内田樹の『街場の・・・』シリーズのなかでは、
ここ3ヶ月ほどのあいだに、
『街場のメディア論』
『街場のアメリカ論』
『街場の現代思想』
を読んできた。
そういえば、どれもこのブログには載せてないな。
そうなのだよ。
読んだ本をすべてブログに載せているわけではないのだよ。
読む時間はあっても、書く時間はなかなか取れなくて。
そうこうしているうちに、次の本を読み始めたりするため、
書くタイミングを逸してしまうんだよね。
・・・と、言いながら過去に遡ってちょっと触れるけど、
なかでも『街場のアメリカ論』はエキサイティングだった。
(話題性が最も高かったのは多分『メディア論』。
こちらにも蒙を啓かれたけど)
『アメリカ論』では(でも?)、
「こんなこと言っちゃっていいの?」
ということを相変わらず歯に衣を着せずに
言い放っている。
まえがきにもあるように、
「アメリカとは何か?」という点だけではなく、
「アメリカを論じるときの日本人の思考方法」
にも力点が置かれている。
したがって、多くの点で日本「辺境論」に
通じるところがある。
日本人にとって、アメリカは圧倒的に「強大」な存在であり、
(しかもそのイメージは日本人がみずから創り出した「仮象」)
それゆえに、日本人はアメリカに対するとき、
どこかで「従者」の気楽さを以て接して(論じて)いる。
アメリカで深刻な災害が発生したときでも、
それを報道する姿勢は「ほとんどうれしげ」だ。
(「主人の屋敷が焼け落ちるのを眺めている小作人の気楽さ」)
日本人はアメリカを愛することもできるし、憎むこともできるし、依存することもできるし、そこからの自立を願うこともできる。けれども、アメリカをあたかも「異邦人、寡婦、孤児」のように、おのれの幕屋に迎えることだけはできない。「アメリカ人に代わって受難する」「自分の口からパンを取り出してアメリカ人に与える」ということだけはどのような日本人も自分を主語とした動詞としては思いつくことができない。(まえがきより)
・・・た、たしかに、そうだよな。
アメリカ人って、どうあっても「庇護」の対象じゃないんだよな、
日本人にとって・・・。
あと、アメリカ人の「戦争観」についての考察も読み応えがあった。
『メディア論』『アメリカ論』の面白さに較べると、
今回取り上げる『街場の大学論』は、
「大学」「高等教育」という、
やや「せまい」問題を論じているようにも思える。
表面的には、
これから大学は生き残っていけるのか、
という問題を、大学教授の立場から論じているからだ。
多くの人は、
「自分はべつに大学関係者じゃないから関係ないや!」
で片付けてしまうかもしれない。
日本の十八歳人口が年々減少し、
ほとんどの大学では志願者・入学者の減少を余儀なくされている。
しかし、生き残れない大学は、
所詮「力」がなかったのだし、
とくに私立大学は生き残るための「企業努力」が不足していたのだ。
だから、つぶれる大学があっても、
市場原理の観点から見て当然のことだ。
と、多くの人は考えているにちがいない。
しかし、
教育機関に市場原理をそのまま当てはめること自体に錯誤がある
と、著者は説く。
そもそも「学び」は対価交換ではない。
大学で「弱肉強食のイデオロギーこそすべて」と暗に教えていいのか。
などの理由によって。
「大学」に降りかかってきている問題は、
一見、大学とは無関係の人間にも突きつけられている問題
だということやね。
「対価交換」の価値観が支配する世の中って、
嘔吐を誘うほどロクなもんじゃないから。
気を遣っても「得」をしない赤の他人には、
1カロリーたりともエネルギーを費やそうとしない
殺伐たる世界・・・。
この対価交換=できるだけ働かずに同じ給料を得ようとする姿勢を
大学の話にもどせば、
「教員評価システム」の陥穽にもつながる。
これは、あまりにも働かない教員を
せめて「給料分」だけ働かせよう、
という動機を含んだ話なのだが・・・、
働かない教員を給料分働かせるために知恵を絞るなんて純粋な消耗なんです。そんな時間とお金があったら、オーバーアチーブしている人たちを支援するために使えばいい。働きのない教員の尻を叩いて働かせてもせいぜい給料分でしょう。でも、オーバーアチーブする教員たちは給料の何倍、何十倍も働いているわけですよ。仕事しないやつは放っておいて、仕事する先生たちのために仕事しやすい環境を整備する方がよっぽどベネフィットは大きいんです。
ここを読んだときは、正直、笑ったな。
「教員」や「先生」を「社員」や「職員」に置き換えたら、
一般の企業や官庁にも当てはまる卓見だからだ。
そう。
会社でおれの眼の前にいる「サボリ魔」のケツを叩いて、
脅したり、すかしたりして働かせても、せいぜい給料分。
そいつの顔を見て、
「いくら偉そうにしても、
おまえは、せ・い・ぜ・い・給料分の人間。
それ以上になることは金輪際ないんだよ」
と心のなかで唱えると、
そいつがものすごく哀れな存在に思えて、
怒りも、イライラも(とりあえずは)鎮静する。
・・・・・・。
個人的には著者の日比谷高校時代の
「回想」にも心をうたれた。
著者の高校時代の(優秀すぎるほど優秀な)友人が
卒業後、二十代後半で早逝しているそうだ。
かけがえのないたいせつな友人が死んだあとに残されたものには責務がある。それは死者が占めていた場所を「誰によっても埋めることのできない空虚」として、精神的な「永久欠番」のように保持しておくことだ。
・・・と、もう少しで読了しようというとき、
出張帰りの電車のなかで知り合いの「大学教授」と
偶然出喰わした。
おれは、その教授の勤める大学とは直接関係がないのだが、
その人は、ある「勉強会」で講師として教えてくれている先生なのだ。
おれと、その教授は降りる駅が異なったため、
ほんの十数分の「同席」だったのだが、
ふたりきりで話をするのは初めてだった。
(ふだんは、おれは大勢の聴講生のひとりでしかない)
その先生はスポーツ整形外科も専門としているため、
スポーツにおける故障のケアについて、
以前から疑問に思っていたことを教えてもらったりしていた。
おれも、
できることなら会社なんか辞めて、
アカデミズムの世界に行きたいなあ、
と思うことが多々ある。
でもなあ~。
おれは、
「生涯定職なし。四畳半暮らし、主食はカップ麺」
というライフスタイルで、
それでも、勉強が好きで、
ときおり、「おれって天才か」
と満足できるような「非人情」な人間じゃないからな。
だから、仮に経済的余裕があれば、
金を払って、「学生」として勉強したいと考える程度なんだけどもね。
(経済的余裕があるなら、理屈としては定職なしの「研究者」でも
いいってことなんだけどね)
そんなことを考えながら、
その夜はまた「本の世界」にもどった。
↓
街場のアメリカ論 (文春文庫)
内田 樹 著
街場の大学論(角川文庫)
内田 樹 著