こんにちは
最近は少なくなりましたが、戦前の新聞には怪異に関する記事がたくさんありました。民俗学者の湯本豪一氏が編集した『怪異妖怪記事資料集成』四巻(国書刊行会)が決定版とでもいうべき大著なので、そこから拾ったものをご紹介します。なお、読みやすくするため、意訳したものになります。
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蛇が出るか、鬼が出るか
大正14年8月10日 / 神戸又新日報
夏の夕涼みにふさわしい本社主催成美団一行の松竹劇場における怪談会はいよいよ今十日夜八時から開催されます。入場料は全部無料、下足代と言わず、布団代といわず、ただ一銭もいただきませぬ。ほんとうの早い者勝ちで各俳優の怪異な話をお聞き願います。入場券は別項に刷り込んでありますから切り抜いて持参されたい。もっとも満員になれば入場をお断りいたしますから、これはあらかじめご承知を願っておきます。入場は午後六時から出来ます。プログラムは左の通りですが、南陵の講談は四十分以上に及ぶものであり、出演中福井茂兵衛の衣装新調から幽霊の人選で成美団は大騒ぎを引き起こし、英太郎は怪異実見談を口演すべく手振り足振りの猛練習中であります。蛇が出るか鬼が出るか、あのリスのような小さな英がどんなことを言って聞く人を恐がらせるか、興味を感ぜずにはおられません。藤林や岡本、武村、野沢、佐藤らは何れも苦心惨憺、大いに考案中だといいます。怪談の研究家として斯界のオーソリテを以て任じて居る喜多村の近代化した怪談、福井の最旧式の怪談は必ず予期以上のものであろうし、これがため舞台は新式高座と旧式高座を随意に使えるような装置にいたしました。ちなみに二階食堂内に設けるはずであった怪異室は其筋の許可を得なかったので取消します。代わりに一行が十一日から上演する「新四谷怪談」にちなみ四谷神社(田宮神社)を喜多村が東京から迎えて劇場に祭壇をつくって祀り、場の内外に青電燈を無数に点じて涼しい気分をそそっております。
いよいよ今夜八時から満員にならぬうちに早くお出でを願っておきます。又飛び入りの怪談は歓迎しますから、劇場へ申し出てください。
▲記事内の広告写真 ※『大正期怪異妖怪記事資料集成』よりお借りしました。
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大正から昭和初期にかけて怪談会が多く開かれています。地方の新聞社主催のものもいくつかあり、小泉鏡花がわざわざ出かけていく例もありました。この神戸の怪談会は大阪で活動していた成美団を中心に、数少ない関西の講談師南陵も招き開催したものです。新聞紙上に続編が掲載されていますので、次回以降に続きます。
注1.神戸又新日報
こうべゆうしんにっぽう 1884-1939 五洲社が創刊しました。1939年、一県一紙制度により休刊しています。
注2.成美団
1900年前後に活動した関西新派の劇団。1896年(明治29)大阪道頓堀の角座(かどざ)で,喜多村緑郎,秋月桂太郎(1871-1916),高田実,小織(さおり)桂一郎らが結成。好評を博し盛況だったが98年に解散しました(第1次)。1900年,喜多村,秋月を中心に道頓堀の朝日座で再興。〈新演劇合同〉と銘うち,旧同人をはじめ他の新派の主要俳優も参集して,約10年間,いわゆる〈朝日座時代〉を現出しました(第2次)。新聞小説を脚色した現代劇《己が罪》《不如帰(ほととぎす)》《金色夜叉(こんじきやしや)》などを上演,写実的芸風を確立し,新派劇全盛時代を招来した意義は大きいものがあります。
注3.神戸松竹劇場
開場年は不詳 1927神戸松竹座に改称 その後移転した。同時に松竹の劇場が複数あったこともあるので、混同しないようにご注意ください。
注4.下足代・布団代
下足は脱いだ履物をさします。当時は劇場や芝居小屋で履物を預かり、その際に代金をもらうシステムが通常でした。その名称が下足代、担当を下足番と言いました。布団代は有料の座布団を貸すときの代金です。
注5.南陵
旭堂南陵きょくどうなんりょう この方は二代目 1877-1965 戦前、上方唯一の講釈師として多くの演目を残し孤軍奮闘し、戦後は上方講談の復興に尽力しました。得意は「難波戦記」「太閤記」「祐天吉松」など。1996年、第1回上方演芸殿堂入りしました。
注6.福井茂兵衛
1860-1930 落語家でしたが、リウマチで正座できなくなり廃業しました。その後川上音二郎一座に参加し、新派俳優へ加わる。成美団では老練な役者として存在感をしめしたそうです。
注7.英太郎
はなぶさたろう 初代1885-1972 1902年成美団に入り、大阪の新派スターとして活躍した。戦後も女形として舞台に上がり、87歳で亡くなるまで立ち続けた。
注8.藤林や岡本、武村、野沢、佐藤ら
成美団のメンバーですが、岡本は岡本五郎と思われます。他の詳細は不明です。
注9.斯界のオーソリテ
斯界はこの社会。この分野をさします。オーソリテはオーソリティの略で、権威という意味あいです。喜多村は泉鏡花の怪談会にも参加するのを通例としました。
注10.喜多村
きたむらろくろう(緑郎)初代 1871~1961 明治から昭和期に活躍した新派の女形俳優。1896年(明治29年)25歳の時に高田実らと『成美団』を結成し、大阪の『角座』、『朝日座』などで新派の上演を続けました。怪談会などにも積極的に関わり、『開かずの間』などの著作もあります。
注11.新式高座と旧式高座
いわゆる古典芸能で使う高座と現代劇の舞台で使うあつらえた高座のことです。
注12.四谷神社(田宮神社)
於岩稲荷田宮神社は四谷の田宮家にあった屋敷神といわれ、明治時代の火災で中央区新川に移転し、昭和になって再建されました。そのため、現在は2か所に鎮座しています。また四谷には陽運寺というお岩様を祀るお寺もあります。喜多村が新川に赴き、勧請を依頼したものだろうと思われます。
▲二代目南陵(1955年) ※Wikipediaよりお借りしました。
●参考文献
・湯本豪一編
『明治期怪異妖怪記事資料集成』
2009年・国書刊行会
『大正期怪異妖怪記事資料集成』
2014年・国書刊行会
拝