どうして、「押す」のだろう?
電車に乗っていて、降りるべき駅が近づいてくる。
ドアの近くまでいく。
おれのあとからも、降りようとする客たちがドアのほうに近づいてくる。
降りようとしている客の数によって、
無意識の裡に客同士の間合いも変化する。
電車が停まる。
素晴らしいことに100回に99回以上は、
停止(すべき)位置でぴたりと停まる。
一拍置いて、ドアが開く・・・、
と、この一瞬手前で、後ろから押してくるやつがときどきいるのだ。
ちょっと触れる程度ではない(そのくらいなら、いちいち目くじらは立てない)。
そうではなく、あきらかに「ぐい!」と押してくるのだ。
前に立っている客の背中(あるいは腰・尻)を、
このタイミングで押すという行為ほど、
無意味なものは他にないのではなかろうか。
押したところで、押さないときに較べて、
0.01秒たりとも早く降りられるわけではないのである。
おれの前にも客がいるし、その客の前にはまだ開いていないドアがあるのだ。
まったくの無駄。
ただただ、押された客が不快な思いをするだけであり、
押した客にしても、なんら「実益」はないのである。
ひたすら気分的なもの。
まさか、相手かまわず「ぐずぐずするな」と、
無言で説教・警告・恫喝しているつもりではあるまいな?
前に立っているおれはぐずぐずしそうに見えたのか?
それとも、そいつの「経験値」のなかでは、
ほとんどの人間が「ぐず」なのか?
百歩譲ってたとえ「ぐず」だったとしても、
動く前から「ぐず」であることを前提にして、
「押す」ことに意味があると、そいつは本気で思っているのだろうか?
あるいは、押すことによって、なにか心理的に「納得」できるのか。
それとも「不安」「虞れ」が解消できるのか。
そうだとしたら、その不安や虞れとはなんなのか?
そういった、生まれてから一度も「内省」「自己分析」を
行なったことのないような輩に遭うと、
おれの頭は「???」で満たされる。
とにかく、(乗換えとかの都合で)本当に急いで降りたいのなら、
もっと早くからドアの一番近くのポジションを確保していればいいのに、と思う。
・・・・・・。
久々に小説を取りあげてみる。
小説も読むこと自体が久々というわけではないのだが、
読もうとしている方に、余計な先入観なしに読んでもらいたいと思うので、
ブログで取りあげるのをつい躊躇してしまう。
「ネタバレ」させるつもりなど毛頭ないし、
それよりも「読みどころバレ」させるつもりもない。
(文庫本の解説よりもはるかに「先入観」に影響しないようにしているつもり)
・・・ということで、取りあげ方に注意しながら取りあげるのは、
今野敏 著『初陣 -隠蔽捜査3.5-』だ!
《隠蔽捜査》の1と2ついては以前も触れた。
実は、《隠蔽捜査》シリーズの第3作『疑心』もすでに読んでいて、
このブログとは別に記録しているノートによれば、
読了したのは2012年の3月14日。
(新潮文庫版の初版が同年2月1日)
今回読んだ「初陣」は、隠蔽捜査3.5。
なんとも意味シンなナンバリングだが、
本書は《隠蔽捜査》シリーズのスピンオフ。
《隠蔽捜査》の主人公である竜崎伸也の警察庁入庁の同期である
伊丹俊太郎を主人公とした連作短編集である。
時間軸としては、
第1話の「指揮」が『隠蔽捜査(1)』よりやや以前のエピソード。
第7話の「試練」が『疑心 隠蔽捜査3』の前、
最終、第8話の「静観」は『疑心』のあとのエピソード、
ということになる。
読む順序としては、
出版(発表)の順番に従って、
《隠蔽捜査》シリーズの1~3までを読んだうえで、
「外伝」である『初陣』を読むのが真っ当だろう。
スピンオフを先に読んでしまうと、
「本編」の衝撃・新鮮さはやや薄れるような気がする。
もっともこれは絶対ではなく、
『初陣』によって裏の「事情」を知った上で本編を読んでも、
それはそれで楽しめると思うけど・・・。
さて、竜崎伸也の視点から描かれた《隠蔽捜査》1から3と、
伊丹俊太郎の視点で描かれた『初陣』とでは、
互いのイメージも様変わりする。
いや、様変わりするのは伊丹俊太郎のほうの人物像で、
180度とまではいかないが、90度くらいはイメージが変わる。
具体的な任務の状況やプライベートな描写にも踏み込むので、
キャラクターとしての厚みも加わる。
一方、変わるというより補強されるのが
竜崎伸也の人物像だ。
竜崎伸也は自画自賛しない。
竜崎がきわめて優秀だということは
間接的に描かれるだけで、
竜崎自身が「おれはすごい」と言うことはけっしてない。
(そりゃそうか)
というより、竜崎は自分が特別優秀だとも思っていない(フシがある)。
さすがにバカだとも思っていないだろうが、
勉強ができたことも、東大法学部に入ったことも、
警察庁でスピード出世していることも、
「やるべきことをやった結果」だととらえている。
むしろ他の人々が「やるべきこと」をやらないのを
不思議な気分で見ているのだ。
ところが、『初陣』ではそんな竜崎を、
伊丹の視点から観察している。
(ちなみにふたりは小学校時代の同級生でもある)
竜崎は伊丹(彼も優秀で勉強ができた)から見て、
「どうしてもかなわなかった」存在であり、
入庁後の現在でも、「絶対にかなわない」存在なのだ。
そんな竜崎を「探偵」と見立てれば、『初陣』は、
いわゆる「アームチェア・ディテクティヴ」ものととらえることもできるが、
併せて、広義の「ハウダニット」ミステリーともいえる。
Howdunit(How had done it?) いかに それを 成したか?
いや、正確には未来形として形容すべきで、
いかにそれを解くか?・・・に焦点を当てた、
いわば「ハウドゥイット~ How (will) do it? ~」ミステリー。
伊丹が直面した難問を竜崎伸也が
いかにあっさりと解決するか?
この「あっさりと」というのがポイントで、
竜崎は伊丹の提示する難問を難問とも思っていない。
そもそも竜崎の思考回路のなかでは、
そんなものは「問題」ですらないのである。
捜査本部を出て、人気のない部屋を探し、警察庁の竜崎に電話をした。
「何だ?」
無愛想な声が聞こえてくる。
「どうしていいかわからなくなった」
「何のことだ?」
伊丹は順を追って説明した。竜崎は、あいづちも打たずに話を聞いている、いや、聞いているのかどうかもわからなかった。
「おい、聞いているのか?」
(中略)
「何を悩んでいるのかわからない」
伊丹の困惑の深さと、
竜崎の提示する明晰すぎる「解決法」との
落差がもたらすカタルシス。
実際、上の「何を悩んでいるのかわからない」というセリフの
わずか五行のちに、
竜崎は簡明至極な解決法を伊丹俊太郎に提示するのだ。
一部例外的なプロットもあるが、基本的にはこのパターンだ。
(伊丹が竜崎の陥った難局を心配する一方で、
竜崎自身がそれを難局とも思っていない、というパターンもある)
竜崎伸也。
少なくとも電車から降りるたびに、
「自覚なきプチパニック」に陥って「押すひと」とは、
比較を絶した存在である。
疑心: 隠蔽捜査3 (新潮文庫)
初陣: 隠蔽捜査3.5 (新潮文庫)