こんにちは

 

最近は少なくなりましたが、戦前の新聞には怪異に関する記事がたくさんありました。民俗学者の湯本豪一氏が編集した『怪異妖怪記事資料集成』四巻(国書刊行会)が決定版とでもいうべき大著なので、そこから拾ったものをご紹介します。なお、読みやすくするため、意訳したものになります。

 

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怪談の会と人(三)

  大正8年7月6日 / 都新聞

 

 会主は河野代議士であった。提案者はその頃報知新聞記者だった鹿島桜巷君で、参加者は文士、新聞記者が主だった。予め通知がしてあり、思い思いの趣向を持ちこむことになっていた。幹事側でもいろいろ用意してあり、広場の正面に位牌を置いたり、参加者が左右に座り食べる料理も怪談に関係したもので、白梅園の板前が工夫したものだった。板付き蒲鉾に紅を塗り戸板返し、わさび芋の上に紅を流し血の塊、骨入れの曲げ物に、西洋菓子の砂糖ボウロを入れて白骨に見せたもの、一つとして気味の悪くないものはなかった。料理が済むとくじ引き、それによって当たる景品もいちいち怪談じみている。それが終わると一人ひとりお化けの部屋を回るのだが、屏風の陰に出刃包丁と女の髪をまき散らした部屋、血を流した廊下、蚊帳の中の幽霊など、種を割ればバカバカしい偽物だが、雰囲気作りをしているので怯えないものはなし。前後の風呂桶には男の首が一つ浮いているだけだったが、ものすごいものだった。この時幽霊をやったのは白梅園の娘で、今は市川の松桃園の内儀となっている。やせぎすの背の高い女だったので、気味が悪かった。
 京橋の画博堂で怪談会をやって、話が余りに気味が悪かったため、参加者の一人がその場で卒倒し、それが因で冥土の旅立ちをしたことがあった。芝居の人たちも折々怪談会をやる。近年では菊五郎(六代目)の家でやったと聞く。これはお化けの本家たる五代目の跡をうけた人であるから、当然の催しであろう。

 

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 怪談会での凝った演出は、25回「千歳座の幽霊會」でもご紹介しました。料亭などは板前さんがいることがあり、腕の“ふるいどころ”だったようです。令和の人間が聞くと凡庸な演出も多いのですが、大正の精一杯の技をつくしたものでした。 

 後段の「画博堂で怪談会」は、46回目の「怪談お祟り」で扱ったものです。田中河内介の怪談にかかわる話ですね。

 記事では六代目尾上菊五郎は「当然の催し」としていますが、実はお岩さまを演じたのは1回だけだと言います。当代の七代目菊五郎も(調べたかぎり)お岩さまは演じていないのです。音羽屋の藝と言いますが、雲行きは変わりました。怪談は歌舞伎や落語で仕掛けと共に楽しむことは多く、火の玉はアルコールを燃やす“焼酎火”といいます。大蝦蟇の演出もあります。後見とよばれるスタッフが補助的な役割として、こうした小道具を扱います。

 

▲河野広中  ※Wikipediaよりお借りしました

 

注1.河野代議士  

河野広中こうのひろなか 1849-1923 福島県にあった三春藩の郷士出身で、戊辰戦争では「裏切り」と呼ばれつつも、小藩の生き残りをかけて奥羽列藩同盟から官軍へ鞍替えする橋渡し役として板垣退助に会見し、実現します。明治になり板垣とともに自由民権運動に身を投じます。代議士として国政に参加し、衆議院議長、農商務大臣などをつとめました。
注2.鹿島桜巷

1878-1920 作家・新聞記者 鹿島神宮の宮司の家に生まれ、地元紙を経て報知新聞社にて記者をしながら小説を書きました。42歳で亡くなっています。
注3.市川の松桃園

かつて京成真間駅(当時は京成新田駅)南口を出たところにあった割烹料亭です。市川は大正までは桃林が名所でした。戦争で木々は伐られ畑にされたため、現在は残っていません。松桃園は十七代目中村勘三郎の母である山本ろくが切盛りしていたことで知られ、勘三郎も一時期市川に住んでいたそうです。
注4.戸板返し『四谷怪談』に出てくる演出で、民谷伊右衛門が流れてきた戸板をひっくり返すシーンで使われます。お岩さま、小仏小平(殺された按摩)、骸骨の早替りのことです。顔にあたる所にあけた穴から役者が顔を出し、二役早替わりをします。
 

▲映画『東海道四谷怪談』1959年・新東宝  ※Wikipediaよりお借りしました
 
注5.六代目菊五郎
1885-1949 初代中村吉右衛門とともに、いわゆる「菊吉時代」の全盛期を築いた。父は五代目菊五郎、母は柳橋芸者だったので、いわゆる権妻(妾)でした。十七代目勘三郎も妾腹であったことから、かわいがり娘と結婚させたとのことです。
注6.五代目菊五郎
1844-1903 明治時代に活躍した歌舞伎役者。屋号は音羽屋。九代目市川團十郎、初代市川左團次とともに、いわゆる「團菊左時代」の黄金時代を築きました。怪談ものも上手と言われ、四谷怪談などの名演が評判をとりました。
 
怪談の会と人(四)に続きます
 

●参考文献

湯本豪一編

『明治期怪異妖怪記事資料集成』2009年・国書刊行会

『大正期怪異妖怪記事資料集成』2014年・国書刊行会