四つの厳粛な歌~背景 | コンサートホールのお話など

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レセプショニストとして働いているコンサートホールでのお話や、クラシック音楽やとりとめのないことなどを綴っています。

四つの厳粛な歌について、はっきりとブラームスがクララのために書いたのだという認識は、私個人では詳しく調べ上げた訳ではありませんが、どうやら大変に薄いような印象があります。


しかしながら、私は、はっきりクララのために書いたのだと言い切っていいと思います。作曲と、クララの死の時期が少し前後していることもあるのでしょうけれど、それには下記のような経緯がありました。


1896年3月26日、クララはごく軽微な脳溢血の発作が起こり、どんどん悪くなっていきました。言語も動作も、不自由になってしまいます。


ところが4月に一度経過が良くなり、夏をバーデンで過ごすことを提案するほどになっていました。このことを、ブラームスと共に親密なつきあいのあったヨアヒムが、その時ウィーンにいたブラームスに報告の手紙を出します。


『フランクフルトからシューマン夫人について吉報がありました。神に讃えあれ!彼女を失うことを思うと私は身が震えます。』


この手紙に返したブラームスの返事はこうでした。

『あなたが書かれたことは、私には悲しく思われません。私はシューマン夫人が彼女の子どもたちや私が死んで後も、生き残れるのではないかと、しばしば考えたことがありましたが、これは私のような者でも、彼女を失う思いをもはや恐れてはおりません。彼女が逝けば、長いわれわれの生涯に、相知る幸福をゆるされ、ますます愛し、尊敬した、栄光に満ちた女性を思うたびに、われわれの面は輝かされるのではないでしょうか…。』


ブラームスは、クララを訪ねて行けば、自分の訪問がクララの養生の邪魔になったり、必要以上に刺激することを恐れながらも、長女マリエにクララに会いたいと手紙を書きました。


ですが、マリエから来ないようにという返事をもらい、ブラームスはオーストリアのイシュルで過ごしました。しかし、何をしていても死の床にあるクララが気になり、そんな時には聖書を読みました。


ブラームスはクララにとって、死は怖いものではないこと、清く優しいクララの魂に永遠の平和が与えられることを知っていました。その清純さはブラームスにはこの世のものとは思えず、クララは自分を守るためにつかわされた天の使いであったとさえ思い、そんな思いにぬれながら聖書から歌詞を得、死を歌う歌曲を書いて焦燥を紛らわしていたのです。


この後のクララの死までのエピソードも語りたいですが、長くなりますので割愛させていただくとして、5月16日に、クララは再び強烈な脳溢血の発作を起こしてしまいます。


5月20日、午後4時21分、クララは77年の人生に幕を閉じました。


「5月20日。母は今日、静かに永眠致しました。

マリエ・シューマン」


ブラームスがこの電報を受け取ったのは、22日のことでした。ウィーンから回送されてくるのに手間取ったそうです。


ブラームスはクララを思いながら作曲した新曲の歌曲の草稿を鞄にいれて、急ぎ、ウィーン=パリ間の急行に乗ったものの、途中時間に手間取って、フランクフルトに着いた時には、告別式が終わり、ボンで埋葬式があると知ります。


36時間も汽車で旅したブラームスがボンの礼拝堂に駆け付けた時には、ちょうど出棺するところだったそうです。


クララのお葬式後。ブラームスはライン河畔の親族宅で、友人たちとクララの愛した音楽を演奏して過ごしました。その多くがローベルト・シューマンと、そしてブラームスの室内楽の作品が多く選ばれていたようです。


最後に、『四つの厳粛なる歌曲』を取り出し、自らピアノ伴奏をしました。しかし涙が頬を後から後から伝わり、弾く手もとどまりがちであったそうですが、それは不思議な、心を打つ光景であったそうです。


    ♪   ♪   ♪   ♪   ♪


この『四つの厳粛なる歌曲』の歌詞は全てドイツ語訳の聖書から引用されているものです。日本語訳を載せたいと思いましたが、リンクを貼るにはきちんとした手続きをした方がよさそうだったので、断念しました。興味のある方は、検索くだされば、すぐに見つかることと思います。