あまりにも奇妙なため、かえって記憶に残る発言がある。
2020年半ば、日本はコロナ騒動で塗りつぶされ、緊急事態宣言や感染対策、飲食店の営業自粛などが立てつづけに話題となり、東京オリンピックも延期になった。
あれだけ飲むことが好きだった同僚たちも、ぱったり飲みに行こうとはしなくなった。
店が休業している、あるいは酒類の提供が20時まで、という制約のせいでもあったが、それよりも本当に感染を怖がっている者が大半だった。
おれは独自の嗅覚で、「休業自粛」の要請にもかかわらず営業している居酒屋を見つけ、緊急事態宣言中も平気で(感染などを怖れることなく)頻繁に飲みに行っていた。その店は、いわゆる休業に対する「補助金」をまったく当てにしていなかったようで、夜遅くまで平常どおりに営業していた。(いまでも、その店は行きつけのひとつだ)
一方、複数の“識者”が、テレビや雑誌、ネットニュースに於いて、「今回のコロナ禍で誰が愚かであるかが炙り出された」と、したり顔で発言していた。
おれは、その出だしを見て、「ここで言う『愚か者』とは、この騒動を真に受けて怖い怖いと騒いでいる者のことなんだろうな」と思いながら読み進めると、その識者のいう「愚か者」とは、逆に「コロナをただの風邪だと言っている奴」「マスクをしようとしない奴」「いまどき飲み歩いている奴」たちのことで、そういった人たちの非常識さ、身勝手さを、口を極めて批判していた。
それと大同小異のコメント、記事がネット上だけでも、うなるほど溢れた。
なんという「浅薄さ」だろうか。
かような絶望的な状況のなか、ささやかながら、妙に気になった発言を、ちょっとばかり紹介してみる。
それは金をもらってのプロのコメントではなく、おそらく市井の一庶民と思われるひとの言葉である。
その奇妙さの味(これも妙味というのか?)を、おれと共有していたければ幸いである。
といっても、後々までこれほど印象に残るとは思っていなかったので、そのときはメモもコピーもしていなかった。再検索してヒットするかどうかも不明である。
それゆえ、字句は原文のままではなく、記憶に基づいて、発言の主旨だけを再現する。
それを読んだのは、2020年の後半くらいだったのではないかと思う。
出どころは、いわゆる○チャンネルといった「掲示板」だ。
おれは当時、おれのように「コロナを無用に怖がっていない人」「マスク着用に疑問を持っている人」の意見を知りたくて、そういったキーワードでネット検索をしてみたのだが、その結果、あろうことか、「コロナを怖がっていない人をボロカスに非難するスレッド」にヒットしてしまった。
そこでは複数の投稿者が、「怖がっていない人」「マスクをしようとしない人」の人格から知能までを、これでもかとばかりに全否定していた。
対象となっている「怖がっていない人」が、投稿者の身近にいるのか、それともたんにネット上の発言者なのかは、判らない。
どのコメントも、陳腐な定型句による罵詈雑言と嘲笑ばかりで、愚者が賢者を非難するという図式もある意味よくある話だったので、おれは「つまらないものを見てしまった」とばかりに、その場を立ち去ろうとした。
そのとき、おれの眼を惹いたのは、
「コロナのおそろしさを否定してる人って、コロナのことをすんげぇ勉強してるんだよな。コロナ熱が異常に高い。ふつうそこまで調べないよな」
という旨のコメントだった。
そして、この「すんげぇ勉強してる」という言葉を、なんと「コロナを怖がっていない人」を非難する文脈で使っているのである。
どういうことだろう? おれの読み間違いではないかと思って、そのコメントだけ、何度か読み返してしまったほどだ。
勉強しているからダメ・・・、なのか? コロナのことに詳しいから、そいつの発言・行動に価値はないということなのか?
当時からおれもコロナのことを人一倍調べていたほうだが、かれらにかかったら、おれの意見そのものはもちろん、よく調べているという姿勢や熱意まで否定されてしまうにちがいない。
つまり、逆に言えば、この投稿者は「自分はコロナのことを勉強もしていないし調べてもいないので自分の意見は正しい」と言っているに等しいのだ。「・・・いないけど」ではなく、「・・・いないので」なのである。
どう考えればこうなるのか、ほとんどまったく理解できないのだが、おれの倒錯した趣味(?)のひとつが、
「『訳の判らない発言』をしているひとに感情移入し、その内的理路を炙りだすこと」
だ。
それは、訳の判らない発言に賛同することを意味しない。
そうではなく、「どうしたらこのような考えになるのか」をおれなりに把握し、おれの脳内に格納されている「人間の思考パターンのサンプル」の数をより増やしたいという、
探究心と人間愛にあふれた崇高なる意図
に基づくものだ。
感情移入と想像力を駆使して、この発言者(以下、A氏とする)の脳内に潜入してみると、“自分は無知な状態のままで相手(コロナ恐怖否定者)より優位に立ちたがっている”という、ありふれた心象が見えてくる。
そこには、自分と異なる意見の持ち主を何がなんでも否定したいという感情や、大多数派に属している自分は優位に立っていてしかるべき、という事大的な意識も影響している。
だが、否定しようとしている相手は、なぜかよく調べている。勉強している。とても詳しい。これではおれに勝ち目はないじゃないか、という劣勢感に圧され、ほとんど悔し紛れに、“ふつうそこまで調べるか?” “おかしいんじゃないか?” “その情熱、異常!”という、いびつな方向から相手を否定しているわけなのだ。
自分より格段に勉強した相手にテストの成績で負け、「ふつうそんなに勉強するか?」と、遠吠えしているようなものである。
「そんなに勉強しない」のが「ふつう」なので、「ふつうの自分」は「正しい」という理屈なのだろう。
ただし、その「ふつうの範囲」が「自分の矮小な甲羅のサイズ」だということには気づいていない。
さらにA氏の本音を平易な言葉に翻訳すると、
「ごちゃごちゃ調べてなんかいないで、おれたちと一緒に素直に怖がれ!」
と言っているにすぎないのだ。
が、結局このスレッドでは、その遠吠えコメントが否定されることもなく、友を呼んだ類たちによって、「反コロナ」への批判が続くのである。
なんともはや、というしかない。
ただ、この時期、違和感をおぼえた人たちは、その危機感にうながされて、やっぱり調べるしかなかったのだ。
大勢がマスメディアの印象操作によって、あらぬ方向へ扇動されていく。そのなかにあって、理不尽な流れに抗するためには、直観で主張するだけではなく、知識・理論の裏づけが必要だった。
別に反論したいから・攻撃したいから調べたわけではない。
防御のため・・・、奴隷ではなく人間でいたいから調べたのだ(と思う)。
最大限の防御のために、結果として攻撃してしまうこともあっただろうが、少なくともおれの場合、攻撃自体が目的ではなかった。
上意下達を遵守し、大勢に従い、流れのままに「コロナ=危機」としていれば、なにも調べる必要はなかった。
危機はコロナではない、大勢に従うことこそが危機なのだ、と感じた人は、必死になって調べたのだ。
情報戦にあっては、真実を知ることこそが正当で有効な戦闘だからだ。
これが情報戦であるとも気づかないひとびとは、調べもしなかったし、本当の意味での闘いもしなかった。
そして未だに闘ってはいない。
おれにとっての永遠の歌姫:中島みゆきの名曲「ファイト!」のなかに、あまりにも有名となったフレーズがあるが、いまや「闘わない奴等」が「闘う君の唄」を「笑う」どころではない。
「奴等」には「闘い」自体が見えていない。それなのに、あろうことか、自分たちこそ「闘っている」と思っているのだ。
【珠玉の言葉】
自分の嫌いなものをあれこれ考えるのはとても愉しいことです。美的感覚とは嫌悪の集積である、と誰かがいったっけ。
(伊丹十三著『ヨーロッパ退屈日記』所収「わたくしのコレクション」より)
以前、伊丹十三を取り上げたページ
↓
筒井康隆著『パプリカ』。他人の無意識界に潜入する能力を持つ夢探偵の物語。
初読の際、分裂病(いまでいう統合失調症)患者の脳へ潜入したときの「心象風景」の描写が怖かった。
おれの趣味(?)の感情移入も、ミイラ盗りがミイラにならないように注意しないと。
(作中、潜入後にヒロインが病気になったわけではないが)
「ファイト!」所収のアルバム『予感』(1983年発売)。
発売されたころは、中島みゆきを聴いていると知られただけで「暗い」といって笑われたものだ。
「ファイト!」は、その後のバブル好景気に背をむけ、人知れず「先の見えない闘い」を重ねていたおれを痛快に後押ししてくれた曲でもある。