題名そのものは人口に膾炙(かいしゃ)しており、おおよその設定やテーマについても多くの人が知っている。だからこそ、作品そのものを読んでいなくても解ったつもりになってしまっている、という作品が、とくに海外の古典作品に多いのではないか、と気づいたのが始まりだった。
「知っているが読んでいない」
そのテーマで、前回は早熟の天才メアリー・シェリーによる『フランケンシュタイン』を取りあげてみた。
今回は、その『フランケンシュタイン』に勝るとも劣らない知名度の、
ロバート・ルイ・スティーヴンソン著
『ジーキル博士とハイド氏』
について語ってみたい。
英国で初版が出版されたのは、1886年。
原題は‘The Strange Case of Dr Jekyll and Mr Hyde’
直訳すれば『ジーキル博士とハイド氏の怪事件』だ。
おれの手もとにあるのは、大谷利彦訳の角川文庫版。昭和57年(1982年)7月30日発行で、そのときにすでに37版。
かつて古本屋で「50円」で購入したものである。
今回あらためて再読したが、なんといっても文字が小さい!
すでにページの端が茶色に変色していることもあり、読んでいて、眼球がやや疲労した。
若いころは、このサイズの文字を、なんの苦もなく読んでいたんだよな~。
また「ジキル」という表記をされることも多いと思うが、ここでは、Jekyllという原語と、(たまたま)手に取った大谷氏の訳に敬意を表し、「ジーキル」という名称で統一する。
さて、この「怪事件」はいかなるストーリーをもって語られているのだろうか?
主な語り手は、冒頭から登場する「アタスン弁護士」であり、物語の大半は、この弁護士の視点で述べられているのだが、アタスン弁護士と、その従弟のリチャード・エンフィールドがともに散歩に出かけた折、エンフィールドが数日前に遭遇した異様な暴行事件の目撃談をアタスンに話して聴かせるところから物語は始まる。
その事件(なんと、通りすがりの幼女への発作的な暴行事件)の現行犯こそがハイド氏だった。
ハイドはすぐに、エンフィールドや被害者の家族、その他現場に居合わせた通行人などによって取り押さえられるのだが、ハイドはまったく悪びれもせず、平然と開き直り、金でカタをつけると言い放つ。
だが、その高額小切手の振込人は、高名なヘンリー・ジーキル博士であり、ジーキルはアタスン弁護士にとって古い友人であると同時に、奇妙な遺言状の管理を依頼してきた依頼人だった。
その遺言状というのが、ジーキル博士の身になにかあった際は、エドワード・ハイドなる人物に全財産を相続するという奇妙奇天烈な内容だったため、アタスンの悩みのタネとなっていた。
どこの誰とも得体の知れないハイドの名が、悪質な暴行事件の犯人として、唐突にアタスンの前に登場した。
ハイドがそのような悪辣漢とわかった以上、アタスンとしてもよもや黙ってはいられない。
「医学博士、民法学博士、法学博士、王立協会会員、等々」(P16)の輝かしい肩書きを持ち、世間の尊敬を集めるジーキルは、、まったく住む世界がちがうように思われる悪鬼ハイドを、手厚く庇護しようとしている。そのジーキルのようすに、アタスンは、エンフィールがそう見立てたのと同様、ジーキルがハイドに弱みを握られて強請られているのではないかと推察する。
果たして、ジーキルとハイドとの関係性は・・・。
・・・という、なかなかスリリングで、テンポのよいオープニングだ。
もちろん、多くの人たちは、この作品が「二重人格」を扱ったものであること、および、ジーキルとハイドの関係も「知っている」。ただし、知っているといいながらも、その理解には微妙な齟齬(ずれ)があるかもしれない。
なんとなく流布しているのは、ジーキルが「善の象徴」であり、ハイドが「悪の象徴」という図式である。「ジキルとハイド」=「善と悪」というイメージだ。
しかし、実際に描かれているのは、
「ジーキル:善 vs ハイド:悪」
という単純な二項対立ではない。
ジーキル本人の表現を借りれば「善と悪との混合体であるジーキル」(P92)なのだ。
「はなはだしい二重人格者」(P81)の自覚のあるジーキル博士は、あるときから、自分の裡にある「邪悪な性格」「悪しき慾望」の解放を渇望しはじめ、「善悪の二要素を分離する問題を楽しい白昼夢として耽溺するようにな」(P81)る。
そこで、秘められた「慾望」を薬の効果によって解放することを目論み、そしてその願望を実現するための妙薬の開発に成功する。
その薬理効果によって現出した「ジーキルの悪の人格」こそがハイドである。
エドワード・ハイドと化した私に始めて近寄る者は、必ず肉体の恐怖に身震いするのがわかった。思うにその理由は、我々が日常で会う普通の人間が善と悪との混合体であるのに、エドワード・ハイドだけは、人類の全階層を通じてただひとり純然たる悪の権化であったからであろう。(P85)
「2人」は同じ肉体と記憶を共有しているはずなのだが、人格や品性が変容するだけではなく、ジーキルからハイドに化すことによって容貌どころか身長までがちがってしまう(ハイドのほうが低身長なので、ジーキルの着ていた服が合わなくてダブダブになる)。
当初は、薬を服用するごとに、ジーキルからハイドに、ハイドからジーキルに自由に「変身」できていたのだが、そのうち、薬を飲まなくてもハイド化するようになる。
反対に、薬なしでジーキルにもどることはなく、薬を服用してやっとジーキルにもどっても、睡眠をとったり、気を抜いたりするだけで、容易にハイドに変わってしまう。
(薬が効かなくなった理由のひとつが絶妙にリアル。まさに「細部に神が宿る」である)
この事態に、いずれ「ジーキルという存在」は消滅してしまうだろうという致命的な危機感をいだいたジーキル博士は、ハイド(じつは自分)がこの先も生きていけるよう、財産譲渡の遺言状をアタスン弁護士に預けたというわけだ。
本書は、(文字が小さいとはいえ)本文が100ページほどの「中篇」だが、語るネタはいくらでも湧出してきそうである。
だが、そこをあえて厳選して、以下の点のみに触れてみる。
やや否定的な見解になるが、冒頭に出てくるアタスン弁護士の外面描写は必要なのか、という点。
アタスン弁護士は、気むずかしい顔だちの男で、一度も明るい笑顔を見せたことがなかった。ひとと話をするときも、何かつまらなそうに口数が少なく、訥弁で、感情を顔に出すこともほとんどない。やせぎすで、背が高く、そっけなくて、陰気くさい男だが、そのくせどことなく人好きのするところがあった。(P7)
なにやら矛盾する気質をかかえた、ややこしいキャラクターのように描かれているが、実際には、それほど複雑な性格でもなく、思慮深く、温厚で、いわゆる「コミュ力」にも富んでいるという、しごくまっとうな人物だ。
「一見こう見える」という外面的特性が、その後の展開で活かされる場面は無いように思う。
一方、同じ外見描写でも、ハイドに関する描写方法は秀逸だ(と、おれは思う)。
ハイドを目撃した人間は、ハイドの容貌を次のように描写する。
前出のエンフィールド曰く:
「顔にどことなく変なところがあってね。何か人を不愉快にする、憎々しい点があるんです。(中略)異様な顔つきをしているのに、どんなふうに異様なのか、それが言えないんです」(P14-15)
アタスンから見た第一印象:
「地味な服装をした小男で、遠目にもなぜか反発を感じさせる顔つきをしていた」(P21)
ジーキルの執事のプール曰く:
「あの方にはどこか普通でない――人をぎくりとさせるところがございます。(中略)先生(=アタスンのこと)だって、骨の髄までぞっとなさったことでしょう。」(P61)
つまり、少なくとも人相については、何ひとつ具体的な描写がないのである。
そして、それこそが効果を生んでいる。
ここで目のかたちがどうの、鼻の高さがどうの、と具体的に言ってしまってはイメージが固定してしまうからだ。
ここでおれが連想したのが、三島由紀夫の『天人五衰(豊饒の海の第四巻)』に登場する絹江の顔貌の描写である。
それは万人が見て感じる醜さであった。そこらに在り来りの、見ようによっては美しくも見える平凡な顔や、心の美しさが透けて見える醜女などとは比較を絶して、どこからどう眺めても醜いとしか云いようのない顔であった。
(前略)何か醜い瞬間の幻像が二人の目に残った。
片目が潰れていたわけではない。大きな痣があったわけではない。ただ人々が美と考えているごく月並みな体系に、一瞬にして精妙緻密に逆らうような、笹くれ立った醜さが目の前をよぎったのである。
これを「醜いというばかりで具体的な描写がない」と批判する文芸評論家もいるのだが、この場合、具体的な描写が無いのがいいのだ。
この限りなく説明に近いような描写は、たしかに具体的な映像を喚起することはないものの、なにやら呪いに近い「言葉」として、いまでもおれに「ただならぬ像」を喚起させる。
ハイドの外貌描写もそれで良い。むしろ、それだからこそ良い、と言っていい。
そして、この「具体性の回避」は、『フランケンシュタイン』の「怪物」の外見描写とも共通している。
・・・・・・。
さて、これからも続ける予定の「知っているが読んでいない」シリーズ。
作品が有名すぎて、「読んでいなくても解ったつもりになってしまっている」小説はまだあるのではないかと思っている。
実際、いくつか候補がある。
「つもりになっている」人が、思わず「そういえば読んでなかったよ!」と叫びたくなるような、そんな「盲点」を衝く作品を取りあげることができれば幸いだ。
おれが読んだ文庫版は、おそらく中古本でしか手に入らない。
こちらは、新品で手に入れることができる。
こちらも。