母との関係性が変わったのは、離婚が大きかった。

私は、段々と母が壊れていくのを見ていた。
小学生になれば、ある程度見えてくる。
姑小姑舅からの嫌味。
マザコン、女にだらしのない夫。
お腹を痛めて産んだ子を、犬猫同然に養子に出され
残った子供も非行に走り、帰ってこない。

毎晩星を見ては「どうして私だけ」と涙を流す母の姿を見た。

母は、お酒が飲めなかった。
飲まないのか飲めないのかは、分からないが飲まない人だ。
一滴もお酒を飲まず、窓の外を見て泣いている母を、私が守らなければと思うようになった。

私は、母が大好きだった。
私は、母に柔順だった。

何時しか私と母は、共依存になっていたのだろう。

母は、祖父と継母に結婚を反対されていた。
温かい家庭を築いて幸せになりますと啖呵を切って無理やり結婚した。
実家には帰れない。
そんな母に、離婚という選択肢は色々な意味で無かったのだろうと思う。

小学生になり、放課後は家にいる事になった私に母は次々と仕事を与えた。

我が家は狭かった。
六畳二間に居間兼食卓に、四畳程の台所。
洗面所や脱衣所なんて物はなく、台所から直接入る風呂場とトイレ。
そして、仕事し子育てに追われる母に余裕なんてなかったのだろう。
家はいつも汚かった。

外から見れば立派なビルだったのに中はこれだ。
とても恥ずかしかった。

母も同じだったのだろう。
私達は、家に友達を呼ばない事をキツく命じられていた。

まず私がやらなければいけない事は、家に帰り宿題よりも先に家の掃除だった。
万年床だった重たい煎餅布団を、二組畳み押し入れへと仕舞わなければいけなかった。
下の段に仕舞うという優しさは、母にはない。
押し入れの上の段から、頭1つ飛び出たくらいの小さい子にやらせるお手伝いの域を超えていた。

重い布団をなんとかした後は、掃除機を全部屋かける。
全部屋といっても、そんなにないので布団さえどうにかなれば後は楽だった。

そして私は遊びに行く。

帰ってくると部屋の中がまた、汚れていた。

ゆーちゃんの仕業だった。
姉は、友達を連れてきては汚して何処かに行く人だった。

母には、私が怒られる。
私は、やる事をやったから私のせいでは無いと必死に訴えても、汚れたらまた掃除をしなければいけないと何度も言われた。
母も幼少期出来た事だから、お前もできる。これが母の常套句だった。

汚した人が片付ければいいと言えば、ゆーちゃんに言っても無駄でしょう。と、何故か姉は優遇されていた。

部屋の掃除から始まり、トイレ掃除、風呂掃除、食器洗いと、増やされる私の仕事。
四年生になる頃には、夕飯の準備も私の仕事になっていた。