夏休みも終盤の、ある晴れた日の午後でした。軒に吊るした風鈴の音がやかましい。風はあるのだが熱風だ。

 小学五年生のわたしは、クラスの栽培係をしていた。今日は、その当番で、畑仕事のために登校しなければならなかった。

母さんは、日差しが強いからといって、帽子と水筒を持たせてくれた。わたしは汗を拭きふき、ゆっくりと歩いて学校へ出かけた。

「面倒くさいなあ」と思いながら。

 

 さて、校庭の片隅にある畑に着くと、わたしは、育てたとうもろこしを一本もいで、かじり、味を確かめてみました。甘くて出来は上々でした。満足すると、口をとがらせて、吐き出しました。

 するととうもろこしの粒は、広がって地面にこぼれます。そして、ふと、その先に目をやると、畑のへりに二匹のカエルがいました。二匹は、仲良く腰掛けているようにも見えました。

 彼らは、互いにゲコゲコと、まるで会話でも交わしているようです。わたしは、その鳴き声に耳を澄ますと、何やら話の内容まで聞こえてきそうです。

 実際、耳を澄ますと聞こえてきます。一匹のかえるは、わたしが吐き出したとうもろこしの粒を見て、

「あの金の粒は何だ」とおびえているようです。

 もう一匹の物知りのカエルが、「あれは小びとたちの育てるとうもろこしというものだ」と答えたようです。

 わたしは

「はて、これは僕たち栽培係のとうもろこしだぞ?」と思っていると、

にわかにわたしの体は、ずんずん縮んで親指ほどとなり、意識は遠のいていきます。

気が付いてみると、わたしだった人間は、コウという名の小びとになり変わっていました。

 

 これから語られるお話は、とある世界の、とある村の、コウという名の小びとの物語です。

 

          *

 

 小びとのコウは、10歳で、今年、成人を迎えました。

 彼には、畑仕事のかたわら、密かに打ち込むものがありました。それは、先祖から伝えられた、もう誰も通ずるものもいない、古い言葉で書かれた、分厚い『妖精の書』の解読です。

 小びとたちは、そのむかし、困ったことがあれば『妖精の書』に書かれたお告げによって難を乗り越えてきました。

 しかし、今は科学万能の時代、「子どもでもあるまいし、妖精もなにもないだろう」と皆は口々に言うのです。

 実際、『妖精の書』が代々受け継がれてきた家の子孫にあたるコウの家系でさえ、世代が若ければ若いほど、その書の存在は、忘れ去られていたようです。

 しかし、コウは、熱心に解読を進めました。彼には、この書にこだわる理由があったのです。『妖精の書』を代々伝えて来た家系は、すでに亡くなっってしまったコウの祖父を最後に『妖精の書』によるお告げの風習は途絶えてしまったのです。

 祖父は、自分の息子、つまりコウの父親にはまったく相手にされなかったので、孫のコウに遺言します。

 「子供だましだと言われようとも、村から『妖精の書』によるお告げを途絶えさせてはならない」と祖父は言うのです。

コウは、お爺さんの妖精の話が好きだったし、可愛がられた手前、その遺言をむげにすることはできませんでした。

 そんな身の上がコウをそうさせたのでしょうか。彼は、もうすでに成人の歳だというのに、いまだ子どもらしさをたたえ、どこか浮世離れしたところがあリました。

 

 少し前のことですが、コウの人となりを表す笑い話として、村中の誰もが知るエピソードがあります。

 

 ある日、コウは畑仕事に出ていました。

 そこを通りがかった人が「何をまいているのか」と聞こうものの、コウはただ黙々と種をまいていました。

 それを不思議に思った人が、聞こえないのかと思って大声をあげると、コウは人差し指を口元に当て、笑いながら静かにするよう合図を送るのです。

 その人は、コウに近づいてわけを聞くと、彼は小さな声で、「妖精が聞く」と言うではないですか。

 なんと彼は、いたずらな妖精が種をまくのを知って、ほじくリ返してしまうと考えたようです。彼は、ことあるごとに、出来事を妖精の話に結びつけました。

 

 コウはある意味変わり者です。そんな彼の振る舞いを、うとましく思うものもいましたが、村びとたちの多くは、温かな目で見守りました。皆は、彼の、その朴訥な明るさを愛したのです。

 

          *

 

 コウは、ゆっくりと長い時間をかけて、とうとう『妖精の書』を読み通しました。

 しかし意味は、まだ、あらましがつかめたにすぎません。いや、それにもまだ及ばないかも知れません。本格的に『妖精の書』がお告げとして我々の役に立つようになるには、まだまだ熟読を要することでしょう。お爺さんの遺言を果たすのは、まだまだ先のこととなりそうです。

 

 そのだいたいのあらましです。

 

 まず、『妖精の書』は序章で、妖精というものの正体を明かしています。しかし、それは、何やら、抽象的な物語のようで何を言っているのかさっぱり分かりません。

 また、お告げのより大きな効力の発揮には、熟練を要するとありました。ただし、お告げは、特別な理解者だけが汲むものでは無く、理解を阻む古語さえ読めれば、誰もが理解可能な言葉で書かれているものらしい。

 『妖精の書』の内容は決して、理性に反する劣ったものではなく、むしろ理性に並んで立つものであるとも述べられます。

 『妖精の書』は警告します。「理性と『妖精の書』のお告げは、お互いを助け、世界の十全な認識のための車の両輪であり、もしどちらかが何らかの事情で失われたのなら、人の心は、病的な妄想におおわれるだろう」とも言います。

 

 理性はもちろん『妖精の書』のお告げも失われてはならないというわけです。どちらが欠けても世界に対する認識は曇ってしまうのです。この二つがそろって初めて世界はその人にとっての全き姿を現すのです。

 

 『妖精の書』はこれに続き、個別の問題事項を見出しとした多くの章が連なり、それぞれの章には、その項目の注釈があてられます。