の親子関係。

江戸時代には名家と羽林家が大名家に与えられる家格に相当するとされていたから、武家政権が成立したといっても、公家の格は保たれていたと言える。

政治の実権が武家政権に奪われて以降、公家が何をしていたかというと、有職故実(ゆうそくこじつ)、それは、古来の先例に基づいた、朝廷や公家、武家の行事や法令・制度・風俗・習慣・官職・儀式・装束などのこと、また、それらを研究することで、日本人の大好きな?前例にこだわるのは、長らくの公家の習慣なのではないかと思ったりする。

半家26家は鎌倉時代以降に特殊技術をもって朝廷に仕えた家なので、和歌、俳諧、神楽、神祇道(神道)、明経道(みょうぎょうどう:儒学)、陰陽道、医道、文学など職掌が明確。

桓武平氏の流れを汲む公家・5家のうち、3家は名家、2家は半家となっている。

明治になって、137の堂上家と例外的に地下家の幾つかが華族となり、公家の家格に乗っ取って、公爵(摂家)、侯爵(清華家)、伯爵(大臣家)、子爵(名家、羽林家、半家)となった。


華族制度は昭和22(1947)年に廃止されたが、伊勢の神宮の大宮司は鷹司氏、京都の平安神宮の宮司は九条氏、日本赤十字社の社長は近衛氏...と、消滅したわけではない。