ジルおじいさんは息子をつまりコウの父親を説得できなかった。父親は妖精など信じないと言って、遠くにある、とある街でビジネスマンとして普通に働いている。母親と妹を連れて…。
そして今、『妖精の書』の伝道者は一代空いてしまったが、コウがかろうじて守っている。
コウは、物心ついた時から父母とは一緒に住まず、おじいさんと暮らした。おじいさんは『妖精の書』の最後の伝導者だからだ。
おじいさんは『妖精の書』のお告げを受け入れれば受け入れるほど熟練した。おじいさんはやがて本当の自由を得たのだろう。その高い徳ゆえ、大きな町の宰相に呼ばれたこともあった。しかし、それを拒み。貧しくも自由な隠遁生活を送っていた。
今年の夏は暑かった。でも、コウの『妖精の書』に対する真摯な気持ちには、関係ありません。ひたすら物語にも似たこの書にのめり込みました。
「ああ…。おじいさんが生きていれば…。もっと効率よくお告げを聞けるのに」
しかし、効率の話しは『妖精の書』のお告げによると、理性が勝った状態をさし、その状態が続けば、やがては効率の奴隷ともなりかねないとある。
おじいさんは便利な機械を嫌った。例えば自動車。例えば洗濯機。だから、遠出するのも自転車。20キロくらいは自分の足でこいだ。あまりに遠い所へは、はじめから出かけなかった。そして、洗濯は今だに洗濯板を使っていた。『おじいさんのノート』にもこうある「そんなに急いでどこへ行く。心が乱れるだけだ」また「人の道からもはずれる。恥ずかしい」とも書かれていた。
こんな具合だからコウの父親も逃げだしてしまったのだろう。
おじいさんが、コウと同じぐらいの時には、多くのお告げを聞いていた。いったいお告げはどれくらいあるのだろうか? ひとつの項目に対して、その時の状況に対する解釈が幾重にもあるから、お告げは無限にあるといってよい。幾つものお告げを体験するほど、熟練した『妖精の書』の使い手になれるのだ。
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コウは、おじいさんにかわいがられた。しかし、『妖精の書』の伝道に関することには厳しかった。
おじいさんは幼少期からコウを鍛えた。しかし、コウが8歳の時おじいさんは亡くなってしまった。数年間しかコウについてあげられなかった。おじいさんには、それだけが心残りだったろう。コウにとっておじいさんに教えてもらったのは『妖精の書』の古語の解読法だけだ。後は独学しかない。おじいさんが亡くなってからは、早く一人前にならなくてはとの思いがコウには強かった。
そんな時に見つかったのが、前話にも書いた『おじいさんのノート』だ。コウの住んでいる家はもともとおじいさんの書庫だった。そうあの木の洞を利用した簡素な家だ。おじいさんの残したものがないかと何気なく倉庫の中を覗いてみると、ほこりをかぶったおじいさんの『妖精の書』の覚書が出て来た。今のコウにとって喉から手が出るほど欲しかったものだった。
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コウは、『おじいさんのノート』を読んで、在りし日のおじいさんを懐かしんでいた。遺品のノートはコウの宝物になった。そのノートはおじいさんの晩年のものなので内容がちょっと難しい。
まずノートの一枚目をめくると、おじいさん自身の感覚器官の衰えに「わしも歳をとったものだ」という実感が込められた文章がある。初めは悲しいお話かと思ったのだけれど、そういう話ではないようだ。読んでみよう。
「わしも若い頃は当然のように、目耳鼻口から、思いっきり、見たり、聞いたり、匂いを嗅いだり、味わったりしたものだ。しかし、感覚器官は、わたし色に染められている。それらは好き嫌いを判断する。好きなものには喜びの感情が、嫌いなものには不快の感情が伴う。その移り変わりは、なんとも、せわしなくて、あわただしい。これでは心が落ち着かない。それならいっそ今、少しくらい鈍い方がいいのではないだろうか。感覚を通した世界には平安が無いのではないか? この先、死へ向かう時、感覚はさらに鈍くなるだろう。だとすれば歳をとればとるほど心が平安に導かれるのかもしれない。心の平安は、本当の自由を感じさせてくれる。未来は明るい」
またおじいさんはこうも書いている。
「だれしも自由に生きたいと願うものだが、普通にやったら、あちこちにぶつかって問題を起こす。わたし、わたしと言っていると、どんどん自由という状態からは、かけ離れて行くのかもしれない。本当の自由を生きるには、逆に受け身の心持ちでいた方がいいのではないだろうか? 例えば、起きてしまった出来事を、天命として受け入れるような心の状態にこそ、自由は宿るのかもしれない。そうすれば、少なくとも物事を恨んだりせずにいられるだろう。恨んでいる状態こそ、不自由の極みだ」
さらにこんな記述もあった。
「一般的に、生きると言っていることは、人それぞれ自由な気持ちで、未来に対して計画したり、目標を持ったりして、未来を予断することだ。でも、これが厄介だ。未来は必ずしも思うようにはならない。すると心が憂いてしまうかもしれない。最悪、心が、病んでしまうこともあるだろう。そんな連鎖を起こさないで前に進みたい。未来を予断せず、今に没頭する。これこそが自由に至る道なのかもしれない」
この記述はコウにも良く分かる。『コード』の件がこれに近い。未来の予断だ。
別な所にはさらにこんな記述もある。
「わたしの目指している場所は、競争社会の勝者の位置では無い。あくまで心の自由を得るための場所だ。競争社会の勝者とは、自らの有用性を、社会に自己実現した者のことだ。
しかし、これを維持していくのは大変な精神的重圧と闘わなければならない。それこそ命がけだ。なまじ取り柄があるために、人や世の中の役に立とうと思って、返って自らを苦しめることもある。わたしの指針は、目指すものでもないが、役立たずで生きるという道である。この道を生きれば、長生きできるかもしれない。精神的な自由も伴いながら…。」
今コウは「自由」という言葉に敏感だったので、それらしき内容のところを拾い読みしていたのだが、今のコウには、ピンとこない話もある。これらも『妖精の書』のお告げから、導かれたものなのだろうか? やはり『妖精の書』を解読するには、熟練を要するのだ。
『おじいさんのノート』は、決して人の生き方を断定するものではない。そもそも、『おじいさんのノート』に記されたものは、おじいさんに語られた『妖精の書』のお告げから得られたインスピレーションなのだろう。同じ『妖精の書』の項目だったとしても、コウには別のお告げが与えられるかもしれない。『妖精の書』の懐の深さが感じられます。
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『おじいさんのノート』は三百数十ページある。『妖精の書』とほぼ同じ分量だ。おじいさんが若き頃のノートも探してみたが見当たらない。処分してしまったのだろうか。だとすると今ある『おじいさんのノート』が決定稿だったのかもしれない。