こんにちは
最近は少なくなりましたが、戦前の新聞には怪異に関する記事がたくさんありました。民俗学者の湯本豪一氏が編集した『怪異妖怪記事資料集成』四巻(国書刊行会)が決定版とでもいうべき大著なので、そこから母拾ったものをご紹介します。なお、読みやすくするため、意訳したものになります。
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横濱怪談 亡者の愚痴
大正15年5月18日 都新聞
横濱のさる講釈の定席、不思議といへば不思議の因縁話を一席、去年の六月五日盧州が出演中高座で倒れて中気になつたのを皮切りに、小林俊堂が楽屋で卒倒、それに引き続き今年の四月一日伊東燕尾が老體であり俺は横濱まで通ふのは嫌だといふのを無理に出演させられて、これも高座で卒倒。その翌二日伊東陵潮の細君が用事でこの寄席に行き、その帰りがけに桜木町の省電衝突で大負傷をしたといふ忌まわしい事実、評判になって昨今の釈界は大層な担ぎやう、横濱出演は鬼門として恐れをなしている。ここに不思議なのはその時倒れて今だに重態の燕尾老の夢枕に亡者が立った。
それがいふには「俺は大震災の時、横濱の〇〇亭で圧死を遂げた男だが、未だにその供養をしてもらってゐない。供養や貸した金は等は忘れられては困るからな」とのこと。飽く迄講釈らしい。これがまた釈界の評判になり、ついこの間有志で浮かばれぬ亡者のために一夕の供養講演会を開いてやった。以来この不景気にお客もふんだんに来るし、倒れる人もなくなって、席はますます栄えているという横濱会談の一席、これでおしまひ。
※講釈師 「いらすとや」
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横浜は関東大震災時に壊滅的被害を受けました。震源が相模湾で比較的近かったことと横浜市の中心部は埋立地が多く、影響が大きかったのです。約3万人の方が亡くなり、全壊戸数は1万6千戸、これは東京の1万2千戸を上回りました。
講談は江戸末期より明治20年頃まで最盛期を迎え、現代に続く講談の形がつくられました。天保の改革でいったん衰えたときは、江戸市中に講釈場が170軒余あったとされ、町民に受け入れられていたことがわかります。その後、松林伯圓、桃川如燕、一龍齋貞山、神田伯山、伊藤痴遊など、多くの名人が活躍しました。浪曲や落語に押され、大正になりラジオが誕生する中、講談は衰えていきました。
記事では亡霊が亡くなった寄席の名前は伏字になっていますが、当時、横浜には新富亭・若松亭・寿亭・新寿亭などがありました。どこかはともかく、倒壊で亡くなった方が多かった横浜の悲劇を忘れてはいけないと思います。
◇参考 横浜にぎわい座ホームページ「演芸Q&A」
関東大震災による惨状(横浜市中区) ※Wikipediaよりお借りしました
注1.講釈
講談を指します。講談は演者が高座におかれた釈台(しゃくだい)と呼ばれる小さな机の前に座り、張り扇(はりおうぎ)でそれを叩いて調子を取りつつ、軍記物(軍記読み)や政談など主に歴史にちなんだ読み物を観衆に対して読み上げる日本の伝統芸能のひとつ。(Wikipedia)大正の末は浪花節などに押され、衰え始めていました。
注2.定席
ここでは常設の寄席をさします。
注3.蘆州
小金井蘆州 1873-1925 芦州と書く場合もあります。この蘆州は三代目に当たります。倒れたのが大正14年6月5日、三代目芦州は同年7月に亡くなっているので話も合致します。神田の生まれで、顔が面長で「間延び」「馬面」という渾名がありました。得意演目は「塩原多助」「鼠小僧次郎吉」等
注4.高座
寄席の舞台を「高座」と呼ぶのは、僧侶が説教をするために座る高い台を「高座」と呼ぶことから来ています。「前座」は高僧の前に話をする修行僧を指す「前座(まえざ)」から、講談の別名「講釈」は仏教の教えを解釈し講義するという意味からです。皆、仏教由来の言葉です。(横浜にぎわい座ホームページ)
注5.小林俊堂
講談師の列伝のなかには見当たらず、調査中です。
注6.伊東燕尾
二代目と思われます。二代目は没年不詳ですが安政元年(1854)生まれであることはわかっています。1924年当時、70歳前後と推測できるからです。
注7.伊東陵潮
七代目 1877(明治10)~1940(昭和15) 享年64 浅草生まれ
注8.桜木町の省電
省電は日本国有鉄道(国鉄)になる前の都市部で走っていた電車をさします。「省」は鉄道省や運輸省が所管していたためです。
注9.釈界
講談界のことです。
注10.一夕
一晩中、ということになるので、お通夜形式で供養を執り行ったと思われます。
●参考文献
・湯本豪一編
『明治期怪異妖怪記事資料集成』
2009年・国書刊行会
『大正期怪異妖怪記事資料集成』
2014年・国書刊行会
拝