明るく観る | コンサートホールのお話など

コンサートホールのお話など

レセプショニストとして働いているコンサートホールでのお話や、クラシック音楽やとりとめのないことなどを綴っています。

ある本で面白い表現に出会いました。本から引用しつつ、お話をご紹介致します。

このような出だしで始まります。


『一つの同じことが、甲の人には不平の源であり、一つの同じことが、乙の人には喜びの泉である。』


娘二人を嫁がせた母親を描いた昔話です。一人の娘は草履屋へ、もう一人の娘は傘屋に嫁いで行きました。


その母親は、雨が降ったら、草履屋に嫁いだ娘を想って

「こんなに雨が降ったら、草履が売れないだろう、可哀想に!」と歎き、

晴れが続けば、傘屋に嫁いだ娘を想って

「あぁ、可哀想に。こんなに天気が続いては傘がちっともうれやしない。」と憐れんでいたそうです。


あるとき、それを聞いた人に

「雨が降ったら嘆き、天気になったら歎きしないで、雨が降ったら傘が売れてありがたいと思い、天気になったら、草履が売れてありがたいと思ったらよいのに!」


それを聞いた母親はその後、とても幸せな気持ちになった、という話です。


バカバカしい話のようでいて、同じことでも「どうみるか」によって全然違った結論になるということを知らなければならないということ、とあります。


「知る」ということは、今の時代なら、インターネットやテレビのニュースで瞬時にたくさんの人が同時に「同じ情報を得る」ことができるように、それは、同じ世に、同じ時代に住みながら知るのですが、それなのに、ある人は繁栄し、ある人は失敗し、没落していく違いが出ます。


どう判断し、どう行動するか、です。


それは、

『人間は五官で知る、眼耳鼻口皮膚で知ることは大体同じことですが、そのどの部分を、認識の中に入れるか、という選択は、その人その人がするのです。』と、書いてあります。


著者自身も

『 「目で見る」「耳で聞く」 と思っていました。』ということで、

「目を通して心でみる」

「耳を通して心で聞く」

ということを次のように解説しています。


『耳があれば聞こえるのは聞こえますが、心が聞くように働かないで、ただ聞こえているだけでは、ほんとうに聞いたことにはなりません。たとえば、皆さんが眠っている時には、周囲の音や声が、聞こえているはずですが、心が働いていませんから、聞いたことになりません。他の五官でも同じことです。』


つまり、「見る」ということは「観る」、「観る」とは「心でみる」という意味です。同じことを見聞きしても、心を通して見聞きした時点で、人それぞれに選択・認識が色々と違ってくるというのです。


明るい半面を観ることの出来る人は、自分の心が明るいから、明るい半面を観ることができ、その方向に進んでいけば、光を求めて伸びていく植物がどんどん成長するのと同じように、


『明るい方へ、明るい方へと自分を進めていくように、自分を方向づけすること』こそが成功・繁栄への道のようです。


それは、まだ漠然としていますが、音楽が心に響くのは、身体(や、技術)を使って演奏する奏者と五官の耳で聴く聴き手が、共に心を通して音楽を共有するのに似ている気がします。