これだけ自称コンサルがいるってことは・・・
自称コンサルタント。
まぁ商売だからうまくやればいいと思うが、コンサルを名乗る人らが多すぎる。
ということは、コンサルに依頼しなきゃ何も分からない・判断できない人が増えているということだ。
コンサルティングとは気付きを与えてくれるもの。
それは自分が考え抜いて、もう駄目だというときになって効果を発揮するもの。
思考を停止した人に気付きを与えても無意味。
すぐにナンチャッテコンサルに依頼しちゃう人、特に経営者は素質がないと思う。
おそらく自称コンサルの言いなりになるんだろうなぁ。
アメブロの中だけでも・・・
○○コンサルティング
△△コンサルティング
□□コンサルティング
そんなコンサルいる訳ないだろう!!と思えるようなコンサルティングもいる。
さらにはコンサルタントにコンサルティングするコンサルタントがいるみたい。
どうなっているんだ?
残念ながら経営者としての素質がないまま、一国一城の主になるという思いだけが先走り
独立した人・起業した人が多いのだと思う。
自ら考えることをせずに他人の意見にお金を払う。
これは経営努力とは言わない。
悪いこと言わないから、使われる側に回ったほうがいい。
今は成功者です(キリッ ②
■祖父母から虐待の日々
6歳で母親をガンで亡くし、その後しばらく預けられていた祖父母に、虐待を受けていた。
頭に針を刺されたり、裸で外に投げ出されたり。
お風呂には入れてもらえず、ベランダで真冬でも、水浴びさせられていた。
近所の人の通報で、警察が来たこともあり、一時期施設に預けられていたこともある。
数年後、やっと虐待に気付いた父親が、引取りに来たのは、小学4年生の頃。結局、住まいを転々とすることになり、小学校は3回転校した。
母親がいなくて、泣いた夜もあったけれど、それでも自分が不幸だということに、気付けなかった幼き日々。
■中学生のときの壮絶ないじめ
中学一年生のとき、上級生からの、壮絶ないじめにあう。
90度の挨拶を強要され、すれ違うたびに、蹴られていた。
トイレに呼び出しされては、生意気だと言われ、土下座させられたこともあった。顔面を蹴られたことも、何度もビンタされたこともあった。
髪を引っ張られて引きずり回されたことも、「死ね」と言われたことも、数え切れないほどあった。
それでも誰も、助けてはくれなかった。見ていた先生さえも。
自分を守れるのは、自分だけなんだってことを、叩きつけられた13~14歳。
■父親の会社が倒産し、夜逃げ。
アパレル会社を経営していた父親の会社が、1990年代のバブルの直撃に合い、倒産。
電話が止まり、ガスが止まり、電気が止まり、水道が止まった。
借金取りが毎日来ていたが、父親は居留守。
中学校の修学旅行の積み立て金は、滞納して払えなかった、給食費に消えた。
新築だった都内の一軒家が、見るも無残な状態になっていった。
まるでテレビドラマみたいに。
後頭部が二度も円形脱毛症になり、全身に重度のアトピーを発症。体も弱まり、躓いただけで、骨にヒビが入ったこと2回。
早く大人になりたいって、いつも思ってた10代。
■社会に出れば、上司からのハワハラの日々。
直属の上司から、暴言の日々。「死ね」と言われたこともあった。変えられないものを、否定され続けた日々。
悔しかったけれど、生活のためには仕事を失うことはできなかったし、逃げ帰れる場所など、どこにもなかった。
一番最悪だったのは、転職した先の副社長からの、無視。
生きていくために、ガマンを覚えた20代。
■全ての経験が、大切な宝物。
ひとつひとつの経験が、私にとっては宝物です。辛いことが、たくさんあった分、幸せのハードルがとても低く、小さな幸せを、たくさん摘むことができています。
辛い思いをした分、人の痛みが、良くわかります。それに、人に優しくなれるし、厳しくもなれる、そんな自分を誇りに感じて、元気いっぱい、生きています。
・・・なんていう波乱万丈のプロフィールの持ち主はこの方。
今は成功者です(キリッ ①
■生い立ち
私が生まれたのはロッキード事件が表面化した1976年のことです。
国立競技場のある渋谷区千駄ヶ谷に生まれ、父は建具をつくる職人をしていました。
今でも覚えていることがあります。
幼稚園に通っている時に、工作の時間がありました。そのとき工作の材料を父が幼稚園に持ってきてくれた嬉しさを今でも忘れることが出来ません。「浅井君のお父さん、かっこいいね!」「浅井のパパはすげぇ!」など、友達や幼稚園の先生から賛辞の声をシャワーのように浴びる経験をしました。
私は父がとても誇らしく、自慢でした。ですから今でも最も尊敬するひとは?と聞かれれば、間違いなく父の名を一番にあげます。
子供の頃、父親の軽トラックに乗って、現場に一緒に行ったこと。作業所でトンカチと釘で遊ぶたびに、「よくできたね」と父から褒められた喜び。そんな環境で育ったおかげでしょうか。私はとにかく「物づくり」「何かを創りだす」ことにに喜びを感じます。
小学校、中学校、高校の夏休みや冬休みには毎日のように父の仕事を手伝いました。
それは手伝いという感覚ではなく遊び気分でやっていたので、とても楽しい思い出です。
そんな私が高校を卒業し、進学をせず父の仕事に従事したのは自然の流れだったのかもしれません。
■ささやかな夢が、一夜にして悪夢へ
仕事を始めて3日目のことです。私はバイクで移動中に交通事故に合いました。
全治3年半に及ぶ、交通事故。車と正面衝突。後でわかったことですが、私は衝突現場から13Mも飛ばされていました。
事故の内容から考えると、まさに九死に一生を得た瞬間です。
私は交通事故のため6回に及ぶ手術をしましたが、肉体労働の職人へ復帰できるほど回復は見込めませんでした。
今では普通の生活を過ごすことはできますが、重いものをもって歩くことや、走ることが困難な状況です。問題は膝にありました。
■悪夢は正夢へ
幼き頃からの夢を失った私は、いったい何をするべきか?何を糧にして生きるべきか?その答えを探していたのでしょうか。
まるで触覚を失ったゴキブリのように夜の街を彷徨い始めたのです。
それからの私は夢を失った喪失感から、しだいに楽な方へ楽な方へと生き方を変えてしまいました。
楽して稼げると誘われマルチ商法をやったり、スカウト業をしたり、キャバクラ店長をやったり・・・・・・
そして、人の弱みにつけこむ闇金へとダークサイドに身を落としました。坂を転げ落ちるようにとは、まさにこのことです。
■人生最大の気づき
そんな私を救ってくれた、とてもつらく悲しいことがありました。
母の余命宣告です。
母は、脳腫瘍で余命宣告を受けながらも、懸命に病気と戦いました。そんな母の生き様を見て、私のなかにあった、
大きなモヤモヤの黒い塊がはじけ飛んだのです。
「俺はこのままでいいのか」
「俺は精一杯に生きているのか」
「俺は何のために生まれてきたんだろう」
そんな思いがふつふつと湧きあがってきました。
それからの私は、まじめに生きること。自分の人生に向き合うことを決意したのです。
残念ながらその決意をしたときには、母はもうこの世にいませんでした。
そして、一からやりなおそうと思い、始めたのが住宅営業のサラリーマンです。
しかし、ダークサイドで好き勝手やっていた私が、社会で通用するわけがありません。
売れない、給料が少ない、馬鹿にされる。
円形脱毛症もわずらい、自分はまっとうに生きていくことができなのでは、と思い悩みました。
そして私は鬱になりました。
■メンターとの出会い
そこで、私が運命的な出会いをしたのが、営業のコンサルをしているメンターでした。
そのメンターからは、営業としてのスキルだけではなく、前向きに生きていく人生観も教えていただけました。
学びは裏切らない。
その言葉を信じ、私はとことん勉強をすることにしました。私にはそれしかかなったんです。
勉強して勉強して、なにかをふっきりたかったのかもしれません。そのときに私が学んだこと。それがコピーライティングです。
それから私は、コピーライティングを駆使し、仕事で結果を得ることができました。
会社の急成長にも貢献することができ、営業推進の責任者として日本一の住宅展示場にも出展することができました。
■私の人生を変えたコピーライティング
文章で人を動かし、文章で稼ぐ。
私にとっては大きな宝となり、ビジネスで最強の武器を手に入れたと思っています。
売れない、思い通りにならない、そんなお悩みがあるなら、もうひとりで悩まないでください。
ビジネスの成功に裏技はありませんが、適切な道具は存在します。
私の人生を変えた文章が、あなたの人生の気づきになればこの上なく幸せです。
成功という缶詰をあけるのに、
ナイフでガシガシつっつくのか、缶切りを使うのか。
それとも、電動の缶切りを使うのか。
缶がひとりでに空くのを、ただじっと見つめながら待つのか。
選択するのはあなたです。
・・・なんていう素晴らしいプロフィールの持ち主はこの方。