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最近は少なくなりましたが、戦前の新聞には怪異に関する記事がたくさんありました。民俗学者の湯本豪一氏が編集した『怪異妖怪記事資料集成』四巻(国書刊行会)が決定版とでもいうべき大著なので、そこから拾ったものをご紹介します。なお、読みやすくするため、意訳したものになります。

 

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怪談の会と人(一)

  大正8年7月4日 / 都新聞

 

 お盆が近づくと各所で怪談会の集まりが催される。秋になると一層それが盛んとなる。怪談会をやたらと催したがる人は河瀬蘇北君で、怪談の保護者のような人、怪談を物語りたがるのは鹿塩秋菊君で、お化けの生まれ変わりのような人だ。新派の喜多村緑郎君も怪談については一方の雄将である。小説家の泉鏡花君も怪談の親玉である。怪談を最も巧みに書く人が鏡花君であることはまちがえない。喜多村君が怪談を最も巧みに物語ることも相伍して劣らない。喜多村君はしみじみと語る。他の人がするように形容詞などは殆んど言わないで物語る。そして話の種が非常に多い。鏡花君はたいていの場合、怪談を語らず、ただ人々の物語るのを丁寧に聞いている。この人は怪談の材料がないのかと思われるほどだ。ところが時折静かな声で趣のある怪談をする。琵琶の永田錦心君も怪談に興味を持っている。真面目な相談事でもするように実見の怪談をきちんきちんと物語る。思いのほか、人の心をひきつける力を持っている。鹿塩君の怪談はいつまでも続くところに妙味がある。聴き手があきていようと一切無頓着である。私はお岩様にあったことがある。四谷の左門町で真夏の真昼間の二時でしたなどと真剣に言って人を驚かせる。鏡花君、喜多村君、鹿塩君はまさに怪談三人男と名づけることができるだろう。

 

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 喜多村緑郎というと、先日“お騒がせした”方を思い出すかもしれませんが、あれは二代目さんです。初代の喜多村氏は後年人間国宝になられた方ですが、怪談好きなのです。明治から大正にかけて起きた怪談会ブームの火付け役の一人でした。この記事では「怪談三人男」の“尊称”をいただいているわけです。後進の初代水谷八重子は「稽古はこわかったが、親切に教えていただいた」と語り、ふだんは洋食をおごり、コーヒーを愛する紳士だったことを伝えています。役作りは派手さはおさえ、地味だったといいます。新派のもう一方の雄、河合武雄とは好対照でした。

 都新聞は怪談が好きらしく、この後に3回(全4回)特集記事を組んでいます。このことは百物語研究の第一人者である東雅夫も指摘しているところです。紙面は当初から芝居や寄席演芸、花柳界関係(いわゆる「芸事」げいごと)に強かったため、その傾向は休刊まで続きました。

 

喜多村緑郎(初代)   ▲※Wikipediaよりお借りしました

 
注1.    河瀬蘇北  
出生地、生没年不詳。本名龍雄。大正から昭和の初めにかけて十数冊の著書があります。『日本反動思想史』『日本労農二千年史』『現代之人物観無遠慮に申上候』。一番得意なのは中国論で、『満州及支那辭典』は近年復刻されています。
注2.    鹿塩秋菊 
本名蕉吉、深川三十三間堂管理者の一族出身。川尻清譚の弟に当り、雑誌 「歌舞伎新報」を復刊した人です。清譚は歌舞伎研究家。
注3.喜多村緑郎  
1871-1961 新派を代表する女形で、東京都生まれ(今の浜町) 1896年、高田実らと成美団を結成、「瀧の白糸」が好評を博しました。その頃に大阪の朝日座と角座が中心だったのです。1917年ごろから新派の三党目と呼ばれるようになります(伊井蓉峰・河合武雄)。1955年、人間国宝になりました。
注4.    泉鏡花
1873-1939 日本の小説家。明治後期から昭和初期にかけて活躍しました。小説のほか、戯曲や俳句も手がけました。金沢市下新町に生まれ、尾崎紅葉に師事し、『高野聖』で人気作家になりました。江戸文芸の影響を深く受けた怪奇趣味と特有のロマンティシズムで、幻想文学の先駆者としても評価されています。ほかの主要作品に『照葉狂言』『婦系図』『歌行燈』などがあります。
注5.    永田錦心 
1885-1927 明治時代から大正時代にかけての薩摩琵琶演奏家、日本画家。錦心流一水会を興し、琵琶の大衆化をすすめました。絵画も文展などの出品、入選する作品も残っています。
注6.    四谷の左門町  
新宿区の南部に位置する町、四谷三丁目、須賀町、信濃町、大京町に接しています。江戸時代、鶴屋南北による『東海道四谷怪談』に登場する「お岩さま」が居住していた地としても知られ、於岩稲荷田宮神社が鎮座しています。町名の由来は、この辺一体が茅野であったのを幕府の御先手組の組頭であった「諏訪左門」が開地して組屋敷地としてことから「左門殿町」と呼ばれ、明治期になり左門町となったそうです(東京名所図会)。

 

▲左門町の位置  ※GoogleMAPよりお借りしました

 
 
怪談の会と人(二)に続きます
 

●参考文献

湯本豪一編

『明治期怪異妖怪記事資料集成』2009年・国書刊行会

『大正期怪異妖怪記事資料集成』2014年・国書刊行会

東雅夫『百物語の百怪』2001年・同朋舎