こんにちは
最近は少なくなりましたが、戦前の新聞には怪異に関する記事がたくさんありました。民俗学者の湯本豪一氏が編集した『怪異妖怪記事資料集成』四巻(国書刊行会)が決定版とでもいうべき大著なので、そこから拾ったものをご紹介します。なお、読みやすくするため、意訳したものになります。
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怪談お祟り
大正8年7月22日 / 都新聞
怪談会で恐ろしいつくりものをせぬようにというのは、幹事の鏡花氏の注文であった。怪談好みのくせにイヤだというのには理由があった。きっと祟りがあるというのである。
京橋中通りの画博堂で怪談会の催しがあった時、17時ころに髭の生えた年配の人が来て、飛び入り参加できませんかという。それはどうぞ、ただ1時間早いのでというと、出直してきますといって去った。18時ごろ、彼は切子灯篭を2つ持参してきた。どうぞこれを精霊様におあげくださいという。画博堂は三階建て、会は三階でやることになっていた。三階の梯子の際にお精霊様が祀ってあるので、そこに供えた。そうこうするうちに夕飯が出た。それは蓮の葉でくるんだ精霊様のお供物同様の品であった。薄気味悪いがみな食べている中、灯篭を持ってきた人だけは食べなかった。夜は更け、一人帰り二人帰り、灯篭の人が私も一つ怪談をいたしますと言った。その時は喜多村、鏡花、秋菊、鈴木鼓村しかいなかった。(判読できな部分があり、中略します)バッタリ倒れてしまった。下の階に下ろし、介抱したが三十九度の熱がある。連絡先もわからぬので、朝まで介抱していたが、家人が来て連れて行った。病院で亡くなったという。遺体の袂には蓮の飯がそのまま入っていたという。泉さんはこのことを気にしている。
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記事には出てきませんが、有名な「田中河内之介の死にまつわる怪談で死者が出た」お話です。怪談会で死人が出たことが泉鏡花にとってはショックであり、作り物などの派手な演出はひかえようとするきっかけになったという内容です。
田中河内介は但馬国出石郡の医者の息子として生まれ、儒学者として大成せんと励み、公家中山忠能に仕え、後の明治天皇になる祐宮の教育掛をつとめた人物です。きびしい情勢の中、今すぐ王政復古を、とうったえる志士となります。公武合体を推進する薩摩藩主島津久光が藩内の尊王攘夷派を抑え込もうとした寺田屋事件において、主たるメンバーではあったのですが、薩摩の人間ではないことが災いとなりました。死者も出たこの事件はあくまで藩の内紛で済ませたい久光のおもわくもあり、薩摩と関係ない人たちを“闇討ち”にしたのです。直接久光と談判できるという約束を信じた河内介は船で薩摩へ向かう途中、息子共々惨殺されました。遺体は小豆島にたどり着き、現在も関係者の手でお墓が守られています。この惨劇を話すと死を招くという風聞が確立したのが、画博堂で起きた事件でした。「田中河内介顕彰会」のサイトでは、怪談じみた話になっていることに遺憾の意をお持ちのようですが、真剣に国の未来を憂えていた方なので、当然ですね。
次回以降も「怪談会」系の記事をご紹介していきます。
注2.京橋画博堂
注3.年配の人
注4.切子灯篭
注5.精霊様
注6.蓮の飯
注7.喜多村
注8.秋菊
注9.鈴木鼓村
●参考文献
湯本豪一編
『明治期怪異妖怪記事資料集成』2009年・国書刊行会
『大正期怪異妖怪記事資料集成』2014年・国書刊行会
拝