シューマンのあの頃の情景 | コンサートホールのお話など

コンサートホールのお話など

レセプショニストとして働いているコンサートホールでのお話や、クラシック音楽やとりとめのないことなどを綴っています。



≪前回の続きです≫

1830年10月
シューマンはクララの実家、ライプツィヒのヴィ-ク家の2間続きにはりきって引っ越してきました。そこにはシューマンの強い決意と母の深い愛情・理解がありました。

法科学生としての大学生活を終え、自分の本当のやりたいこと、これからは一生の仕事として音楽に専念したいと強い決心をし、母親に手紙を送って気持ちを伝えたのでした。

母は、クララの父ヴィ-クに「音楽家としての将来性について、率直な意見」を求めたところ、当時のシューマンに必要なのは”冷静なメカニズムの征服にあるので、彼とみっちり学ぶとともに、ヴァインリッヒについて正規の音楽理論を忠実にやる決心をすれば、将来は保証する”という見立てでした。

「彼の才能と想像力により、必ず3か年のうちに、現存する大ピアニストの一人に養成するため、喜んでご子息をお引き受けします。」という返事が来たのでした。

今では作曲家シューマンとして知られていますが、元はピアニストの道を目指していて、彼の無茶が原因で指が使えなくなってしまったことは、知る方も多いでしょう。

そんないきさつでヴィ-ク家にやってきたシューマン。

とてもヴィ-ク家では人気者になったそうです。音楽上の刺激も豊かで、家人とも親切な友情があふれ、またとない幸せな日々を送っていました。

子供好きなシューマンは、クララと二人の弟たちから絶大な人気がありました。外でお散歩したり、いつも遊び相手になってやりました。この頃のシューマンの日常に、あの情景はみられたのでした。

「妖魔や幽霊や鬼婆の話を作りあげて、子供たちの心をいつでもとらえることができた。この種の怪談には、いつもたそがれの時刻がえらばれ、彼は話の効果をあげるためにランプを床の上におろして、薄暗い奇怪な影をつくったり、子供たちだけを部屋にのこしておいて、突然毛皮裏の外套を裏がえしに頭からすっぽりかぶって現れたりする。こうした彼の努力は、夢中になって息を呑んできいている子供たちの、不思議な光に輝いているひとみを見るときに、十分に償われるのであった。」

クララ11歳、シューマン20歳の頃の話でした。
このような具体的な情景を知ればまた、あのトロイメライも違って聴いたり、弾いたりできる気がしませんか。子どもたちの声や、潜めた息遣いや、キラキラした瞳、シューマンが毛皮を被って現れる様子とか…きっと、シューマン自身も子供のように本気ではしゃいでいたことでしょう。

本当は嫌だった法律家への道から、ようやく母にも打ち明けピアニストとしての将来のお墨付きをもらい、音楽豊かな環境、ヴィ-クの家族との信頼関係を築いた生活。父ヴィ-クともクララを巡っての確執もなかったこの頃。シューマンの一生のほんのひと時、とても幸せな一時代だったのではないかなと想像します。

   続く