第37回 内田 樹『「おじさん」的思考』 | 不快速通勤「読書日記」 ~ おめぇら、おれの読書を邪魔するな! ~

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読書のほとんどは通勤の電車内。書物のなかの「虚構」世界と、電車内で降りかかるリアルタイムの「現実」世界を、同時に撃つ!

たとえ、どれほど有能であっても万能ではない。


どんなに「こいつ天才だ!」と思うようなやつがいても、
100%完璧ということは、まず、ない。

「納得できないけど、この人のいうことだから間違いはないだろう」
・・・と思って盲従するのは危険だ。
(もちろん、この人のいうことだから間違いはないだろうと従って、
あとからやっぱり正しかったと判明して「さすが!」と感心する場合もある)



さてさて。

おれ(なんか)と較べて内田樹は格段に有能である。
ほとんど、比較以前の問題だ。

口幅ったい言い方だが、
内田氏のことは(書物を通じて)「敬愛」しているし、
ある意味、その言葉を「指針」ともしている。


しかし、だからといって、
その言説に百パーセント同調しているわけではない。

「んんん~、ちょっとおれとは感覚が違うな」

と感じることもあるし、
もちろん、

「わからん。おれの知識ではまだ理解できないや」

と思うこともある。


でも、たまに、はっきりと、

「それは違(ちゃ)う。その主張はよう通用せんわ、内田さん」

と、しみじみ感じることもある。


たとえばそれは、「タバコ」にまつわる思惑だ。

内田氏は喫煙者。おれは非喫煙者。

内田氏は喫煙者の常として、
現代日本社会の「禁煙ファシズム」について異議を申し立てている。
(特定の書物のなかだけではなく、複数の書に於いて)

『「おじさん」的思考』(角川文庫)のなかの、
「『人類の滅亡』という悪夢の効能」の項でも、
喫煙/嫌煙問題について一石を投じている。


喫煙を批判する人たちは人間について、いささか本質的な見落としをしているように私には思える。というのは、人間は決してつねに自分の健康を配慮して生きているわけではないからだ。自分の健康を害することの方が、自分を健康にすることよりも、本人にとって快適であるような心の動きが人間の中には存在する。

論はさらに発展する。

自分の身体を壊したいという欲求と同じく、私たちは心のどこかに「地球を壊してしまいたい。人類を滅ぼしてしまいたい」という暗い欲求を抱え込んでいる。現に、私たちはそういう想像をするのが大好きだ。

たしかに。

もし、核兵器を持った人々に「地球の滅亡」や「人類の終焉」を絵画的にリアルに想像し、それを「愉しむ」能力が欠けていたらどうなっただろう。核兵器を使用する前の「ためらい」はずっと軽減されてしまうだろう。

そう。人類の滅亡の「地獄絵図」をリアルに想像できる能力が、
人類滅亡の抑止力になっているというわけだ。


以上の引用箇所をひとつひとつ読むと、
もっともなことばかりだ。
いまさら内田氏に言われるまでもないほどに。


でも、ある意味まっとうなこの「理屈」を、
自分の「喫煙習慣」の擁護に使用する意味がいまひとつ解らない。


内田氏の主張をものすごく平たく翻訳すると、次のようになる。

人間て、正しく健康なことばかりするわけじゃない。
不健康なことに愉悦を感じる本能も備わっている。
人類滅亡の話とかも好きでしょ。
そして、人類滅亡の絵図をリアルに想像できる能力が人類を滅亡から救っているんだよ。
だから、身体に悪いタバコを喫うのは人間の本能に従った行為なのだよ。


ううむ・・・。

はっきり言うと、喫煙者の「喫煙擁護」の言説は、
たとえ内田樹クラスのような天才的俊英にしても、
残念ながら「この程度」のことが多い。


政治について、芸術について、人間心理について、歴史について、
鋭い卓見を講じる「思想家」であろうと、
いざ、自分の「喫煙」の弁護となると途端に論旨がずれる。

そもそも、根本的に勘違いしている。


非喫煙者/嫌煙者は、

(まず)誰も、

喫煙者の健康など考慮していない。
(考慮するとしたら、お父さんがタバコの喫いすぎで肺がんで死んじゃったら
私たちの生活に困る、というような場合)


この冷酷な「事実」を肝に銘じてほしい。


タバコは身体に悪い。
その身体に悪いことをあえて行なう本能も人間にはあるんですよ。
だから非難しないでください。
・・・と言ったところで、
喫煙者が勝手に自らの身体を壊すことを、
「やめときなよ。タバコを喫うなんて自殺行為だよ」と、
心配しているわけではないということだ。

喫煙者が喫煙によって身体を壊すのは
単に自業自得だと思っている。

そうではなく、
多くの非喫煙者が心配しているのは、
いわゆる「受動喫煙」による「自分の健康」だ。

その非喫煙者にしても、
内田樹のいう「健康に悪いことをする快楽」は知っているだろう。

だが、だからといって、
「ああ、うまいわ~」という「喫煙者の快楽の余波」で、
自分の身体を壊すことは本意ではないのだ。


さらにおれの私見をいうと・・・。


おれの職場はたまたま全フロア「禁煙」なので、
「受動喫煙」が考えられるのは、主に外食時だ。

そして、このときも、おれは
この程度の受動喫煙で健康に影響があるとは思っていない。


もし、おれが「タバコって嫌・・・」と思うとしたら、
それは「健康」のためですらない。


嫌なのは、漂い流れてくるタバコの煙によって、
せっかくの食べ物の風味が多少なりとも損なわれてしまうからだ。

たとえ視覚的な煙が来なくても「臭い」は来る。

このタバコの臭いというのは、
おそらくそのとき喫っている当事者が想像だにできないレベルでの、
圧倒的な「襲来」だ。

どれだけ遠くまで匂うかは、
喫っている本人の想像を超える(だろう)。

食事において「香り」という要素が重要だということは論を俟たない。

それでも、いちいち文句はいわない。
社会生活上「このくらいはしょうがないかな」と思っている。
思うようにしている。


でも、よいでしょうか、喫煙者のみなさま。

あなたが、無思慮に漂わせている煙に対して、
非喫煙者ほとんどは、「しょうがない」と思っているだけで、
少なくとも、その煙を「心地よい」とは思っていないのです。

実際は、喫煙者が親しい間柄か、まったく赤の他人かで
不快度・しょうがない度・気にならない度は大きく揺れ動くけれど。


ときと場合によるかもしれないが、
あなたたちは、概して「我慢されている存在」なのだ。
ひいては「赦してもらっている存在」なのだ。
「黙認されてる存在」なのだ。
「まッ、いッか、とおもわれている存在」なのだ。

文句を口にしないことと、気にならないこととはイコールではないし、
ましてや、「心地いい」こととの間にははるかな径庭が存在する。


その「一方通行の配慮」を思慮している喫煙者は
おれの見たところ、残念ながらごく少数派だ。

あえていえば、
おれはその「勝手だろ」「文句あるのかよ」「言えるもんなら言ってみろ」という
「無思慮な挑発」に対して腹が立つといえば立つわけだ。

(煙や臭いそのものというより)

そういった「気持ち」を考えたうえで、それでも、
「身体に悪いことをあえて行なう本能も人間にはあるんですよ」
という類のことを言えるのか?


おれの「敵」は(自戒もこめて)、
自分がノープロブレムなら周囲もノープロブレム(のはず)
という思考である。

もちろん内田樹がそんな思考の持ち主だと言っているわけではない。

しかし、繰り返しになるが、そんな内田樹でさえ、
いざ自分の喫煙弁護となると思考がぐずぐずになってしまう。

おそるべし、喫煙。


補足的に言うけど、
おれはそれほど過激な嫌煙家というわけではない。

ただ、喫煙者が(的外れな・身勝手な)喫煙弁護をしているのを聞くと、
どうしても反論したくなるだけだ。


黙っていれば黙認できること(限りなく気にならないこと)でも、
いざ「文句あるか。あるなら言ってみろ」と言われれば、
(あるいはそれをうかがわせる態度をされれば)
途端に気に障ることもある。

少なくない喫煙者には、そういうそこはかとない「挑発」を感じる。
だから「嫌煙者」が出てくるのだ。

「嫌煙ファシズム」と断じる前に、
その心理的メカニズムをこそ理解してもらいたいものだ。



もっというと、副流煙を嗅いで「お、いい匂いだ」と感じるタバコもたまにある。

でも、そんなことは本当に稀だ。

たいていのタバコは、「いい匂い」ではない。
それはおれが非喫煙者だからではなく、
多くの喫煙者の喫っているタバコの質が悪いからだろう。


「おれの前で安タバコの匂いをさせるな」(※)
(by ゴルゴ13)

四半世紀前に読んだ記憶に基づくものなので、字句は正確ではないかもしれない。


最後に、冒頭の言葉をひっくり返したアフォリズムを。


完璧ではないからといって、有能であることを否定すべきではない。


「喫煙」について自分と意見を異にしたからといって、
おれが内田樹を「ダメだ」と思っているわけでは、もちろんない。

基本的に、おれにとって内田樹の著書は、
読んでいて、論旨の鮮やかさ、深さ、鋭さに、
(通勤電車内なのに)
おもわず感涙に咽びそうになることもあるほどのものだ。


その内田樹にむかって、
木っ端政治屋の橋下徹ごときが何を・・・、

おっと筆がすべった。



この件についてはあらためて触れることもあるかもしれない。
ないかもしれない。(でもあるかも)。


「おじさん」的思考 (角川文庫)